とっくのとうに日は暮れて、とっぷりとした夜の帳も下り、眩いばかりに星が煌めいている。
 恐らく亥の刻を少し廻った頃であろう。
 つい先ほどまで弥勒と珊瑚の家で夕餉を馳走になっていた。
 食べ終えたその後も話に花を咲かせる女子ふたりを見ていたが、遂には双児が目を擦り、妖狐の幼子は欠伸をし出したので、さすがにこれ以上はとまだ話し足りなさそうな嫁を抱えて家路についていた。
 いつもであれば背に乗せて風を切るようにしてさっさと家まで帰るのだが、今日はそれをするには心許ないほどに腕の中に納まるかごめは脱力している。
 というのも夕餉を終えた後に珊瑚が出してきたとろりとした琥珀色の液体。
 以前楓から貰ったという梅酒であった。
 飲まずともわかる鼻先を擽る甘い香り。
 珊瑚とともに『美味しい!』とかごめは杯を進め、遂には浸かっていた皺の刻まれた梅の実まで口にしていた。
 かごめが嬉々として飲み進めるものだからそれは非常に美味そうに見えて、舌をつける程度にもらってはみたものの、やはりおれには甘すぎて纏わりつくようにして残る甘みを水で流し込む始末だった。
 その代わりにと弥勒が庄屋から貰った(脅し取った)という酒を男ふたりでちびちびと口にしていた。
 酒も進み、女同士の声色も高さを増した頃には、かごめは頬どころか白い指先も緋袴から覗くふっくらとした踵も薄紅色に染まっていた。
 これは呑ませすぎたとついた溜息は酒気を帯びていて、いつの間にか自分も杯を進めていたことに気づく。

 「おい、かごめ。そろそろ帰るぞ」

 「えー、もーぉ?」

 まだ話し足りないと頬を膨らませる様は元の幼さも手伝って、弥勒と珊瑚の間で眠た気に目を擦る双児のように幼く見えた。

 「もうじゃねぇ、そろそろ亥の刻廻るぞ。それにガキどもも寝るだろ」

 かごめは転がる双児や七宝を見遣ると、弥勒と珊瑚に謝罪をし、それでも後ろ髪を引かれるようにして夫妻の家を後にした。

 「ほら、掴まれ」

 「うん?おんぶ?」

 「ばぁか、無理だろ。そんなんで」

 よたよたと覚束無い足取りの腰を支えてから、抱えようと声をかけると『えへへ』とこちらまで脱力するように笑いながら、かごめは素直におれの首へと腕を回す。
 腕の中に抱えるとぱたぱたと楽しげに脚が動く。

 「くぉら、動くな。走れねぇだろ」

 「だぁって、ひさしぶりなんだもん、いぬやしゃのだっこ」

 へらりと蕩けた笑みを向けられて、むず痒さに顔を逸らす。
 『……んなもん、いつでもしてやるよ』と呟いた声は意外にもしっかりと届いていたようで、腕の中でかごめは文字にでも起こせそうな笑い声を増やして胸板に頬を擦り付けていた。

 思っていたよりも遅く着いた家の中は当たり前だが真っ暗で、夜目で探って灯りを灯す。
 それから常よりも熱い小さな身体を冷たい床に降ろして、傍らに布団を敷いた。
 が、かごめは一向に横になろうとはしない。
 寝ろと促しても布団に入ることもせずに、それどころか胡座を掻くおれの膝の上に身を乗せて、銀色の髪を編んで遊び始めた。
 薄暗い中、申し訳程度に灯された灯りが器用に動くかごめの指で影絵を作る。

 「いぬやしゃー」

 「あ?」

 「いーぬやしゃー」

 「あー」

 縺れて絡まる舌で呼ぶおれの名前は耳の奥まで蕩けるほどに甘ったるい。
 抱える熱は先ほどよりも冷めたようだが、眦も頬も耳の先も、髪を編む指も楽しげに揺れる足の甲も薄紅色のままだ。
 笑って頭が揺れるたびに艶かな毛先が腕を擽り、薄紅色の身体からは優しい彼女の芳香が溢れた。

 「ねーぇ、いぬやしゃ」

 「……んだよ」

 緩くおれの名前を呼びそれに返事をするこの応酬がやたらと楽しいらしく、上機嫌にそれを繰り返す。
 かごめが名前を呼ぶのものだから、おれだってそれを無視するわけにもいかずに何かしらの声を返す。
 もう寝付けるのはとうに諦めていた。
 四半刻ほど前に敷いた布団が視界の隅でぽつりと寂しげに映る。

 「ねーぇ、あたしのひみつ、おしえてあげよっか?」

 暫くぶりに話したおれの名前以外の言葉は、なんとも興味をそそられる一言だった。
 お互いに隠し事をしている訳ではないが、例え夫婦であれども秘密や言いたくないことの一つや二つあったとしてもそれは仕様がない。
 まぁ話すのが今でないというだけで、いつか話してくれたらいいとは思うが。
 それでも惚れた女の“秘密を教える”などと、しかも当人からそんなことを言われれば、返す言葉は一つしかない。

 「しりたい?」

 「あぁ、教えろよ」

 「えー、どーしようかなぁ……」

 「あぁ?お前が言ったんだろ」

 「だぁって……とってもたいせつな、ひみつなんだもん」

 編んだ髪ごと口元を押さえてくふくふと悪戯をするように笑う。
 幼さの中に夜に見るような情が混じり、そんなかごめを腕の中に囲っている、なんとも言えない感情が胸を奥をじわりと濡らし、酒の匂いを帯びた甘く熱い吐息が髪から伝わり背筋がぞくりと震えた。
 そのまま腰の奥に響いていくような痺れを抑え込んで、もう一度、今度は艶やかな髪を梳きながら僅かに低くした掠れた声で『教えてくれよ』と、黒蜜のような瞳を捕らえて囁いた。

 「……あのね、」

 「いぬやしゃのこと、だいすきなの」

 負けじと囁かれた声は夜の情交を彷彿とさせるほどに熱く甘く、それなのに語られた秘密はあまりにも幼く素直だ。
 悪戯が成功したとばかりにくふくふと、えへへと笑うかごめに先ほどまで焦れるようにしていた痺れも消え失せて、毒気を抜かれる。
 とうの昔から知っていた当たり前のことを改めて言われて、返す言葉の一つも見つからずに、熱くなる顔を隠すようにして唸りながら額に手を当て俯いた。

 ふと、ぱたりと静かになった膝の上を見遣ると、そこでは庭先の猫宜しく丸まって眠る幼顔があった。
 癖のある黒髪が数本、頬に線を成し、伏せた睫毛はふっくらとした頬に影を落としていた。
 薄らと開いた唇からは健やかな寝息が零れる。
 散々振り回されてこちらは下腹部の痺れや熱い頬を隠すのに必死だったというのに、この嫁ときたら存分に笑って言いたい事を言ったら、あれだけ寝ないと言い張っていたのも忘れて、ころりと夢の中に落ちてしまった。
 このひとときの出来事はこれから先の自分たちを見ているようで、それがやたらと甘く優しいものだからこの身に余る程の想いを吐き出して、未だに熱い頬を誤魔化すようにして小さな頭を撫でた。

 「覚悟してろよ……」

 次は自分が遊んでやろうと、小さく声を漏らしながらもくぅくぅと眠りを貪るかごめの産毛の生えた蟀谷に唇を寄せた。



  









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