「……ゃ……めてっ、いやぁ!」 喘ぐような息遣いと小さく忙しない動きのあとに苦しげな声が響いた。 かごめははっと目を開け浅い呼吸を何度か繰り返すと、歪んだ木目の天井が暗がりの中で薄らと見えて視界の隅では銀髪が単衣を纏った肩からさらりと落ちた。 「かごめ、大丈夫か?」 「ぁ……」 夢の中で振り上げた気がした手は大きな手のひらの中にすっぽりと包まれていた。 汗ばむ額を拭うようにもう片方の手で撫でられる。 うなされ身体を暑くしていたはずなのにその温かさが心地よくてかごめは目蓋を伏せた。 「うなされてたぞ」 「うん……」 頬に移動した手に自分のそれを重ねながら深く息を吐くと、どくどくと速る鼓動も少しずつ落ち着いていく。 「やな夢、見たの」 すり、とかごめは添えられた手のひらに縋るように頬を擦り寄せる。 それに応えるように犬夜叉は親指で頬を、次いでその手のひら全体で形のいい輪郭ごと二、三度撫でた。 「どんな夢だ?」 「……わかんない」 聞かれてゆっくりと目蓋を持ち上げると優しい黄金色の瞳が見えて、かごめから残っていた力がふっと抜ける。 ゆるゆると静かに揺れる黄金色は、昨夕見た穂を垂らす稲のように穏やかだった。 「わかんねぇってなんだよ、それ」 困ったように眉を寄せながらも、そう言う口元は優しい。 「だって分かんないんだもん。覚えてないの」 聞かれて話そうにもその今しがたことが思い出せない。 目を閉じてみてもただ真っ暗闇なことしか思い出せないのだ。 まぁ、思い出すにしてもいい話でもないし、頑張って思い出す必要もないだろうとかごめは早々に諦めたのだった。 拗ねて突き出した唇を緩めて『でも……』とかごめは途中まで口にし、未だ頬に添えられる手を腕ごと抱き締めるように両手で包み指を絡める。 そしてそれに鼻先を擦り付けて頬を寄せ、もう一度ほぅと息を吐いた。 「犬夜叉が……いてくれて、よかった」 心底安堵したようなかごめの目尻が見えて、犬夜叉はむず痒い気持ちに襲われる。 かごめがこうして、自分を頼りにしてくれることは勿論嬉しい。 例えば悪い奴等を倒したときだとか、かごめにはできない力仕事をしたときだとか、目に見える形のあるものであれば褒められ感謝の言葉を言われても素直に受けとめられるのだ。 しかし、だ。 しかし今のように自分は何をしたわけでもない。 ただかごめがうなされていて飛び起きた、その目の前にいただけでこうも分かりやすく安堵され頼りにされると、やわやわと温かいものが胸中に広がりどうしていいか分からなくなる。 それは決して不快なものではないし多少なりとも慣れてきたとはいえ、あまり経験したことのないその感覚に戸惑い言葉をなくしてしまう。 「おう……」 言葉を探しながらも見つからず、結局いつもと同じ短い言葉がもごもごと動く唇の隙間から零れ出る。 しかしかごめはそれをさして気にした様子もなく、へへへと幼く笑いかけるものだから犬夜叉も言葉を探していたのも忘れて、つられるようにそっとその目元と口元を緩ませた。 「眠れるか?」 先ほどまで掴んでいた手を離し、そのまま細い腰を引き寄せる。 かごめもそれに従うように犬夜叉へと身を寄せ、包んでいた片方の手を解き、目の前の白い袷の縫い目を爪で引っ掻くようにして遊び始めた。 「んー……」 かごめがちらりと見た格子窓はぴたりと閉じていて、その僅かな隙間からは一寸の光も差してはおらず、まだ夜が明けるには早いと知らせている。 明日も早くから楓のところに行かなくてはならないし、犬夜叉もいつもよりも少し早くに出掛けると言っていた。 けれどもすっかり意識を戻したかごめの頭では微睡むことも難しそうだ。 明日の朝、ふたりのんびり過ごせるのであれば犬夜叉と仲睦まじく話したり、許しを得れば灯をともし本を読んだりするのだが、如何せん朝が早いとなればそうもいかない。 かごめはいつだったか自分が繕った縫い目を摘みながら『眠れないかも』と返すと呆れたような声が頭の上で聞こえた。 「お前、明日早いんだろ」 「うん」 「なら寝ろ」 「でも、眠れなさそうなんだもん」 縫い目を摘んでいた指先を『こら』と取られてかごめが顔を上げると、鼻先が触れそうな距離で犬夜叉は微笑んでいた。 かごめにしか分からない程度に、ほんの少しだけ、楽しげに。 掴まれた指先を意外と柔らかな唇にあてられて、そのままふにふにと咥え食まれる。 熱い唇と瞳の奥の楽しそうな光に、これはまずいとかごめは口元をきゅっと引き締めた。 勿論犬夜叉と、そういうことをするのが嫌なのではない。 声に出しては言えないが、犬夜叉と肌を重ねることは好きだ。 彼の全部で、自分の隅々までを、余すことなく愛されている気がして。 満たされて幸せになれるのだ。 その後は疲れて怠くて、微睡む間もなく眠ることも少なくはないが、うなされて起きるようなこともない。 確かに悪夢は見ないし、眠れはするが……。 かごめは明日の朝を思い眉を顰めた。 流されてしまいたい気もしなくはないが、目の前の体力おばけと自分の差をしかと考えなくてはならない。 「……しないわよ」 「なんでだ?よく眠れるぞ」 「今日はだめ。犬夜叉も明日の朝は早いって言ってたじゃない」 「んなもん、俺は平気だ」 悪戯するような眼でそう言うと、今度は咥えていた指先をかぷりと噛んだ。 「私は平気じゃないのよ」 『だーめ』と噛まれた指先を外して犬夜叉の唇にあてると、その口元から拗るような声が漏れた。 かごめに包まれたままの手はそのままに、もう片方の手で掴んでいた指先を離し枕にしながら天井を仰ぎ見る。 「じゃあさっさと寝ろよ」 ふん、と軽く鼻を鳴らし言葉を荒らげてはみたものの実の所さして拗ねているわけでもない。 残念と言えばそうだが、駄目だと言われることは予想がついていた。 ただあわよくば、と思っただけで。 「もう、拗ねないでよ」 犬夜叉の左半身に柔らかな身体を遠慮なく乗せかごめが笑いながら言う。 こんなことで拗ねると思われているだなんて、むしろそちらの方に拗ねてしまいそうになると犬夜叉は口調を崩さずに否定した。 「拗ねてねぇよ」 『いいから早く寝ろ』と有耶無耶にするようにかごめの頭をくしゃくしゃと撫でる。 「きゃっ、何すんのよ」 怒ったような言葉を楽しげにかごめは言いながら、犬夜叉の胸板へと頬を寄せた。 そして犬夜叉が細腰を再び抱えると、かごめはゆっくりと瞬きしぽつりと零した。 「ねぇ、子守唄歌って」 「は?」 「子守唄、歌って?」 突然何を言い出すのかと犬夜叉は目を丸くする。 子守唄など歌ったこともなければ、歌ってもらったのだってもうとうに昔のことだ。 確かにあの穏やかな声や緩やかな音の流れには、小さな胸に添えられた手のひらの温かさも相まってすぐに夢の中へと落ちていた。 それでも、それでもだ。 歌えるはずもないし、男の、しかもガサツだの不器用だのと評される自分にそのような役は務まらない。 そもそもそんな恥ずかしいことはできないと、犬夜叉は眉根を寄せてそれを伝える。 「馬鹿言ってんじゃねぇよ、歌えるか」 「えー、歌ってよー。おねがーい。ねーぇ」 「おめぇな……いい加減寝ろ」 かごめは負けじと犬夜叉を見つめながら強請るように言う。 犬夜叉は多少なりとも遊ばれているのを察して、かごめを自身の上に抱え直すと背中を叩きながら眠りを促した。 それにはいよいよかごめも諦めて、代わりにと解けた指を絡め直す。 「じゃあ、代わりにこうしてて」 きゅっと結ばれた手が違う熱を行き交わす。 犬夜叉が小さな頭をひと撫でし頷き返事をすると、おやすみなさいの言葉のしばらく後に静かな寝息が聞こえてきた。 漸く寝たかとため息をひとつ吐き、犬夜叉は背中を叩いていた手を腰へと回し抱き締めた。 凹凸のある柔い身体は自分に隙間なく沿うようにしてその身を預けている。 互いの身体のその奥の鼓動は響き合いながら重なり、同じ瞬間を刻もうとしている。 それがなんとも心地よい。 「おやすみ、かごめ」 ゆるゆるとした微睡みはもうそこまで来ている。 犬夜叉は遠い昔に聞いた、朧気な唄の片鱗を辿るようにして口ずさみ目蓋を閉じる。 見えぬ外では星が奏でるように瞬いていた。 夢でも逢えたら |