「かごめ」

 お夕飯の片付けも終えて薄明かりの中、昼間にはできなかった針仕事をしていると、犬夜叉に静かに名前を呼ばれた。
 掛けられた声の低さに、先日こうして繕い物をしていて針を刺してしまったことを思い出す。
 指先に針を刺したくらいで……などというように、旦那様の過保護っぷりにため息することも少なくはない。
 犬夜叉の妻として時間を共にするようになってから、もうそろそろ季節は一巡りするというのに――――。
 この家で共に過ごすことにむず痒さを感じていた頃であればまだしも。
 彼からすればまだ一巡り、ということか。
 ――――また怒られちゃうかしら。
 掛けられた声に針を置きそう思いはしたものの、いつもの声色よりもほんの少し見える色が暗い気がして、その違和感の元を辿るように犬夜叉を見遣った。

 「なぁに?」

 むすりと口をへの字に曲げて腕を組む犬夜叉は、他の者から見れば不機嫌極まりない姿で、先日の針仕事の一件を知っていれば尚、またこんな事をして、と叱咤すると思うのだろう。
 が、ふわふわとした柔らかな毛に覆われた耳先がほんの少し、僅かに丸くなっていたことを私は見逃さなかった。

 「かごめ」

 犬夜叉はじっと見つめ合わせた瞳だけで私を呼び寄せる。
 素直に彼のすぐ目の前に腰を下ろすと組んだ腕と掻いていた胡座がするりと解かれた。
 その両腕がおずおずと私の元へと伸ばされて肩に指先が触れると、そのまま線を辿るようにして背中へと回される。

 「かごめ……」

 背中にするりと回された腕は緩やかに囲うようにしてこの身を引き寄せ、ふっくらとした袴を纏う両脚でも私を閉じ込める。
 左の首筋に額を乗せて呼ばれた名前は何とも弱々しく、常の彼を知る者が見れば目を丸くして疑うほどだ。
 いつも見せる大きな背中も今は頼りなく丸まっていて、まるで迷い子のようだった。

 「なぁに?」

 「…………」

 がっしりとした、けれども繊細な背中に手を回しぽんぽんとあやす様に豊かな銀髪ごと撫でてやると、私を囲う腕や脚にぎゅうっと力が入りきつく抱き締められる。
 それが少しだけ痛くて苦しくて、嬉しくて愛おしい。
 甘えるような鼻先が鎖骨の窪みをぐりぐりと擦るたびに、耳の裏側にふわふわと丸まった耳先がそっと撫でるようにして触れていく。
 それがどうにもこそばゆくて、首をすくめ身動ぎすると離しはしないと一層強く抱き締められた。
 ――――これはさすがに……

 「苦しいわ、犬夜叉」

 添えていた手で少し強く、とんとんと背中を叩く。
 けれでも腕も脚もその力が緩まることはなくて、代わりに駄々をこねるかのように無言で先ほどよりも強く鼻先を擦り付けられるだけだった。

 彼は時々、幼子のような甘え方をする。
 戦いに身を投じていた時の、肩や膝を貸したり、傍らで穏やかに眠るようなものではなく。
 ふと思い出したように金色の瞳を揺らし眉を顰め、私を呼び寄せてはその腕の中にきつく囲う。
 こうなるともう何を言っても利かないし、私の名前以外をあまり口にしなくなる。
 眠りに就くときですら、その腕や脚を絡ませたままで寝返りの一つもできなくなることも珍しくない。
 けれども翌日にはその甘え方が嘘だったかのように背筋を伸ばしている。
 その理由を、彼は話さない。
 私もなんとなく分かっているから聞かないのだけれど。
 だから代わりに存分に甘えさせてやるのだ。
 彼の震える金色が穏やかに澄み渡るように。
 寄り添うように、支えるように、包み込むように、甘えさせてやるのだ。

 回された腕に負けないくらい、私よりも一回りも二回りも大きな身体を思いきり力を入れてぎゅうっと抱き締める。
 そうしてたっぷりとした銀髪のかかる首筋に顔を埋めてぐりぐりと擦り付けて、時々すんすん、とお日様のような温かい香りを嗅いでみたり、大きく深呼吸してみてはその肩に頭を預けてみたりする。
 そんなことをしていると、拗ねたような声が私の首筋から聞こえてきて、それが小さく髪を震わせた。

 「………なんだよ……」

 「んー、落ち着くなぁと思って」

 「…………」

 再びぐりぐりと押し付けられる頭をそっと撫でてやる。
 さらりとして絹のように柔らかな髪を優しくゆるりと梳くように。
 そうして今日あった出来事をぽつりぽつりと話していく。
 早起きして出掛けたら珍しい薬草を見つけたこと。お洗濯物が流されそうになって慌てたこと。珊瑚ちゃんと村の娘とお茶をしながら話したこと。一人で少し先の家までお遣いに出たこと。
 朝起きて犬夜叉の寝顔を見て可愛いなぁと思ったこと。出かける背中を寂しいなぁと思いながら見送ったこと。木の上で昼寝をする姿にほっとしたこと。夕陽を映す銀髪が綺麗だなぁと思ったこと。
 そして今こうして抱き締められていることが幸せだなぁと思うこと。
 私の口から一つ一つ言葉が紡がれるたびに、強張る腕はその力をなくし、肩や背中に沿う指先は少しずつ熱を取り戻す。

 「ねぇ犬夜叉、大好きよ」

 「…………」

 「愛してるわ」

 「…………」

 「ずっと傍にいるわ」

 「……かごめ」

 そろそろと久しぶりに見えた顔はなんとも悲しげに歪む。
 漸く動けるようになった腕の中で、背中に回していた腕を解きそっと彼の頬を包む。
 小石を投げた水面のように揺らぐ瞳をじぃっと見つめてから、滑らかな額にそっと口付けた。
 それから音も立てずに唇を離して、そのまま皺の寄る眉間に、目蓋に、目尻に、鼻先に、頬に、口の端に、唇を寄せては離していく。
 あんなにも自信家なのに、愛し愛されることには自信がない彼に言葉だけではない気持ちを伝える。
 好きよ、大好きよ、愛してるわ。
 何よりも、どんなものよりも大切なのだと。
 蟀谷に唇を落とすと、低くもどかしいような声を犬夜叉が上げた。

 「……擽ってぇ」

 「あら、じゃあもういらない?」

 少しだけ意地悪く目を細めて見下ろすと、澄んだ金色が溶けるようにして視線をよこした。

 「……下らねぇこと聞くな」

 拗ねたような、それでもしっかりとした声色に『現金だこと』と笑いながら返して、そっと頬を包んで口付けた。
 甘えるように擦り合わせた額が、結んだ視線を近づける。

 「ねぇ、大好きよ」

 「あぁ」

 「愛してるわ」

 「あぁ」

 「ずっと傍にいてね」

 「当たり前だ」

 瞬きすれば睫毛が絡み合うほどの距離で、甘く言葉を交わしてもう一度優しく唇を合わせた。



  抱きしめたい背中








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