「ん……」 腕の中の小さな身体が身動ぎし短く声を上げる。 袷を掴んだままの手が、それを握り直すようにして動いた。 もう何度目かも分からぬため息が、癖のある髪をふわふわと揺らした。 *** 今は西へと傾き始めた月が、まだ空の東の側にあった頃。 ここ数日涼しかった空気が湿り気を帯びて、それが肌を撫でる。 日はとうに暮れ、森の奥だというのに今日は季節を戻したように蒸し暑く思わず衿元を寛げて手団扇で扇いだ。 「今夜は蒸すわね」 そう思っていたのは自分だけではないらしい。 かごめの呟きに一同頷いて見せる。 「こればっかりはどうにもならないからね」 珍しく髪を根元の方で結わえた珊瑚が、桃色の衣の懐から取り出した手拭いで額の汗を抑えながら言った。 せめて水場の近くであれば、あるいはいっそ季節が少しでも深くなってくれていれば、こうも寝苦しい夜にはならなかったであろうが。 生憎この辺りに水場はないし、ましてや季節を進めることなど到底無理な話だ。 夜が深まるたびにそよぐ風の生暖かさも和らいでいるようには思うが、かごめたちにしてみれば心地よい眠りには場所も空気も程遠いらしい。 そんな相次ぐため息ともつかない息に反応したのは弥勒だった。 「ではここは私が。ひとつ涼しくなる話でもして差し上げましょう」 人好きする、否、胡散臭い見慣れた笑みを浮かべると、僅かに声を低くしてぽつりぽつりと語り始めた。 それは所謂幽霊話で妖怪やら呪詛やらを見慣れた俺らに話してどうなるのかと思いはしたものの、その話口調はまぁ見事なもので最初は余裕の表情を浮かべていたかごめが、次いでは珊瑚が、そして妖怪であるはずの七宝までもが弥勒の話を身を縮めて聞いていた。 「阿呆らし……」 呟き近場の木の裏に腰を下ろし一つ欠伸をしてから鉄砕牙を抱える。 弥勒の語る声に焚き火が小さく爆ぜる音が混ざり、時々詰まるような息遣いが聞こえる。 そよぐ風の湿り気はやはり幾分和らいだ。 先ほどよりもほんの気持ちだけ高くなった、爪のような月をちらりと見てから目蓋を伏せた。 *** カサカサと真新しい落ち葉を踏む音が聞こえて薄らと目を開ける。 火を焚く匂いはそのままで辺りの空気にも何も感じない。 背中の穏やかな呼吸の中にかごめのものがないことに気付き、しかと目を開け鉄砕牙を握る。 と、空気が揺れて斜め後ろから潜めた声がした。 「犬夜叉、起きてる……?そっち、行ってもいい?」 振り向くと不安そうに、申し訳なさそうに眉尻を垂らしたかごめが先ほどと同じように身を縮めていた。 「どうした?」 「ちょっと……ねぇ、そばに行ってもいい?」 言葉の真意を掴みきれずに、それでも何かあったのかと聞くが返ってきたのは同じ言葉で、ともなれば頷くしかなかった。 納得がいかないながらも左隣にかごめを招くと、下げた眉と口元で緩く弧を描きながらいそいそとおれの隣に座った。 「あのね、怖くなっちゃって」 「は?」 もじもじと両手の指を合わせ俯き恥じらいながらかごめが言う。 怖くなったとはなんのことだ。 おれが目を閉じていた僅かな間に何かあったのか。 空を見れば月は大して動いておらず、かごめたちが話していたときからさほど時間は経ってはいなかった。 そこまで考えておれが目蓋を伏せる前、かごめたちが何を話していたかを思い出した。 確かこいつは弥勒の幽霊話を聞いていたのだ。 ふと見た後ろでは珊瑚は七宝と雲母を抱えて、弥勒はその足元の木に背中を預けて休んでいた。 「……さっきの幽霊話か」 「えへへ……平気かなって思ったんだけど……」 縮めていた身を少し緩めて誤魔化すように笑う。 どんな話をしたかは知らないが、話以上に凄いものを見て経験している奴が何を言うのかと悪態をつく。 「けっ、あんなもんが怖いだと?だらしねぇな」 「何よ、あんたはさっさと寝ちゃって聞いてないくせに」 「あんなくだらねぇ話に付き合ってられっかよ」 「まーっ」 先ほどまでの不安でいっぱいな表情はどこへやら。 眉を釣り上げて頬を膨らましながら潜めた声でいつもの応酬を繰り返す。 そんなことをしていると木々の間を抜けるような風がひゅうと吹いて肌の上の熱をさらっていく。 それに反応し小さなくしゃみが聞こえて、すぐ側の身体は少し前と同じようにその身を縮めた。 「寒いのか?」 「ううん、大丈夫」 確かに触れた手は冷たくはなく、寧ろ温かい。 今しがた吹いた風はほんのり冷えてはいたが、漂う空気はまだ分厚さを僅かに残している。 とは言えそのくしゃみも見逃せない。 かごめの身体はおれのと違い弱くて脆いのだから。 「無理するな」 「ありがとう。でも本当に寒くないから大丈夫よ」 やんわりと持ち上がった頬は桜色だ。 微笑みとその言葉に眉間の皺を緩める。 「そうか。じゃあ早く寝ろ」 もう既に月は真上にいる。 それにいつ何があるか分からないのだ。 休めるときにしっかりと休んでおけと伝えると、かごめは首を縦に振りつつも何かを言い淀んだ。 今度はなんだと先を促すと、答えの周りを探るようにぽつりぽつりと言葉を零し始めた。 「あのね、さっきの話で怖くなっちゃったの」 「あぁ、それは聞いた」 「だからね、ここで寝たいの」 「だから寝ろって言ってるだろ」 「そうなんだけど……」 「なんだ、はっきり言え」 答えの見えない回りくどいやり取りに苛立ちを隠さずにいると、かごめは泳がせていた視線で獣革の履物の先を見つめて再び指を忙しなく動かした。 「あのね、後ろが怖いの」 「は?」 「だからね、ここで寝ていい?」 そうかごめが指をさしたのはおれが掻いた胡座の真ん中。 言われた言葉は分かるのに、その意味を理解できないでいるとかごめは『いい?』とおれの呆けた顔を覗き込んだ。 「お前何言ってんだっ」 「だって怖いんだもんっ、仕方ないじゃないっ。後ろになんかいたらって思うと怖くて眠れないんだもん!」 想いを寄せる女に不安に潤んだ瞳を向けられて、強請られて誰が嫌だと言えようか。 とはいえ膝の上とは、こちらも幾分――――どころではなくいろいろと困る。 困るのだが、言葉だけではなく瞳でも強請られて心の中では頭を抱えながらも最後には頷いてしまった。 「………今回だけだぞ」 抱えていた鉄砕牙を腰に差し直し腕を広げる。 それにかごめはぱっと表情を明るくして礼をいいながら、胡座の中に尻を落ち着けた。 もぞもぞといい位置を探しながら最終的には、横抱きするようにおれの腕の中でその身を納める。 「……おめぇ、もう二度と幽霊話なんぞ聞くんじゃねぇぞ」 『はぁい』と聞こえた返事は本当に反省しているのかどうか怪しい。 腕の中の身体からは規則正しい鼓動とともに柔らかく熱と匂いが漂い、風に揺れる黒髪が時折首筋を擽る。 もう眠ることは諦めて後ろからの刺すような視線を睨みつけ、明日のおれの行末を脳裏に巡らせ瞬く星空を仰いだ。 ため息を溶かした夜の足音が過ぎ去るのは、まだまだ、とても遠い。 何も知らぬは彼女だけ |