朱塗りの盃を傾けてほぅと色めく息を吐く。 綿帽子の中から傍らに座る犬夜叉をちらりと見遣れば、口をへの字に曲げて目の前の楓ばあちゃんを睨み頬を赤くしていた。 あたしの視線に気付き目を合わせると、すぐさま逸らしてむず痒そうな、難しい表情をする。 たくさんの人からの祝いの声といつもより固く繋いだ手の温かさに思わず涙が溢れて、彼に寄り添いながら綿帽子と深緋色の肩口にそっとそれを隠した。 *** 敷かれた一組の布団の上。 どこに視線を定めればいいのかも分からずに、瞳だけを右往左往させる。 昼間口にした御神酒の熱はとうに消えたはずなのに、身体も顔も火照るように熱くて自然と目の淵が潤み出す。 それなのに両手の指先は震えるほどに冷えていて、それを胸元で忙しなく絡めては袷を握る。 ぎしりと軋む足音が聞こえて思わずびくりと身体が震えた。 犬夜叉の息の音や衣擦れの音、それと足音が少しずつ近づくたびにあたしは身を縮める。 彷徨わせていた視線も自分の膝頭から動かせない。 ふたりで暮らすには十分な広さ。 けれどもここは家の中。 ここまでの距離などたかが知れている。 ましてや犬夜叉の歩幅だ。 三、四歩も進めてしまえばここまで辿り着くような距離や時間が、途方もなく長くて永い。 自分の息の音は聞こえないのに、視界の隅で灯る明かりのちりちりとした音は聞こえる。 空気の温度も匂いも分からないのに、犬夜叉が動くたびにそれが肌を撫でるのは分かる。 もう、全ての感覚がどうにかなってしまったようで、感じたことのないものたちにあたしは襦袢を指先が白くなるほどに握りしめた。 「かごめ」 いつの間にか側まで来ていた犬夜叉が、向かい合わせに同じ布団の上に胡座を掻く。 薄い布団が更に沈み、ぎぃ、と床が軋んだ。 膝頭で、白んだ指先で、すぐそこにある熱を感じる。 あぁ、なにかいわなきゃ。へんじを、しなきゃ。 回らない頭で珊瑚ちゃんに言われた言葉を思い出しながら、強張る白い指先を布団についた。 『大丈夫、犬夜叉に、旦那様に任せな。よろしくお願いしますって。大丈夫だから』 何度も大丈夫、と言いながら彼女に摩られた肩の温かさなど忘れてしまうほどに身体が熱くなる。 胸とお腹のずっと奥の方で、何かが湧いては心臓を震わせる。 からからになった口を必死に動かしながら、絞るように声を出した。 「……あ、あの、……犬夜叉………これから……よろしく、お願いします……」 そっと頭を下げると肩から落ちた黒髪がぱさりと音を鳴らした。 「あぁ……」 固く低い声が聞こえて、黒い御簾の中でちらりと見えた犬夜叉の拳は膝の上できつく握られていた。 その節くれだった部分が先ほどの自分の指先と同じ色をしている。 あぁ、犬夜叉も緊張しているのだろうかとぼんやりそれを見つめると、もう一度低く名前を呼ばれた。 「かごめ」 「っ、はい、」 そろそろと顔を上げるが、依然として目の前を見ることはできずに、ふたりのちょうど真ん中の見えない境界線を辿るように視線を這わせた。 いつも通りに彼の瞳を見ることができない。 夜空に浮かぶ月のような瞳を白い布団の上に思い描いてはきゅっと目を閉じる。 そんなことをしていると犬夜叉は燻ったものを吐き出すようにため息をつき、がしがしと頭を掻いた。 そのひとつひとつに、ひくりと身体を震わせ唇を結ぶ。 そんなあたしに犬夜叉は戸惑うように言葉を詰まらせながら、歯切れ悪く呟いた。 「あー……あのなぁ、んな緊張されっと、その……手ぇ出したくても出せねぇっつうか……触ることもできねぇんだが………」 「え、あ……あ、あの……ご、めん……」 顔が有り得ないほどに熱い。 初めて井戸を通ったときも、妖怪を目の前にしたときも、幾度となく殺されそうになったときも、こんなに緊張することなどなかった。 それがなんでこんなときに、こんなにも緊張などするのだろう。 再び襦袢の裾を握りしめたとき、犬夜叉がふと落ち着いた声で言った。 「……今日は止めるか」 わざとらしく深くため息をついたかと思えばそんな言葉が聞こえて、聞き間違えかともう一度聞き返す。 今日はいわゆる新婚初夜で、この日のために恥を承知で珊瑚ちゃんにいろいろと聞いたのだ。 とはいえ、彼女からは先の言葉しかもらえなかったのだが。 それでも心の準備は十二分にしてきたはずだ。 こちらに舞い戻り犬夜叉に抱き締められたときから。 否、想いを馳せていたあの頃から、意識はせずとも心の奥底のどこかで。 それなのにこの場で“止める”などという言葉が出てこようとは。 あたしは一度二度と瞬きをするとぱちりと目を開き犬夜叉を見つめた。 *** 「え……?」 戸惑うような声と共に、まさかそんなことを言われるとは露ほどにも思っていなかったと、丸く開いた瞳で見つめられる。 そんなかごめに念を押すようにしてもう一度繰り返し言うと、震えた声で理由を聞かれてたじろぎながら丸い瞳から目を逸らした。 「止めるかって言ったんだ」 「なん、で……?」 「や、なんでって、お前、そんなだしよ……」 旅をしている最中でもこんなにも震えるかごめを見たことはなかった。 出逢ったときからこいつは肝が据わっていた。 いつだって、どんなときだって、どんなものにだってこいつは臆することなく凛とした姿を見せていた。 それがどうだ。 そんなかごめがおれの前で、おれと一夜を共にしようとすることに、指を白くし声まで震わせているのだ。 触れたくとも触れられないのは当たり前だろう。 まぁ、初めてのことを目の前にして、何よりも他でもないかごめと結ばれることに、おれだってこの手が震えそうになるのを必死に抑えているのだが。 それとも今になって“おれ”が怖くなったのか……。 心に落とした薄暗い影にぐっと眉根を寄せた。 まさかと思い悩んでいるとそれを吹き飛ばすように、かごめが勢いよく身を乗り出して緋袴を掴んできた。 「え、や、やだ!」 「っ、え、おい、やだって、」 「ちゃんと、できるもん!大丈夫、大丈夫だから……」 「いや、ちゃんとって、お前」 「お願いっ」 袴を掴む手は白く小さく震えていて、意外にも力強かった。 震える細い肩だけでなく、そっと包むようにして触れた指先までひんやりと冷えている。 “やだ”だの“ちゃんと”だの、一体こいつは何を焦っているんだろう。 薄暗い影はやんわりと姿を隠したが、おれの考えの至らないところでかごめが心苛まれるような物事があったのかと思うと、ざわざわと胸の奥が騒いだ。 それでも潤んだ瞳で強請られてそれ以上、否ということはできなかった。 「…………あとで泣きごと言うなよ」 かごめにも、おれ自身にも言い聞かせるように呟くと、かごめはこくりと静かに頷いた。 *** 頬に添えられた手でそのまま優しく輪郭をひと撫でされる。 それを合図に目蓋を閉じると、熱く、意外にも柔らかな唇がそっと触れた。 離れると同時にうっすらと目を開くと、揺れる金色が見えてその熱量に堪らず再び目を閉じた。 繰り返される口付けはその度に深さと角度を変えて、漏れる吐息も帯びる熱も、耳を突く水音も増していく。 そっと寛げられた袷から硬い皮膚の熱い手が滑るようにして入り、鎖骨を撫でられそのままやんわりと胸を包まれた。 「っ、」 初めて触れられたそこは、長い爪に彩られた指を沈ませ、包むようにしながら形を変えた。 怯え撫でるように触れていた手は少しずつそこに籠る力を増していく。 思わず漏れそうになった声を殺して息を飲む。 いくら室内が暗いとはいえ犬夜叉には見えているのだろう。 仮に見えずとも自分の身体に彼が触れているというそれだけで、恥ずかしくてその先を想像しては怖くなって、もうどうにかなってしまいそうだ。 漏れてしまう吐息すら恥ずかしくて自分ではないみたいで、顔を隠すようにしながら手の甲を口元に当てる。 耳朶の少し後ろから首筋へと唇が滑り、そのままそっと押し倒されると左の鎖骨の根元の辺りでちゅぅ、と聞こえてぴりりと皮膚が痛んだ。 「かごめ……」 間近にあった熱がふと離れて真っ直ぐな瞳があたしを写す。 潤む瞳で必死に視線を絡ませると、その金色を隠すようにしてゆるりと瞬きし、あたしの頬を一筋撫でた。 「い、ぬやしゃ?」 「……ばか野郎」 掛けられた言葉に目を瞬く。 ふたりしかいない家の中。 場にそぐわない言葉はもちろんあたしへのものだ。 人が必死に恥ずかしさも怖さも、いろんなものを抑えて身を差し出したのに、一体この男はなんていうことを言うのだ。 「ばかってなによ」 「んなに震えてんのに、何が大丈夫だ……」 ぎゅうっと抱き締められて肌蹴た素肌に少し固い衣が擦れて、くぐもった声が首筋と髪を撫でた。 何かを堪えるように抱き締められた腕の中で、あたしの指は小さく震える。 その指先を同じように震えるもう片方で握りしめゆっくりと一つ息を吐いた。 「あたし、平気よ」 嘘だ。本当は怖くてたまらない。 この先の痛みに、だけではない。 自分がどうなってしまうのか。 何より自分と犬夜叉の関係性はどう変化していくのか。 初めての行為に対してだけではなく、その先のふたりのことにまでこんなにも気を揉むだなんて。 痛くて泣き叫んで嫌われたらどうしよう。 上手にできなくて呆れられたらどうしよう。 こんな怖さも緊張も恥ずかしさも全部バレて、面倒だと思われたらどうしよう。 犬夜叉がそんな人でないことはちゃんと分かっているはずなのに、未知のことへの不安とあちらで聞いていた悪い話がごちゃ混ぜになって、この胸に荒波を立てた。 そんな不安も怖さも犬夜叉には知られたくなくて、震えそうになる声で必死に返事をしたのに、彼はあっさりとそれを跳ね除けた。 「平気じゃねぇだろ」 今度は瞬きせずに見つめられて、そこから目を逸らせない。 その瞳にこれ以上嘘はつけなくて、それでも“平気じゃない”などとは言えなくて、言い訳するような短い言葉出る。 「でも、」 「でもじゃねぇ」 「だって、」 「だってでもねぇ」 そのどれもを一掃されて居心地悪く視線を逸らし、濃藍に光る念珠を見つめる。 そして言葉をなくし唇を結ぶとため息をついて、両手であたしの頬を包んだ。 「かごめ。お前が何に焦ってるかは知らねぇがこんな震えて平気だなんて言うな。おれは頭はよくねぇが、こんなお前と契っていいわけじゃねぇくらいのことは分かる」 「でも、夫婦になったのに……」 「夫婦になったからってすぐにしなきゃいけねぇわけじゃねぇだろ」 「でも……」 「あのな、これからお前はずっとここにいてくれんだろ?」 でもでもと眉尻を下げて目の淵で涙を膨らますあたしに、言い聞かせるようにして優しく言葉を紡ぐ。 込み上げるものに喉がつかえて上手く声が出せなくて、代わりに大きく頷くと嬉しそうに金色の瞳が細くなった。 「そしたら焦ることはねぇ」 「いぬやしゃ……ありが、と」 「あぁ」 「だい、すき」 「ん」 細めた目尻に涙が溜まり蟀谷を伝う。 隠すようにして犬夜叉の肩口に顔を埋め、衣を握るとそれに応えるようにして抱き締められた。 添うように髪に触れる頬も包む手のひらも温かい。 とくとくと鳴る心音に耳を寄せ、あたしは微睡みの淵へと身を委ねた。 透明な夜 |