法師にあるまじき乱暴な言葉とともに井戸に蹴落とされ、怒る間もなくかごめの実家へと身を寄せたのはほんの半日前。 来たら来たで倉の掃除を手伝わされて、埃まみれになったからと湯浴みを勧められた。 ここはかごめの国で、かごめの実家で、まだ日は暮れていないとはいえ、月のない日に悠長に湯浴みをするなどありえないと突っぱねたのだが、草太の『姉ちゃん、綺麗好きなのになぁ』と呟いた一言に鋼のように強かったはずの意思も、細い枝の如く容易に折れて流されるままに草太と湯に浸かった。 湯浴み後、かごめの部屋に戻りしばらくすると、銀色は墨を幾度も塗り重ねたように変化し始めた。 この部屋の中で変わり始めたことに安堵し、湯浴みの疲れを混ぜながら細く息を吐いた。 かごめの家族を信用していないわけではないが、やはり変わっていくこの姿を他の誰かに見られるのは落ち着かない。 ふと見た外は弥勒たちの待つ向こうの国よりも明るいが、やはりもう陽は沈んだようだった。 黒くなった髪からはかごめと同じような匂いがして、鼻先に髪を寄せる。 そのまますぅと息を吸うと、効かない鼻でもはっきりと分かるほどにいい匂いが鼻腔を突いた。 かごめのような匂いが自分からも漂っている。 否、尤も、あいつの匂いはもっと甘く柔らかで嫋たおやかなのだが……。 安心するはずの匂いなのに、どことなく落ち着かず、むず痒いような気分にそわそわとする。 そんなことをしていると、いつの間に戻ったのか、かごめがなにやら上機嫌におれを呼んだ。 「犬夜叉、犬夜叉」 「あ?」 「さっぱりした?」 「あー、さっぱりっつーか、疲れた……」 初めてではないにせよ慣れない、しかもこんな日の湯浴みだ。 先ほどまでのことを思い出して、今度は深々とため息をついた。 「ふふ、そっか。ね、そしたらお風呂入ったついでに気持ちいいことしてあげる」 目の前のきらきらとした、可愛いものや好奇心に心寄せたときによく見かける目と、後ろ手に隠す何かに身構えるが、それ以上にかごめの言う“気持ちいいこと”に心惹かれてほいほいとその誘いに乗った。 「なんかしてくれんのか?」 「うん、してあげるから。ほら」 かごめは雲のようにふかふかとして、嗅ぎ慣れたいい匂いを染み込ませる寝床の壁に寄りかかりながら腰をかけ、その腿を軽く叩き頭を乗せろと笑顔で言う。 時折味わうこの膝枕が極上であることは熟知している。 柔らかくも適度な弾力と、じわりと滲むような温かさ。 髪を梳く細い指や、頭上で話す声は優しくて、何よりも安寧の海に浸かるようないい匂いに包まれるのだ。 ただ普段膝を借りるのは、傷を負っている時が多く、傷一つないようなこんな時にしてもらうなどということは片手で数えられるほどしかなかった。 拒否する理由も見当たらず、あまりにも魅力的なその誘いに負けて、『仕方ねぇなぁ』と白い腿に頭を預けると、影を作りながらかごめが覗き込んできた。 「犬夜叉、横向いて」 「あ?横?」 「そ、耳かきしてあげる」 隠していた右手には頭に白い綿毛をつけた細い棒を持ち、うきうきとしながらおれの黒髪を掻き分け、今はかごめと同じ位置にある耳を露わにした。 「耳かきだぁ?んなもんいらねぇよ」 「いいじゃない。大丈夫、私上手だから」 起こした頭を戻されて逆らおうと暫し言い合いをするが、預けた腿の柔らかさと、かごめの嬉々とした表情に負けて大人しく従うことにした。 「いくわよー」 そっと耳の中に入れられた棒は、こそこそと内側を擦り上げる。 びくりと震えた身体も、なんとも言えないこそばゆさに段々と力が抜けていく。 時々『わぁ』とか『すごーい』なんて声が聞こえるが、もうそんなものはどうでもいいほどに気持ちがよくて、自然と目蓋は落ちていく。 ひとしきり掻き終え仕上げだとかごめが言うが早いか、耳の入口をふわりと優しく羽根で撫でるかのように触れられたあとに、軽く吐息を吹き込まれてぞわりと項の辺りが粟立ち、閉じかけていた目もぱちりと開いた。 「なっ、!」 「はい、じゃあ反対ねー」 水から揚がった魚のようにぱくぱくと口を開けるおれに、変わらぬ上機嫌な表情で次は反対だと、こちらを向けと言う。 「どうしたの?」 「な、なんでもねぇ!」 熱くなった頬を隠すようにして、再び腿の上に頭を乗せると、いつもよりも弱々しくとしか感じなかったはずのかごめの匂いに包まれた。 薄い腹や豊かな胸は鼻先や蟀谷に触れそうなほどに近く、俯くかごめの肩からはらりと垂れた髪はおれの頬をそろりと撫でた。 垂れた髪を耳へと掛けるその仕草が妙に色っぽく、僅かな動きでも優しい匂いはふわりふわりと舞っておれの鼻と胸の奥底を擽った。 そんな強くなっていく胸の高鳴りにも上がり続ける熱にも、かごめは気づかない様子で俺の耳を弄り続ける。 なんでこいつはこうも鈍感なのかと腹が立つが、いい思いをさせてもらっている手前、少々理不尽な怒りであることは承知している。 そしてなによりも、ここで怒ればこの至福の時は無になってしまう。 逡巡し仕方がないとため息をひとつ吐いてから、幾分納得はいかないが与えられる心地よさを満喫することにした。 燻る熱を抑えるように目を瞑る。 柔く擦り上げられる耳の内側に、頬や頭を包むように添えられる手の温かさと適度な重み。 柔らかな腿の弾力と強くなった匂い。 時折掛けられる声ががなんとも落ち着くものだから、とろとろとした微睡みにそのまま身を委ねた。 「犬夜叉?」 かけた声への反応が薄くなり、ちらりと見ると前髪のすぐ奥の目蓋は完全に閉じていて、その胸元は緩やかに小さく動く。 眠ってしまったなら仕方ない。 あと少しで終わりそうだった耳かきを止め、頬に筋を成す艶やかな黒髪をそっと避けて、その流れに沿って優しく撫でた。 この夜を少しでもいいものにしてほしくて思いつきでしたことだったけれど。 月のない夜に彼がこんなにも穏やかな表情でいてくれることが、何よりも自分の傍でそうしてくれていることがたまらなく嬉しい。 「続きはまた今度ね」 そして同じ形をした耳に、また次の朔の夜に、とこっそりと告げた。 それから約束 |