“犬夜叉、犬夜叉”

 きらきらと光るその先で、緑のスカートを翻しながら知らない名前を呼ぶ。
 いや、知らないわけではないのだ。きっと。
 自分の名前ではないそれを呼ばれるたびに胸が軋む。
 何か大切なこと。ひどくひどく、大切なこと。
 何を差し置いてでも思い出さなければいけないような気がしていること。
 記憶が絡まり縺れる。
 優しい声の奥に、懐かしい笑顔が見えた気がした。

  ***

 寝惚け眼を擦りながら、手探りに掴んだ目覚まし時計は、まだ予定より十五分も早い時間を指していた。
 もうひと眠りするには短くて、眠ってしまえばそのまま寝坊してしまいそうだ。
 枕に顔を埋め、悩むように唸り声をあげた。
 そしてひとつ大きな欠伸をして、がしがしと頭を掻く。
 仕方ない。早めに準備をして早めに出るかと、眠ることは諦めてベッドから抜け出した。
 カーテンを開けた窓の向こうには制服を着た学生や、スーツ姿のサラリーマンがまばらに行き交う。
 そう言えば最近、よく変なガキに付きまとわれていた。
 どうやら近くの神社のガキらしいが、初めて会ったときからやたらと人懐っこい表情で、おれの周りをうろうろしていた。
 会うのは大体決まって朝、学校までの道程だ。
 そうだ。それならばいつもより早くに出れば、あいつにも会わないで済むかもしれない。
 嫌いなわけではないのだが、会うたびに馴れ馴れしく話しかけられ、近付いてこられるのはさすがに煩わしい。
 近頃では声を聞くたびに、姿を見るたびに、俺は毎回眉根を顰めていた。
 (そういえば……)
 ふと思い出したあいつの笑顔が、夢の中の笑顔と重なった気がした。

  ***

 まだ日は長く、それでもそろそろ夜が長くなり始める季節。
 痛いほどに眩しい夕焼けが辺りを染める。
 やはり読み通り早くに出たからか、今朝はあいつには会わなかった。
 よしよし、と思いつつ夕陽を背負い家路を急ぐ。
 別段と用事があるわけでもないのだが、平日最後の金曜日。
 どことなく早く家に帰りたかった。
 それになんとなく、早く帰った方がいい気がする。
 自分のこういう勘はよく当たるのだ。

 家まであと少し。
 近所の公園を通りかかったそのとき、『あ!』ともう嫌という程に聞きなれた声が聞こえた。
 思わず足を止めたことを後悔する。
 掛けられた声に振り向く前に、大きなため息をひとつ。
 駆け足の音が聞こえてすぐに、袖を摘まれてじとりとそちらを見ると、おれとは正反対の明るい顔がそこにはあった。
 前言撤回。
 おれの勘は時々外れる。
 今日はむしろ、少し遊んで帰った方がよかったのかもしれない。

 「……なんだよ」

 「今朝は会わなかったわね。遅刻?」

 「ちげぇよ」

 お前に捕まるのが嫌で早く出たんだ。
 そうとは言わなかったが。
 できるだけ早く切り上げたくて、否の言葉だけを返す。

 「そっか。ならよかった。ねぇ、このあと何かあるの?」

 「別に……」

 「じゃあ、少し話しましょ?」

 嫌だと拒否する間もなく、掴んだ袖を引っ張られる。
無邪気な笑顔が今朝の夢と重なって、小さな手を振り払うこともできずに、引き摺られるようにして公園の中へと入っていった。

  ***

 「あたし、あんたが好きよ」

 なぜそんな話になったのか。
 脈絡のない会話に、横並びのぶらんこに腰掛ける少女を見た。
 つい先程まで今日はテストがあっただの、明日は家の手伝いをするだのと、世間話程度のことを話していたはずだ。
 それが、どういう話の流れでそんな言葉が出てきたのだ。
 うつろぐ会話は女であれば年齢など関係ないということか。
 それともおれの気のない返事に飽きたのか。
 少女からの初めてではない言葉にいつもの調子で返した。

 「あんたって、おめぇな、おれは十七だ。おめぇより年上なんだよ。少しは敬いやがれ」

 ぶらんこに座る生意気な口調の少女の額を、ぐりぐりと人差し指で押してやる。

 「んもぅっ、痛いったら!何するのよ!それにお前じゃないわ、かごめよ!」

 「へーへー。お前が生意気だからだろ。それにな、おれを好きだのなんだのっつぅなら、もうちっとでかくなってから出直してきな」

 話は終わりだと、掛けていたぶらんこから立ち上がり知らせる。
 一瞥もせずに少女に背を向け、『暗くならないうちに帰れよ』と背中越しに声をかける。
 いつもであればここで何か一声あるはず。
 それにおれは軽い返事をひとつ、ふたつ返すのだ。
そうして拗ねた声を聞いて、『じゃあな』と手を振り帰るだけ。
 それが今日に限っては背中にぶつかる声は何ひとつ聞こえない。
 いつもと違う様子がどうにも気にかかり、ふと振り返ると、俯く少女の黒髪が音もなくさらりと流れた。
 夕陽が作る影は、先ほどよりも細く長く伸びている。
 隠れた表情と沈黙に不安が芽を出した。

 「おい……」

 そろそろと近寄り、声をかけると勢いよく顔が上がった。
 くりくりとした大きな瞳と目が合い、伸ばしかけた手を止める。
ようやく見えた表情は必死の笑顔を作る。
 優しく垂れた目尻の長い睫毛は震えていた。
 ランドセルを背負った、まだ年端もいかない少女とは思えぬほどの表情に息を呑む。

 「…………あたし……また逢えて、嬉しかったの……今のあんたには、わからないかもしれないけど……」

 少女が握った手すりが軋み、きぃと小さく音を鳴らした。
 ひとつひとつの言葉を噛み締めるように話す声が胸を刺す。

 「この姿ならね、今度は本当に……本当に最期まで、一緒にいられると思ったの………でも、ごめんね」

 『犬夜叉』と夢の中でも聞いた名前が、悲しげに微笑む少女の口からぽろりと零れた。
 その声に、呼ばれた名前に、夢の中の朧気な姿をありありと思い出した。

 震える唇が、あの時と同じ名前を紡ぐ。
 初めて呼んだ名前のはずが、ひどくこの唇には馴染んで、切なげに声が揺れた。
 かごめは俯いていた顔を上げ、わずかに首を傾げながらおれを見る。
 たどたどしく歩みを進めると、不格好な足音と共に砂埃が小さく舞った。
 感覚も忘れるほどに急に冷えた指先を向けながら、ようやく小さな頬に触れた。

 「かごめ……」

 呼んだ名前に呼応するように、大きな瞳は涙の幕を張る。

 「犬、夜叉……?」

 「っ、あぁ……」

 瞳はゆらゆらと歪みながら、大粒の涙をほとほとと零し、震える睫毛がそれを隠した。
 必死の笑顔を作っていた唇も、今は苦しげに噛み締められている。
 その隙間からは、もう止めようのない嗚咽が漏れていた。

 かごめは、いつからこうしていたのだろう。
 おれの知らないところで。
 おれの手の届かないところで。
 どれほどおれの名前を呼んだのだろう。

 「犬夜、しゃぁ……っ」

 「あぁ」

 涙に濡れた名前は、どうしようもない想いを抱える。
 頬に触れた指先を縋るように小さな手が掴む。
 その手のひらは、昔と同じように温かくて、滲む熱に鼻の奥が痛んだ。

 「かごめ……待たせたな」

 『すまねぇ』と親指の腹で涙を拭うと、小さく頭が振れた。

 「待たせたのは、あたしの方よ……っ、」

 これほどまでに涙は溢れるのか。
 目の縁から次々に流れる涙は、頬に当てた俺の指を越えて、ぱたぱたと砂の上に落ちていく。
 夜を含み始めた風がそこを撫で去るたびに、濡れた熱を攫う。
 それでも冷えたところを温めるように、次々に涙が零れては落ちた。
 堪えようと瞬きするたびに、睫毛の先が夕陽に輝く。

 「かごめ」

 額を合わせて、すぐそばで名前を呼んだ。
 擦れた自分の鼻先は以前のように冷たくも、湿ってもいない。
 それが少し物悲しくて、それでも流れた涙の温さが心地よかった。

 「犬夜叉」

 もう、呼ばれた声は昔のようによくは聞こえない。
 掠める匂いも昔のようによくは匂えない。
 昔のように彼女を守れるだけの力もない。
 それでも――――
 同じように名前を呼ばれた。
 同じ匂いが香った。
 爪のない手を同じように包まれた。
 どれほど時代ときを越えようとも、かごめはかごめだった。
 溢れる想いに胸が押し潰されそうになる。

 優しく呼ばれた名前に揺れる瞳を見つめる。
 懐かしい緩く弧を描く目尻は今はきつく伏せている。
 けれども寄せられた眉根には想いが滲んでいた。
 触れ合った頬は温かい。
 堪らず零れた涙がかごめのものと、絡んだ睫毛の先で混ざって落ちた。
 砂の上に重なる滲みに、もう一筋涙が流れる。
 今は同じ黒髪が、風に揺れた。



  








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