「デートがしたい」 「でぇと?」 聞き慣れない言葉に瞬き首を傾げる犬夜叉に、かごめは『そうっ』と頷いた。 薬草を選り分けていた手をぽんと膝に置くと、ふわりと青く苦い香りと共にかごめが香って、犬夜叉は目を細める。 「待ち合わせして、お茶して、ぶらぶらしたりどこか見たり」 「……逢引のことか?」 「そうっ、それ!」 きらきらとした瞳で見つめられて犬夜叉はうーんと頭を捻る。 ふたりでぶらぶら、と言うのであればつい先程もして来たばかりだ。 ここから少し離れた(とはいえ人の足では二、三日かかる)山の上にしかない薬草を取りに行き、帰りには行きがけに見つけた花畑ではしゃぐかごめを見たり、成っていた珍しい実をもいだり、暫し昼寝をしたりして楽しんだ。 それではないということか。 「町に行きたいのか?」 考えあぐねた末に犬夜叉が言うと、かごめもまた犬夜叉と同じようにうーん、と考え始めた。 「んー、そういうんじゃないのよねぇ……いつもと違うことがしたいっていうか……」 少し斜め下を見ながら唇に当てた人差し指をとんとんと叩くのは、何かを考えるときのかごめの癖だとここ最近気が付いた。 遊ぶような指先の動きを犬夜叉は追いながら次の言葉を待っていると、かごめは思いついたように突き出していた唇を開けて、きらきらと目を瞬かせた。 「そうだ!待ち合わせしましょ!」 *** 『じゃあ明日、午の刻に』とかごめが指定したのは、隣の村へ行く道の中程にある茶屋だった。 犬夜叉は遠出をすると時折そこの団子を土産だと買ってきていた。 それをかごめが喜びながら大きな口を開けて頬張る姿が好きだった。 そういえばこの間の草団子は美味かったと、犬夜叉は餡に混じる蓬の香りを思い出した。 「じゃあ、私、先に行くわね」 「おう」 朝からいそいそと支度をし、いつもよりも楽しげなかごめの瞳に、犬夜叉は短く返してその後ろ姿を見送った。 これから待ち合わせをして“でぇと”をするのだと言う。 いつも通りこの家から一緒に出掛ければいいものの、なぜそんな面倒なことをするのか、犬夜叉には皆目検討もつかない。 しかしながら昨日からのかごめの嬉しそうな姿を見て、かごめが喜ぶのならまぁいいか、と納得したのだった。 とことん妻には甘いらしい。 頃合いを見て犬夜叉が外へと出たときには、もうすでにかごめが家を出てから陽は高く昇っていた。 穏やかに煌めく陽射しを見上げてから、犬夜叉は軽い仕草で高く飛ぶ。 そこらの木々よりも高く高く。 抜けるような青い空に銀髪が靡き、緋色が浮かぶ光景はなんとも鮮やかだ。 犬夜叉にしてはのんびりと木々を渡りながら、目的の茶屋に着く。 覗き見た店の中に客はおらず、軒先の腰掛けに旅人がひとりと中の方には見知った老婆がひとり座っているだけだった。 すん、と鳴らした鼻でかごめの匂いを辿る。 まだここからは幾分離れているようだ。 かごめの足ではあと四半刻といったところか。 約束した午の刻はそろそろだ。 『待ち合わせして、お茶して、ぶらぶらしたり――――』 昨日のかごめの言葉を思い出し、犬夜叉は空いていた店先の左側の腰掛けに座った。 頭上にある陽は穏やかに犬夜叉の足元を照らす。 そよぐ風が店の側にある大木の葉を揺らし、その度に畦道に零れる光が形を変えるのを犬夜叉はぼぅっと見つめた。 それからどれだけ経ったのか。 畦道に映る影の角度は変わってはいないから、さほど時間は経っていないのかもしれない。 犬夜叉の鼻がかごめの匂いを嗅ぎとるとほぼ同時に、左上から声が降って来た。 「隣、いいですか?」 言われた言葉に否、と言おうとしたものの、見上げた姿も掛けられた声も間違いなくかごめだった。 楽しげに微笑む顔は陽を背負い、薄っすらと影を作る。 掻き上げられた髪の向こうから左の頬に陽が差して、白い頬の桜色がほんのりと見えた。 口角を上げた唇はいつもよりも赤く艶やかで、犬夜叉は思わずそれに見惚れた。 「……おぅ……」 何を他人行儀な言葉をとか、紅はいつ差したのかとか、待ちくたびれたとか、言いたいことはいくつもあった。 だけれども楽しそうに嬉しそうに、少しだけ恥ずかしそうに微笑むかごめを見て、言いたいことの大半は犬夜叉の頭の中から消えてしまった。 「待った?」 「いや……」 僅かに残った言いたいことのひとつでさえも言えずに犬夜叉は口籠る。 こんな時、弥勒のように饒舌であれば『綺麗だ』とか、『似合ってる』だとか、心の内が少しは出せたのであろうが。 褒められもせず傍から見れば無愛想なその反応にも、かごめは嬉しそうにえへへ、と笑うと犬夜叉の隣に腰をかけ店の奥にいる老婆に声をかけた。 「すみませーん、お団子下さい。甘辛いのふたっつ」 出された茶を啜りながらかごめの声に耳を傾け、ぼんやりと雲の流れる行き先や草木の揺れる線を追う。 それというのも屈託なく動く唇の艶めかしさや滲むように色付く頬を犬夜叉は直視できないでいたのだ。 彷徨った末に見た足元では、二羽の雀が仲睦まじく互いに毛繕いをしてて、どことなく落ち着かないむずむずとした気持ちに襲われる。 そんな犬夜叉と目を合わせるようにかごめはその顔を覗きこみながら言った。 「ね、いいでしょ?たまには」 満足気な表情のその足先は楽しげに揺れる。 さらりと流れ落ちた黒髪が煌めき光を散らした。 「、あぁ」 犬夜叉はまた熱くなった頬を誤魔化すようにして、漸く来た団子に齧り付いた。 *** ふとそんなことを思い出したのは、先程通った茶屋で同じ言葉が聞こえたからだ。 もしかしたらちょうど娘の方が、あの時のかごめと同じくらいの歳だったからかもしれない。 そういえばあの時も今日みたいに麗らかな日和だった。 「かごめ……」 彼女と再び別れてから、もう数え切れないほどの夜を越え、昼を過ごし、移ろう季節を見て来た。 かごめのいなくなった後、犬夜叉はもう自分の命が尽きるかと思うほどに涙を流した。 いくら涙を流せども、名前を呼べども、あの優しい笑みも甘やかな匂いも、後には少し掠れてはいたけれど柔らかな声も、皺が刻まれて尚も愛らしい手も、何もなかった。 今でも時折、もうかごめの元へ行きたいと、苦しさに死んでしまえると思うことはある。 それでもこの身は生き永らえて、今では人の姿に化けることも覚えた。 相変わらず進んで人の輪に入ることはせずに、過ごす時間の大半は御神木か井戸の側だが。 人との関わりといえば時折犬夜叉とかごめの子孫や、村の者たちが参りに来るのを御神木の上から眺める程度。 もうあの頃を共に過ごしていた仲間はもちろんいない。 いるのは天狐となった七宝と、弥勒と珊瑚の子孫に遣える雲母だけだ。 時折顔を見せに来ては、その懐かしさに心がじわりと滲む。 それにかごめのいたあの頃を思い出して苦しくなり、それでもそれが有り難くもあった。 今ではかごめのいなくなった時のように涙を流すことはなくなった。 押し潰されそうなほどの絶望も悲しみも寂しさも、影を潜めた。 しかし寂しくない、悲しくない。 そんなことは言えないほどに胸がつかえて、どうしようもなく苦しくなることもある。 それでもこうして、かごめが残していったものたちに包まれ心温められる。 例えば摘んだ花の匂いだとか、空を游ぐ雲の形だとか、遊んだ川の水飛沫だとか。 かごめはたくさんの宝物をそこら中に散らばるように落としていった。 遊ぶように、楽しむように。 犬夜叉はそれをひとつ、またひとつと拾い上げては、きらきらと輝く宝物をぽっかりと空いた胸の中へと納めていく。 そんな至極細やかなことが今は幸せでならない。 “隣、いいですか?” あの言葉の真意を尋ねた時も、かごめは『いつもと違うほうが楽しいかなって』と紅に彩られた唇で答えていた。 今度もし、彼女にそう聞かれたなら自分は何と返そうか。 今ならば『あぁ』と笑顔で答えられるだろうか。 『綺麗だ』と、『似合ってる』と、ちゃんと伝えられるだろうか。 振り返り見た茶屋は左側の腰掛けがちょうど空いている。 犬夜叉はいつかの瞬間を夢想しながら、あの時食べた甘辛い団子の味を思い出して踵を返した。 |