薄く上げた簾から軽やかな風が舞い込む。 つい先日までの湿り気を帯びた空気とは違い、少し冷えた産毛を揺らすように撫で去る風にかごめはふと顔を上げた。 そういえばここ数日は夕方になれば鈴虫の音が聞こえていた。 格子窓から透ける陽は、先ほどよりも西へと傾むき、その色を少し濃くしたようだった。 手習いを始めたのは陽がほぼ真上にある頃だったから、大分集中していたようだ。 そのためか幾分肩も凝っている気がして、かごめは首を左右に倒してから思い切り伸びをした。 小さく関節がぱきぱきと鳴ると、それだけでもすっきりとした気分になる。 したためた薄墨の走る紙に視線を戻して、ふぅと軽く息をつく。 手習いを始めたばかりの頃は癖のある幼い文字しか書けなかったが、今ではその幼さも薄くなり流れるような文字が書けるようになっていた。 とは言え上手に書けるものなどはまだ僅かで、書物を読むにしても犬夜叉に教えを乞いながら読み進めることも珍しくはない。 自分の書いた文字を見てかごめはふと、遠い所で暮らす母を思い出した。 祖父は元より母も流麗な文字を書く人だった。 大人の女性らしい筆遣いとその筆先から紡がれる文字たちに何度憧れたことか。 今、同じように筆を走らせても、それを見せて話したい人はここにはいない。 もしこれを見せたらあの人はなんと言ってくれるだろう。 『まぁ』と驚きながら微笑み、頭を撫でるのだろうか。 叶わない想いに睫毛を伏せて、紙のように薄く息をついた。 ――――手紙だけでも送れたらいいのに…… ふと浮かんだ考えにはっと顔を上げる。 そして書き溜めた紙の束とは別に仕舞っておいた、まっさらなものを一枚大切そうにそっと抜き取る。 真っ白のそれは普段かごめが手習いに使う紙よりも見るからに上等で、触れればすべすべと柔らかく端には季節外れの桜を模した絵が描かれていた。 半年ほど前に、犬夜叉が町へと降りた時に土産だと買ってきてくれたものだった。 そっぽを向きながらなんとも気恥しそうに突っ慳貪に渡されたのだが、犬夜叉からの贈り物など片手で数えても余るほどしかなかったかごめにとっては、その目が潤むほどに嬉しいことだった。 贈り物も然ることながら、照れ屋な彼が店先で自分を想い考え選んでくれた。 そのこと自体が素直に嬉しかった。 せっかく彼がくれたものなのだから、早く使いたいとは思いつつも、大切すぎて何に使えばいいのか分からずに、大事に仕舞って時折陽に透かして見たり滑らかな上を指先で触れるだけで、終いには犬夜叉からも『そんなもんいくらでも買ってきてやるよ』と少々呆れられるほどであった。 かごめは描かれた薄桃色の花弁を愛しげに指でなぞる。 そしてそんな大切な大切な和紙を目の前に、筆の尻を顎に当てうーん……とひと悩みした後、そっと筆を走らせ始めた。 するすると滑る薄墨は所々に止まっては、その端を滲ませるようにして紙を湿らす。 まるでその様がどう伝えたらいいのかわからない、けれどもとめどなく溢れる自分の想いのようで自然と筆を持つ手に力が入る。 桜が潰れるほどにめいっぱいの文字で埋まるかと思ったそれは、意外にもすっきりとしていた。 伝えたいことは山のようにあれども、言葉にして伝えられることなどは僅かなのかもしれない。 それでもかごめは書き終えた文を掲げて満足げにほぅとため息をついた。 「帰ったぞ」 簾を潜り上がり框に腰をかけて足を拭く旦那に、かごめは『おかえりなさいっ』といつもより少し高い声で返す。 『おぅ』と返した犬夜叉は板の間に上がりながら、かごめの持つ見覚えのある和紙が薄墨で彩られているのを見つけると、ほんの少しだけ目を開いて頬を緩めた。 「漸く使ったのか」 「うん」 何を書いたのかと尋ねる前に、囲炉裏端に座った犬夜叉のその膝の上にかごめが腰を掛け『あのね、』と話し始めた。 犬夜叉の胡座を掻いた膝の上が最近のかごめのお気に入りのようで、ふとした時間を見つけては今のように腰を掛けその日あった出来事を話したり、楓や弥勒から借りた書物を読んだりしていた。 犬夜叉も当たり前だが嫌がるわけもなく、かごめの薄い腹に両手を回し鼻先を髪の中へと埋めながら、忙しなく動く唇や真剣な眼差しを甘く慈しむように見つめるのだった。 「手紙を書いたの」 「てがみ?」 「あぁ、文のことよ。ママと草太とじぃちゃんに」 「……そうか」 途端に沈んだ声で頷く犬夜叉に、かごめは後ろ手に頭を撫でながら苦笑する。 「もう、そんな顔しないで」 そっと犬夜叉の首筋に頭を預けながら支えるように腹に沿う手に自分のそれを重ねる。 そして半分に緩く曲げた和紙を膝の上に広げながら『見て』と、自分のしたためた文字をなぞった。 「上手くなったでしょう?」 「あぁ」 確かに、と犬夜叉は頷く。 以前のかごめは幼子が書くような丸っこくやたらとはっきりしたものや、こちらの国では見ない文字を書いていた。 全く理解ができないものではなかったが、やはり見慣れたものではなく、かごめがこちらの書物を読むのに苦戦したように犬夜叉もかごめの書くものを読もうとすると普段のように滑らかにはいかなかった。 それがまだ幾分、幼さは残るもののこの一年足らずの間に大分自分が見慣れたものに近くなっていた。 元々かごめは賢く努力家だ。 言われずとも進んでこちらの国の様々な物事を学ぼうとしていて、手習いも巫女に必要な教養ではあれども、かごめが自ら学ぼうとしたことの一つだった。 そもそもかごめが書を読むのも書くもの好きであったということもあるのだろうが、やはりここまでの上達ぶりはかごめの努力の賜物だろう。 丸っこい癖は残るものの、彼女らしい流れるような優しい文字を犬夜叉は見つめた。 「これをね、ママたちに見せたいなって、見せたらなんて言うかなって思ったの」 かごめがこちらに舞い戻り、ここで生きていくと決めていることを犬夜叉は重々理解している。 しかし彼女が時折ふと遠くを見ていることも知っていた。 その視線や空気は舞い戻った当初のような寂しげなものではないにせよ、遠くを懐かしむ儚げなそれに手を取り抱き締めたことは一度や二度ではなかった。 その度にかごめは微笑みながら、苦しげに眉根を寄せる犬夜叉の垂れた耳ごと頭を撫でるのだった。 「あとね、伝えたかったの」 ぎゅう、と抱き締めた手の甲をかごめは親指ですりすりと宥めるように緩やかに撫でる。 「今、幸せだって」 「かごめ……?」 「こっちに来て、犬夜叉と一緒になって、毎日楽しくてとても幸せだって。伝えたかったの」 『大変なこともあるけどね』と話す声は穏やかだ。 犬夜叉は『そうか』と返しながら自分の手を撫でる、少し冷えた手に解いた右手を重ね握る。 そして首筋に沿う小さな頭に擦り寄るようにして頬を寄せるとふわりと墨と彼女が香った。 優しい彼女の香りは出逢った時とは少しばかり違くて、薬草や自分の匂いを纏うようにはなったが、その奥にある彼女の甘い香りは今でも変わることなく犬夜叉の鼻腔を擽り無条件に安堵させる。 犬夜叉は目蓋を伏せてすぅ、と胸いっぱいにそれを吸い込み薄墨を見た。 「で、それどうすんだ?」 せっかく書いた文なのだから、このまま仕舞って終わりと言うことはないだろう。 かごめのことだから何か考えがあるはず、と犬夜叉は問いかける。 「うん、御神木の近くに埋めようかなと思って」 「御神木に?」 「そ、御神木ならずっと残ってるし、目印か何かあればママたちも見つけられるかなって」 なるほど。あの古井戸はもう開かなくなってしまったが、その側に聳え立つあの木の麓であれば遠い時間ときをも超えられそうだ。 とはいえ、いくらそいこらの物より上等だとはいえ、たかが紙切れ一枚。 遠く遠いかごめの国まで超えていけるのだろうか。 ふと犬夜叉は考えて、よしと一人納得したように頷いた。 「そしたら明日にでも何か箱を探してきてやる」 「ホントに?」 「あぁ」 かごめの頭を撫でながら言うと、振り向き零れ落ちそうなほどにきらきらと輝きを携えた瞳が犬夜叉を映した。 ほろりほろりと笑みが零れる頬や瞳はそっと色づく。 「ねぇ……届くかな、ちゃんと」 「あぁ、届くだろ、ちゃんと」 再び文を見つめるかごめの瞳は澄み渡り、翳りは見せずとも薄らとした膜を張る。 もう一度両手で挟むようにして小さな左手を包み、ふわふわとした旋毛に鼻先を寄せる。 そうして抱えたかごめごと右へ左へと小さく緩やかに、揺り籠のように揺らしてやる。 ゆらゆら、ゆらゆら。 その揺らぎに柔らかな身体が安心したように身を委ねてくる。 文箱は朽ちることなく遠い時間を超えられるよう、とびっきり上等なものを選んでこよう。 あぁ、それと綺麗な組紐も。 かごめのものとふたつほど。 彼女に似合う色は何色だろうか。 ゆらゆら、ゆらゆら。 揺れながら際限のない愛しさを抱き締めて、犬夜叉は幾つ目かの贈り物を目蓋の裏に思い描いた。 |