何かおかしいと気付いたのは、かごめがこちらに戻って来てから漸くひと月ほどたった頃だった。 かごめが何気なく呼んだであろうおれの名に小さく胸が跳ねたのだ。 跳ねてつきんと痛んだ胸に手を当てて、軽く息を吸うとそれはすぐに治まった。 感じたことのない痛みに首を傾げたが、他に変わったことなど何もない。 もう一度『犬夜叉』と呼ばれたときには痛みも何もなくて、まぁいいかとそのまま放っておいたのだった。 次に気付いたのはかごめが村のガキどもの子守りをしていたときだった。 そよ風に髪を遊ばれながら優しく笑うかごめをふと見ると、まるで時が止まっているかのようで、その一瞬に永遠を感じた。 それからおれに気付いたかごめが満面の笑みで手を振ると、この胸はつきんつきんと二度ほど痛んだ。 そして名を呼ばれ自分が動きを止めていたそのことに、なぜだか慌てたおれはそのまま太い枝の上から真っ逆さまに落ちたのだった。 どきどきと速く大きく動く心の臓がうるさくて、駆け寄り眉尻を下げて差し出された小さな手の、その指先を見つめて手に取るだけで精一杯だった。 以来、かごめを見るたびに、声を聞くたびに、つきんと痛む胸と熱くなる身体は日毎その回数と強さを増していき、遂には畳まれた緋袴やかごめのものでもない背中の中程で靡く黒髪を見るだけでかごめのことを想い出し、この胸はきゅぅきゅぅ、つきんと鳴るようになった。 こんなこと、経験したことがない。 どこか悪いのだろうかと所賢を動かし触れてはみるもののそんな気配はどこにもなく、ふらりとやってきた冥加じじぃに吸われた血も『相変わらず美味でございますなぁ』と決まり文句を受けただけだった。 もやもやと、すっきりとしない蟠りを抱えながらも、この胸の痛みは治まることはなかった。 *** 「犬夜叉」 「んあ?」 「ねぇ、最近あんた変よ。何かあった?具合でも悪いの?」 格子窓の外でそよぐ葉がきらきらと輝き光を生む。 それをぼぅっと見ているとかごめが心配そうに瞳を揺らしながらおれの顔を覗き込み、額へと伸びる白い手が眼前を覆う。 思わず避けるようにして身を引くと、細い指先はぴくりと動いて行き場を失くしたように宙に留まった。 「……気のせいだろ、なんともねぇよ」 気まずさに顔を背けた俺に、矢のように刺さる視線が痛い。 どんな表情をしているかなんて容易に想像がつく。 眉尻も目尻も、結んだ唇の端さえも下げて、揺らぐ瞳を隠すようにして睫毛を薄く伏せているんだろう。 そんな表情をさせたい訳ではないのに、この胸の痛みや不安がどうしたらいいのかを分からなくさせた。 「……何ともないならいいの。ご飯、作るね」 静かに床を鳴らして厨に立つ小さな背中をちらりと見た。 かごめの剥き出しの背中に初めて触れてから、もう暫く経った。 あれから一度も触れていない。 触れたいと思う欲はこれほどにもあるのに、この胸の痛みがそうはさせない。 己の手のひらを見つめてぎゅっと握り、ため息をついてからもう一度愛しい背中に目をやった。 かごめは変わった。三年前のあの頃より。 年を重ねて綺麗になった。 腰はきゅっとくびれて、胸や尻の丸みは増し、脚も細くすらりとして、幼さは影を薄くし色香が漂い始めた。 それだけではない。 それだけではないのだが、もっと違う何にかが変わっているはずなのだが、それが何なのかが分からない。 それにいくら変わったとはいえ、陽に透けると薄らと茶が差す黒髪も、きらきらと光る宝玉のような瞳も、おれを呼ぶ声も、大好きな匂いもあの頃のままだ。 なのに、変わらないはずなのに、そのひとつひとつがおれに触れていくたびに心の臓の音は高さを増していく。 胸の痛みも身体の熱も何も分からないままで、そのもどかしさに奥歯をぎりりと噛み締めた。 *** 「どうしました?」 柔らかな緑の上に腰を掛け、少し先で花を編みながら双児と遊ぶかごめをぼぅと見つめていると、しゃらしゃらと錫杖を鳴らして弥勒が声をかけてきた。 小脇に包みを抱えたところを見るに、おおかた嫁や子どもたちへの貢ぎ物でも手に入れてきたのだろう。 「何がだ?」 「いえ、お前が最近やたらとぼぅっとしているものですから。何かありましたか?」 『かごめ様と』とは口には出さずに視線をおれが見つめる先へと移す。 相変わらず目敏い野郎だ。 抱える苛立ちと共に煩わしさを吐き捨てるように舌打ちしそうになる。 多分、今ここで“何もない”とそう言えば、こいつは“そうですか”と返すだろう。 だけれどもこのどうにも立ち行かない状況が延々と続くことは避けたい。 当然ながらこんなこと、こいつにだって話せたことではないが―――― ため息をひとつ吐いてからおれはぽつぽつと、下手くそながらもここ最近の胸の痛みを話し始めた。 すると弥勒は細めていた目を徐々に丸くし、悪戯でもするように目尻と唇で緩やかに弧を描き、穏やかな視線をおれに投げた。 「ほぅ……なるほど、お前がなぁ」 「なんでぇっ、おれがこうだとおかしいのかよっ」 人に何かを相談するなどと慣れないむず痒さを我慢して話してみればこの反応。 声を荒らげて噛み付けば『まぁまぁ、待ちなさい』と柔和な笑みを崩さずに話し始めた。 「そうですなぁ……犬夜叉、お前、かごめ様を抱きしめてみなさい」 「はぁ!?おま、何言って」 「抱きしめずともよいです。かごめ様の目を見つめてみなさい、手を握ってみなさい、かごめ様の名を呼んでみなさい」 「なんだよ、それ……」 『何か分かるかもしれませんよ』などとなんとも曖昧な答えにため息をつき、目の前のかごめへと視線を戻す。 頭に花冠を乗せたかごめは何も知らない幼子のように無邪気に笑う。 それを見てもう一度、今度は深々とため息をついた。 *** 弥勒の言葉を受けてから早三日。 その間もこの身体の変調が治まることはなく、かと言って奴の言うことを行動に移せるわけでもなかった。 要は何も変わっていないのだ。 かごめを娶り生活を共にし始めて、これから先もできる限りの時間を、否、欲を言えば全ての時間を共に過ごしていこうと思っていた矢先に、この状況はいただけない。 何をこんなにも悩んでいるのか。 なんと女々しいことか。 うーん、と唸り、あぁ、もう仕方ねぇと意を決して口を開いた。 「かごめ」 むっすりとしながら胡座を掻いてかごめを呼び寄せると、より分けていた薬草を置いて大人しく俺の目の前にぺたりと座る。 「なぁに?」 小首を傾げおれを見るまぁるい瞳をしかと見ることはできなくて、代わりにほっそりとしたその指先に目をやる。 「かごめ」 「ん?」 緋袴に映える白い両手をそっと取り、きゅっと握りしめる。 ふわりと漂う薬草の香りはそろそろかごめに馴染んできていた。 しばらく握っていた指先はほんのりと赤みを増して、温もりもおれの手のひらと融け合いそうになっている。 そして恐る恐る顔を上げ、その瞳を見つめる。 全身が心の臓でできているかのように脈打っていて、少しばかり息が苦しい。 久しぶりに見つめた黒くまぁるい瞳はまるで夜空のようだ。 そしてその中は星を散りばめたようにきらきらときらめいていて、奥に映るおれの瞳もきらきらと星がきらめいていた。 ――――あぁ、なんだ。そういうことか。 「かごめ、」 「なぁに?」 「かごめ、かごめ」 「ふふふ、なぁに?」 そっとかごめを抱き寄せて、細い首筋に鼻先を埋め思いっきり息を吸う。 胸がいっぱいになるような呼吸を何度も繰り返すと、髪の先や爪の先、胸の奥や腹の奥のそのずっと奥底までが、かごめで満たされていくような気がした。 「かごめ」 「はぁい」 そっと抱きしめ返されて誘われるように顔を上げると、柔らかく触れるだけの口づけをした。 少し細くなった瞳にはやっぱり星がきらめいていて、おれが『かごめ』と呼ぶたびにそのきらめきをきらきら、きらきらと増していた。 「犬夜叉」 呼ばれたおれもかごめの瞳の中できらめく。 小さな小さな夜空の中でふたりの星がきらきら、きらきらときらめいている。 それを見て今度はおれの全てがきゅぅきゅぅ、つきんと甘く痺れて甘く痛んだ。 きゅうきゅうつきん |