「犬夜叉ー、おるかー?」

 「んだよ……」

 急遽誂えられた楓の別邸は暫く使っていなかったこともあってか、少しばかり埃の臭いがした。
 所々に染みを作る、がたつく戸が開くと同時に、不機嫌さを隠そうともしない半妖が姿を見せる。
 睨みつけるように細めた目の奥には、久しぶりに宿した光がちらりと見えて、おらは胸の中でため息混じりの笑みを浮かべる。
 仁王立ちになりこちらを見下ろす犬夜叉のその奥には、三年前にぱたりと姿を見せなくなった、彼の女子がぺたりと座り、おらを見て満面の笑みで右手をひらひらと振っていた。
 小さく飛び跳ねるようにしながら大きく手を振り返すと、今度は両手でひらひらと手を振り返してくれる。
 しかも『七宝ちゃん』と名前付きで。
 あまりの嬉しさに駆け寄ろうとしたその瞬間、頭をがしりと掴まれて、自分よりも随分と背の高い犬夜叉とばっちり目が合わさった。
 宙ぶらりんになった足でがしがしと胸の辺りを蹴りながら離せと抗議する。
 すると更なる不機嫌そうな目に射抜かれたものだから、その後の拳骨を危惧してぴたりと抗議を止めた。

 「で、何の用だ」

 用がないのであればさっさと帰れと言外に言われているようだ。
 大方、久しぶりのふたりきりの時間を邪魔されてのことだろう。
 まぁ、そんなことは声をかける前から容易く想像はついていたし、犬夜叉のその気持ちがわからんでもないが。

 「そうじゃった、弥勒と楓が探しておったぞ」

 「あ?なんでだ?」

 「多分、今夜の宴のことじゃろ」

 「あー」

 おらを掴んでいた手をぱっと開き、その手で億劫そうにがしがしと頭を掻きながら、庵の奥へと消えていく。
 かごめは犬夜叉の姿に隠れ、ここからはふたりが何をしているかは見えない。
 が、あの半妖には似つかわしくない甘い雰囲気と微かに聞こえる声の優しさに、おらは見ないふり、聞かないふりを決め込んだ。
 まだまだ自分は大人にはほど遠いが、この場を邪魔していいわけがないことなど重々承知している。

 ――――あれだけふたりを見てきたんじゃからのぅ
 そうだ、自分はずっと側で見てきたのだ。
 かごめと犬夜叉が想い合う前から、弥勒や珊瑚や雲母よりも前から、ずっと側で見てきたのだ。
 ふとした時の互いを見遣る優しい眼差しだとか、掛ける声の柔らかさだとか。
 胸を締め付けるほどの苦しさに顰めた眉根や、唇を噛み締めた強さだとか。
 互いを守り、自分が傷つくことを恐れない強さだとか。
 短い間にもたくさんのふたりを見てきたのだ。
 あの瞬間までは。
 犬夜叉やおらからしたら三年という月日など、一生の中のたった一瞬のことのはずだった。
 それなのにこの三年はひどく永くて、あの一年ほどの間はひどく早くて濃ゆい時間だった。
 俯きしんみりしているとふと影に覆われて、見上げると犬夜叉に今度はくしゃりと頭を撫でられた。

 「じゃあ行ってくる」

 『すぐ戻る』とかけた声はどちらにか。
 逆光で表情は見えなかったが、撫でた手はまるで“ここにいろ”と彼の不安を表しているかのようだった。

 「いってらっしゃい」

 笑顔で見送るかごめの声を聞いてから、犬夜叉は高く飛び上がりあっという間に木々の中へと消えていった。
 そのいつも以上の忙しなさに揺らされ散らされた木の葉の行く先を見つめる。

 「忙しないのぉ」

 「ねぇ」

 くすくすと笑いながらかごめはこちらに向き直り、『久しぶり、七宝ちゃん』と両手を広げる。
 その声に、その姿に、この三年の間で自分がどれだけ成長したかを見せようと話そうと思っていたことも忘れて、思い切りその胸に飛び込んだ。

 「かごめ!」

 自分だって会いたかった。寂しかった。
 父を失ってから初めて触れた温もりが恋しかった。
 かごめの優しさに触れたいと、かごめの匂いに包まれたいと何度思ったことか。
 それでも自分以上にそれを渇望する者が側にいた。
 だからこそ声のひとつも挙げずに、涙のひとつも見せずに、無邪気な子どもとしてあいつを見守っていたのだ。
 包まれた温かさはずっと張り詰めていた涙腺を緩めるには十分で、かごめの衣を濡らした。
 とん、とん、と規則的に叩かれる背中と、とくとくと響く心の臓の音にだんだんと目蓋が落ちていく。

 「かごめ……」

 「なぁに?」

「あの、な。おらな、」

 話したいことはたくさんあるのに、言葉が紡げない。
 言おうとしたことは上手く声に出せずに、口の中には言葉が溜まっていく。
 閉じた目蓋はもう当分開けなさそうだ。
 そよぐ風や優しく擦れる木々の音に、春を迎えた柔らかな土や青々とした野草の匂いは少しずつこの耳や鼻から離れていく。
 代わりにしゃくり上げる自分の声に、聞いたことのない子守唄が混ざり、優しい匂いが鼻腔に触れた。
 もう口を開くことは諦めて、夢の中でもかごめの側にいられるようにと、柔らかな衣の端をぎゅっと握りしめた。

  ***

 昨日はあれから気が付けば楓の庵での宴は始まっていて、はしゃぎすぎたのかかごめと碌に話もせぬまま床についてしまった。
 かごめの傍らで、それこそ彼女を見守るようにしていた犬夜叉を差し置いて、せっかく膝の上を陣取ったというのに。
 しかし昨夜の宴の主賓はほかの誰でもないかごめだったのだから、ゆっくりと話す暇もないのは当然のこと。
 だから今日こそかごめとたくさん話すのだ。
 この離れていた三年の間のことを、余すことなく時間の許す限りに。
 急ぐ必要などはないのだろうが、昨日の今日だ。
 どうしたって気持ちが逸る。
 かごめは村の集落から少し離れた、昨日と同じ楓の別邸に寝泊まりしたと聞き、まだ朝も早いうちからやって来たのだ。
 遅くまで騒いでいただろうし、まだゆっくりと休みたかろうとは思ったが、逸る気持ちは抑えられなかった。
 年季の入った戸に手をかけると、昨日と同じようにガタガタと音を響かせて開いた。

 「かごめー……」

 『起きておるか?』と続けようとしたおらの目に飛び込んできたのは、緋色の水干を掛けたこんもりとした山がふたつ。
 狭い室内の奥に小さいものと、それに寄り添うようにして大きな山がひとつ。
 その正体に気付くのに時間はいらなかった。

 「犬夜叉……?」

 そろりと近づき覗き込むと、自分が開けた戸から薄く陽が差し込み、きらきらとふたりの頬を照らした。
 緩やかに伏せられた睫毛は震えることもなく、どちらもなだらかに弧を描いている。
 かごめは犬夜叉の首筋に額を寄せ、犬夜叉はかごめの髪に鼻先を埋めるようにして距離を縮めていた。
 その間には水干に半分だけ隠れるようにして絡み合う指先が見える。
 ふたりしてこんなにも穏やかな表情で眠っているにも関わらず、互いの指先はそこだけが意識を持っているかのようにして繋がっていた。
 その指先に、穏やかな寝息に、幸せそうな頬の色に、三年前のふたりを色鮮やかに思い出した。

 出逢ったときから不思議なふたりだった。
 姿形や身なりではなく、ふたりの間に漂う空気はまだどこか境を作りながらも、もうとうの昔に馴染みあっているような形容し難いものだった。
そこから互いに惹かれ合い、すれ違っては絡んだ糸を解くようにして繋がっていく様が幼い自分にも見て取れた。
 楽しくとも嬉しくとも、辛くとも悲しくとも、かごめも犬夜叉も当然のようにして互いの傍らにいた。
 そんなふたりを見ていると幸せで、時々苦しくもなったものだ。

 かごめがいなくなった三年の間、犬夜叉は金色の瞳を曇らせながら、だんだんとそれまで通りに過ごすようになった。
 それがどうにも悲しくて、犬夜叉の時折森の方を見つめる視線や、行き先を失った手のひらを見ては苦しくなって、こっそりと井戸に向かってかごめを呼んだ。
 そんな曇っていた瞳や寂しげな手のひらが、色や温度を取り戻すようにして蘇ったのだ。
 あの井戸から再び小さな手を取った瞬間に。
 それは遠い異国の夢物語のような、なんと綺麗で幸せな瞬間だったことか。
 犬夜叉、と詰まる胸の中で少し前の寂しげな半妖に声をかけた。

 「よかったのぅ、」

 本当によかった。
 この半妖の、ただ唯一の想い人が再びあの手を握ってくれて。
 澄んだ金色の瞳に映ってくれて。
 犬夜叉が、ふたりが、再び出逢い微笑みあってくれて。
 あんなにも待ち焦がれた日が来てくれて。
 あぁ……

 「しあわせじゃ……」

 もう、こんな幸福はどこにもない。

 鼻の奥がつんと痛んで、視界が滲む。
 繋がれた手はぼやけても、もう二度と離すまいとしかと結ばれている。
 涙が零れる前に強く拭い、鼻を啜ると浅葱色の袖口は大きく色を濃くした。
 誰が見ているわけでもない、滲み続ける涙を隠すようにしてそっと踵を返す。
 まだ互いに守り包むように寄り添い合い、穏やかに呼吸を続けるふたつの山を一瞥し、青々とした空を見上げた。
 この冷えて湿った空気は、やがて暖かく柔らかく変わり彼らを包むだろう。
 曇った瞳は光を見つけ、行き場を失くした手は帰る場所を見つけ二度と離しはしないだろう。
 むず痒いような溢れだしそうな幸せはひどく胸を熱くさせる。
 もう一度目元を拭い、澄んだ空気を思い切り吸い込み、楓の庵へと足を向けた。



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