弾む息は色を変えて、昇りながらも辺りの雪面に溶けては消える。
 しんしんと降り積もる雪は、春には青々とする地面を隠し木の根をすっぽりと覆っていた。
 細い枝の先に小さく積もった雪が、その重さにぽすりぽすりと音を立てて雪面へと落ちては混ざる。
 揺れる肩を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吸って、吐いて。
 身体に篭った熱を逃がしながら深呼吸を繰り返し、ようやく一息つくと先ほどまで捻るように痛んでいた心臓に手を当て、一歩二歩と足を進めた。
 意外にも深い雪面は、コンクリートだらけの世界で育った私には少し歩きづらい。
 もう見慣れた木の枠に積もった雪を払い、そっと指を添えるとそこはしっとりと冷たく、まるで今の自分の頬のように濡れていた。
 覗き見た井戸の底は薄暗く沈黙を守っている。
 吸い込まれるように降る雪の間を縫いながら、涙が一粒零れ落ちた。
 多分今頃、向こうの世界は華やかなイルミネーションや、賑やかで幸せそうな声と表情に溢れている。
 今更向こうでの物事を羨ましいとは思わないけれども、それでもあの幸せそうな雰囲気を思い浮かべて、独り森の深くの井戸の前で佇む私は、もう一筋涙を流した。

 「迎えになんて、こないよね……」

 そうだ。こんな我儘で可愛げのない女を、いつまで傍に置いておきたいと思うのだろう。
 彼が自分を好いてくれていることも、大切にしてくれていることも、それ故に庇護されていることも分かってる。

 犬夜叉は優しい。
 優しすぎて、その優しさに時々、本当に時々、息が苦しくなる。
 ちょっとした冒険心だった。
 小さな子どもが秘密基地を作るような、そんな幼い冒険心だったのだ。
 こちらに来て犬夜叉と暮らし始めてから、あとひとつ季節を越えればもう一年になる。
 ここでの生活にも慣れて、任される仕事も増えた。
 だからもう一歩。もう一歩だけ自分ひとりで、今よりも少しでいいから先に行ってみたかった。
 犬夜叉から危険だからと、ひとりで行くなと言われていた村の外に足を伸ばした。
 日の短くなったこの時季でもほんの少し、ほんの少しだけならと、軽い散歩程度ですぐに戻るつもりだったのだ。
 ちょこっと歩いて、ちょこっと休んでからすぐに帰るつもりだった。
 それでも彼はすぐさまにあの鼻で、あの耳で私を見つけて、米俵を抱えるようにして家へと連れて帰った。
 そのまま私の言い分も聞かずに、『行くなと言っただろ!』と強い語調で言う彼に、謝るよりも先に思わず反論してしまった。
 その時の自分といえば、まるで言いつけを破った子どものようであっただろう。
 それからは碌に会話もせずに、あんなにも口にしていた互いの名前を呼び合うこともなかった。

 途方もない永さの一日を五回も繰り返した。
 謝ろうと思うことは何度もあった。
 けれどもつまらない意地と犬夜叉の頑なな背中がそれを邪魔した。
 そしてもう何がきっかけだったかも忘れるような些細なことから、それまで張り詰めていた糸がぷつりと切れたのだ。
 それは犬夜叉のものだったのか、私のものだったのか。

 『もういい』と吐き捨てるように言われた声だけが両耳にべとりと貼り付いて離れない。
 あんなにも、数えきれないほどに呼ばれた声を、今は思い出せない。
 ぎゅうと膝を抱えると緋袴に小さく濃く染みを作った。
 こんなことで泣くだなんて卑怯だ。
 悪いのは自分なのに。
 でも、それでも彼に聞いてほしかった。
 私の冒険心のその理由を。

 「ふっ……くぅ……、っぅ」

 先ほどまで汗ばむほどに熱かった身体は上衣越しにも分かるほどに冷たい。
 傘も蓑も私を守るものなど何もなくて、頭に、肩に、背に、指先に、ひたりひたりと大きくなった雪が沁みていく。
 埋もれた足も藁靴をとうに越して、痛いほどに冷えていた。
 じんじんとする爪先を軽く動かすたびに、犬夜叉が買ってくれた足袋が濡れて足に絡みつく。

 「いぬ…、や、しゃぁ……、っ」

 雪にも負けそうなほどに弱々しく呼んだ名前が、抱えた膝の中で響く。
 五日ぶりに呼んだ名前はあまりにも苦しい。
 呟いた名前よりも嗚咽のほうが大きくなった頃、さくりと雪を踏む音が聞こえて、思わずくっと息を止めた。
 止めて尚も、噎ぶような呼吸は静まらない。
 それでもなんとか呼吸を落ち着けて、まさかとは思いながらものろのろと頭をあげ、その方を見遣る。
 するとそこには真っ白な中にぽつりと緋色が佇んでいて、弾むような息が白く舞い上がっていた。

 「……かごめ」

 苦しそうな表情の犬夜叉を見て、また涙が溢れ出し視界を遮る。
 悪いのは私なのに、なんでそんなにもバツの悪そうな声をしているんだろう。
 泣いているのは私なのに、なんでそんなにも苦しそうなんだろう。
 でも。迎えに来てほしい。ここまで来てほしい。私の手を取って、立ち上がらせてほしい。
 そんな私の我儘を利くように犬夜叉はさくりさくりと音を鳴らし、あと一、二メートルというところでぴたりと止まった。
 ふわりと緩く広げられた両腕が、彼の途方もない優しさだ。

 「、いぬ、やしゃ……」

 回らない頭で逡巡し、濡れた顔をぐしぐしと幼子のように袖で拭い、そろそろと立ち上がる。
 濡れた爪先はもう痛いのかどうかもよく分からない。
 零れそうになる涙を、唇を噛み締め飲み込みながら、縺れる足でその腕の中に飛び込んだ。

 「ごめ、なさ…、ごめ、なさ、い……!」

 私を呼ぶ声を五日ぶりに聞いた。
 飛び込んだ腕の中は痛いほどに温かくて、拙く掴んだ背中は震えていた。
 絡んだ腕は締め付けるように私を抱き締めた。

 「かごめ」

 『おれも悪かった』と腕を解くと、そのまま温かく大きな手のひらで、あやす様に背中を叩きながら髪を撫でられる。
 首を振り必死に違うと伝えるが、噎ぶ声は言葉にならない。
 一頻り泣き終えて、漏れる声が小さくなり始める頃に緋色の袖口がそっと涙を拭った。

 「お前、乱暴に擦ったろ。真っ赤じゃねぇか」

 困ったように眉尻を下げて、両手で頬を包むと親指の腹で涙袋を撫でられた。
 思わず閉じた目尻に余った涙が滲む。

 「犬夜叉、ごめんなさい」

 滲んだ涙を舐め取るように唇を寄せ、『もういい』と低く優しく呟く。

 「おれも悪かったんだ。お前の話も聞かずに」

 「違うの、あれは私が」

 「もう終わりだ。今はな。あとは家に帰ってからだ」

 犬夜叉の手を掴む指先は小さく震えて、それが温められた頬に当たって自分がどれだけ冷えていたのか思い知る。

 「こんなに冷やして……女は冷やしちゃいけねぇんだろうが」

 掴んだ指先を解かれてそのまま両手で包まれる。
 綿雪が雪面に融けていくように、凍えた手指に熱が滲む。
 そのままはぁと吐息を掛けられると、寄せあっていた指たちが湿ってはゆるゆると解けていった。

 「………あんたは、優しすぎるわ……」

 そう言うと目の前の瞳が優しく揺らいで目尻が僅かに垂れた。
 包む手のひらも、今は熱い吐息も、いずれこの手に馴染んでいく。
 今はまだ、もう少しだけ、この手の中に納まっていてもいいのかもしれない。
 籠の中の鳥でも、庇護されるだけの子どもでもなく。
 いずれは走って、彼の手を引いて、彼の隣を歩けるようになるまでは、彼の意識の向く範囲で少しずつ歩ける距離を伸ばしていくくらいでもいいのかもしれない。

 「犬夜叉……ありがとう」

 「ん」

 肩に額を預けると愛おしむように頬が触れた。
 霏々として降る雪は相変わらず私を濡らすけど、悴む指先も冷えた頬も震えた声も、今はもうない。
 擦り寄りながら身体を寄せると、もう一度私を呼ぶ声が聞こえた。



  宮線に添ふ









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