くありと顎が外れそうな程に大きな欠伸をする。
 これで何度目かと数えるのも億劫だ。
 その度に目尻に滲む涙を拭いては、気怠くため息を零して畦道を歩く後ろ姿についていく。

 「犬夜叉どうしたの?さっきからおっきな欠伸しちゃって」

 かごめがちょこちょこと近寄りながらおれの顔を覗き込む。
 その言葉に眉間に皺を寄せ、ため息を吐いたままの形をしていた口元をへの字に曲げた。
 どうしたもこうしたも、お前のせいだ。かごめ。
 全面的に、どう考えても、誰が聞いたって、お前のせいだ。
 確かに今朝、笑顔で礼を言われたときには、こいつが休めたならまぁいいか、と思いはした。
 だけども今の言葉とそのすっきりとした表情には、やはり苛立ちを覚える。
 かごめを抱えたおれは一晩眠るどころか、落ち着かない夜を過ごしたというのに。
 心休まるどころかこの心臓は普段の倍。
 いや、それ以上に動き、どんな屈強な敵を目の前にしたときよりも気を張っていたというのに。
 そんな沸々と湧く、食って掛かりたい気持ちを堪える。
 ここでそれを言ってしまっては、この身がすっぽりと埋まるほどの大きな墓穴を掘る気がしてならない。
 だから何も言えない代わりにふんっと鼻を鳴らして顔を背けると、呆れたようにかごめは声を挙げた。

 「なによ、そんなに不機嫌そうな顔しちゃって」

 「うるせぇ、この顔は生まれつきだっ」

 ただひたすらにいつも通りを装いかごめに吐き捨てるように言うと、ふとふわりといい匂いが近くなった。
 見れば柔らかい声と白い頬がすぐ側まで来ていて、思わず胸がひとつ音を鳴らした。
 そして次いで来たのは潜めた声。

 「ねぇ、もしかして昨日の夜のこと?私があんなこと頼んだから?」

 突然核心を突かれて今度はどきりと胸が跳ねる。
 昨日一晩抱いていた柔らかな身体は、今も衣同士を擦るほどに近く、潜めた声は陽が昇る前のことを鮮明に思い起こさせた。
 いつもであればなんでもないこの距離に言葉を詰めていると、かごめはこそこそと話を続ける。

 「やっぱり……ごめんね。重くて休めなかったわよね」

 「な、ばっ、ちげぇよ!」

 「え、違うの?」

 他に何かあったのかと、きょとんとした目で見つめられる。
 男の愚かな下心など知りもしない、あまりにも純粋なその瞳に本当のことなど言えるはずがない。
 重たくて休めなかったんじゃあない。
 寧ろそれは背中にあれば落ち着き、時や場所が違えば腕の中にあろうとも安心する重みだ。
 匂いだって体温だって、本音を言えばずっとずっと抱き締めて、包まれて、そのまま眠ってしまいたいくらいに落ち着くはずのものなのだ。
 それがなんで昨日に限ってそうではなかったかなんて知らないが、『じゃあなんで?』と聞かれて、本当はかごめの息遣いに、匂いに、温かさに、柔らかさに、全てに、脅かされる理性を保っていたなどと誰が言えようか。

 「う、うるせぇ!いいから向こう行ってろ!」

 「え、なによ、どうしたの?」

 ぱくぱくと声にも言葉にもならないものたちを幾度か飲み込んだ後に、漸く熱い頬でそう叫んだ。
 こちらの気持ちを一片たりとも理解し得ない声を上げながら、前を歩く珊瑚と七宝の元へと行くその後ろ姿は、まるで納得がいっていないと首を傾げている。
 昨晩からの重なる気苦労に深々とため息をつくと、それを拾うように弥勒がそれはそれは楽しそうに声を掛けてきた。

 「昨夜は大変だったな」

 「……おめぇのせーだろうが」

 あぁ、またしても面倒な奴に捕まった。
 あまり会話を長引かせない方が身のためとは知りつつも、積もる苛立ちをぶつけずにはいられない。

 「何を言うか。私はかごめ様や珊瑚の暑さを少しでも和らげて差し上げたいと思っただけだ」

 わざとらしく眉根を寄せ、心外だと言葉や表情のみならず、全身で伝えてくる。
 その胡散臭さに辟易し、更なる苛立ちを覚えるが、それをこれ以上こいつにぶつけてもいい事など一つもないと承知している。
 返された言葉を流しながら先を行くかごめ達を追いかけようと歩幅を広げると、後ろからまた声を掛けられた。

 「お前だっていい思いをしただろうに」

 その言葉を無視することなどできずに思わず振り向くと、またあの胡散臭い笑顔に捕まった。
 あぁ、嵌められた……と後悔してももう遅い。
 すすす、と近寄る弥勒の目は、細めたその奥できらきらと楽しげに輝いている。

 「で、どうでしたか?」

 「…………何がだよ」

 「お前なぁ、好いたおなごを一晩抱えてたんだろう?柔らかかったとか、いい匂いだったとか、あんなことやこんなことしたかった、とかないのか?」

 『本当どこまで朴念仁なんだ』とため息混じりに錫杖の先で頭をぐりぐりと突っつかれる。

 「うるせぇっ。お前と一緒にするなっ」

 耳のすぐ側で煩わしくしゃらしゃらと音を鳴らすそれを叩はたきつつも、弥勒の言葉に昨夜のことを思い出していた。

 星が煌めき月が笑う空の下で、葉が擦れ火が揺れる音に混じる、かごめの細く透明な寝息を聞いていた。
 腕の中の身体は、この背に背負うときよりも軽くて小さくて、柔らかかった。
 しっかりとした作りの着物越しにも、線の細さとともに温かさがじわりと伝わる。
 その体温や重みや匂いに、ほぅと息を吐いては、胸の奥底からやわやわと解されていくような温かさを感じた。
 爪のように細い月が白みながら明けの方へと傾き始め、梟すらも目蓋を下ろし始めると、痩せた空気が肌を震わせた。
 時折高い音を鳴らしながら風が吹いては剥き出しの白い脚がおれの腿を擦り、短い声を上げながら猫のように丸くなり胸板に擦り寄る。
 その度におれは緩めていた身を固くしつつも、広げた袖でかごめの肌やその姿を隠した。
 そしてふわふわと黒髪が揺れるたびに優しい匂いが強くなり、食べてしまえそうな頬やぽってりとした唇が視界に入っては居た堪れずに、落ちた葉の数や目の前の旋毛の描く線を数えながらやり過ごしていたのだった。

 手のひらに残る温もりや柔らかさを思い出しながらぼぅっとそこを見つめていると、横から錫杖の涼やかな音が再び聞こえてはっとそちらに視線を移す。
 するとこれ以上ないほどに楽しそうな笑みを浮かべながら、弥勒は何度も頷いていた。

 「いやはや、やはりお前も男なのですね」

 相分かったと肩に置かれた手さえ楽しげだ。

 「っ、ちげぇよ!これはっ!」

 「よいのですよ、隠さずとも。いやまぁお前も辛かったでしょう。好いたおなごを一晩抱えたまま何もできぬとは」

 『私なら死んでしまいます』と眉尻を下げたり穏やかに笑みを作ったり、ころころと表情を変えながら先へ先へと話を進める。
 そんな弥勒におれは口も挟めずに、その言葉と表情の行く先を慌てふためく声を上げながら追うしかなかった。
 ぱくぱくと開閉だけをする口も、熱くなった顔も、時々漏れる『いや』だの『う゛』だのの言葉にならない声も、もう頷いているようにしか見えないのだろうが、今のおれにはそんなものを隠す余裕などあるはずがなかった。
 弥勒はそんなおれの正面に立ち、満面の笑みを浮かべてとどめを刺すように言った。

 「大丈夫です、任せなさい。今宵はふたりきりにさせてやりますから」

 「はぁ!?」

 「さてさて、そうと決まれば良い宿をとらなければ」

 いそいそとかごめたちを追いかける弥勒に慌てふためく声をかけても、まるでその辺の石ころのように見向きもされない。
 昨晩に引き続き変な汗を流すおれ焦りなど他所に交わされる楽しげな会話に、珍しくあるはずのない尻尾を巻いてさっさと逃げ去りたいとさえ思う。
 きゃっきゃっとした声の中に『いい宿?えー!嬉しい!温泉ついてるかなぁ?』なんて言葉が聞こえて思わず頭を抱えて蹲った。

 「犬夜叉ー?どうしたの、大丈夫?」

 目敏く蹲るおれを見つけて駆け寄るかごめをじとりと見ては、今日一番のため息を深々と吐いた。

 この日の夜は、昨晩よりも苦行を強いられたのはまた別の話。



  











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