空が紅を交えた藤色から瞑色へと変わっていき、夜の澄んだ匂いを連れてくる。
 もう随分と日は延び、昼間には草や土の匂いが強くなってきた。
 そろそろすれば季節は雨を連れてくるだろう。

 「ねぇ、犬夜叉。海に行きたいな」

 「海?」

 白湯の入った茶碗を見つめながらかごめが言った。
 あまり何かを望むことも強請ることもしないかごめの珍しい願いに、明日のことを頭に浮かべる。
 ちょうど明日は妖怪退治も村の手伝いもなく、朝からかごめの手伝いをしようとしていたくらいだった。
 今日の夕焼けは綺麗な茜色だった。
 多分明日は出掛けるにはいい天気になるだろう。

 「あー、そしたら明日にでも行くか」

 「ううん、今がいい。今から行きたいの」

 ゆるりと微笑み『連れてって』と言う静かな声は、間違いなくかごめのものなのに、漂う雰囲気は霞にかかったように朧気だった。
 いつもの桜色の頬は影を潜めて、変わるそこは雪のように白く、温かいはずの茶碗に沿わせる細い指も見るからに冷たそうに白いままだ。
 小首を傾げながら僅かに細めた眼はおれを見ながらもその奥を、もっと遠くを見ているようで、おれは気持ちに糸を張るようにして頷いた。

  ***

 かごめが慣れたように背中から降りると、そこにあった温かさは夜風にさらりと流されて消えた。
 乾いた砂浜を通してひんやりとした夜の空気を感じる。
 微かな砂音を立てながら波打ち際へと歩くかごめを目で追うと、その奥に広がる静かに揺らぐ海は波の縁に沿って青白く内側から光るようにして色付いていた。

 「これ……」

 「夜光虫、っていうのよ」

 「やこうちゅう?」

 「そう、綺麗でしょ」

 細く静かな声が夜に響く。
 かごめは草履を手に緋袴の裾を上げて浅瀬でちゃぷちゃぷと足を遊ばせる。
 それに合わせるようにして夜光虫は青白く仄灯りをともし、白い足首や小さな爪先をぼんやりと照らした。
 それはまるで、何者も見てはいけない秘め事のようで、そのまま足先から泡となって冷たい光の中へと溶けていきそうだった。
 今すぐ駆け寄って抱きしめたいのに、ずっとずっとこのまま、永遠に見ていたいとも思えて呼吸すら忘れる。

 「犬夜叉?」

 振り返ったかごめの足元で青白い光がぴちゃりと跳ねる。
 白い上衣が海を反射して青白く光る。
 その奥で白く輝く欠けた月は彼女を作る線を融かし、表情を隠した。
 ぼぅっとした意識を振り切るように、焦る気持ちも隠さずに駆け寄り、かごめを抱きしめる。
 砂浜よりも冷たい海の中。
 大きく跳ねる光を携えた海。
 水面が揺らぐたびに砂も水も爪先から少しずつじわじわと、喰らうようにして足元を沈めていく。
 静かに消えていく光に堪らず腕の力を強めた。

 気づいてはいる。
 かごめが時々遠くを見ていることも、寂しそうに微笑むことも、一人ふらりと出掛けては佇みながら井戸の淵を繰り返しなぞるようにして触れていることも。
 前に一度聞いたことがある。
 井戸の向こうに戻りたいかと。
 その時かごめは黙って首を横に振り、『戻ったらきっと、後悔するわ』と微笑むだけだった。

 かごめはこちらに戻ってきてからしばらくすると、あまり向こうの話をしなくなった。
 以前話していたような聞き慣れない言葉も使わなくなり、ここでの生活に必死で慣れようとしているようだった。
 かごめが話さない、だからおれも聞かなった。
 思い出させて傷つけるくらいなら聞かないほうがいいと思った。
 いや、違う。嘘だ。
 そうではない。
 本当は聞いてしまったら、かごめは向こうに戻ってしまう気がして聞けなかった。
 色も匂いもない、暑さも寒さも、光も闇もないような、ただ周りだけが変わっていく、そんなところでまた独りになるなどと、もう二度と耐えられそうにはなかった。
 本当は、聞きたいことはたくさんある。
 話さなくてもいいことも、聞かなくてもいいことも、知らなくてもいいことも、全て話してほしい。
 聞いたその先を知るのは怖いのに、全てを知りたいだなんて、とんでもなく身勝手で我儘だ。
 それでも、かごめのことならなんだって、どんなことだって知りたい。
 それが自分と出逢う前のことでも。
 幸せなこともそうでないことも、全て。

 思い出も記憶も黙っていればいつかは幻のように姿を変える。
 輪郭は朧気に、色は褪せていく。
 かごめも怖いのだろうか。
 忘れていくのが、その形を変えていくのが。
 大切な人たちの顔を、声を、匂いを、記憶を。
 かごめがいなくなったあの時も、周りはだんだんとかごめの話をしなくなった。
 なかったことにしているわけではないのは分かっていた。
 腫れ物に触るような態度をとられても、話題にあがっても苦い表情をするのもおれのほうだったのに。
 誰も何も話さないかごめは、ただひたすらに俺の中では鮮明なのに、まるで夢想だったかのように、少しずつ掴みどころがないものになっていった。
 あの薄衣の殻の中に籠るような感覚。
 かごめもそうなのだろうか。
 いくら時間が経ってもいくら季節が過ぎても、どこにも行けずにあの時のあそこに立ったままの、かごめのいなかった頃の俺のようなのだろうか。

 「なぁ……かごめ。お前の話、聞かせてくれ」

 「なぁに、いきなり」

 「なんでもいい、おれと出逢う前のこととか………お前の大切なもののこととか、なんでも……」

 「……ん」

 胸元で擦り寄るように小さな頭が動くと、だらりと垂れていた細い腕はおれの背中にきつく巻かれた。
 上げていた緋袴の裾が緩やかに海に浸り、それを囲むようにして夜光虫は青白く光っては消えた。

 夜風が冷やした小さな身体に俺の体温が移った頃、かごめは深く息を吸って『帰ろっか』と呟いた。
 『あぁ』と答えながら潮の香りの漂う黒髪をひと撫ですると、まるでよく懐いた猫のように目を細めて微笑む。

 「冷たーい、濡れちゃったね」

 「海ん中になんて入るからだろ」

 「だってせっかく来たし、入りたかったんだもん」

 おれの腕を支えに草履を履き、濡れた裾を軽く絞る。

 「ほら、風邪ひかねぇうちに帰るぞ」

 子どものように間延びした返事をしながら、かごめはおれの背中にその身を預けた。
 先ほど流された温もりと柔らかさが戻ってきて、それがあまりにも優しくて静かに唇の端を緩める。

 「ねぇ犬夜叉、ありがとね」

 「あぁ?」

 「少しずつ、話していくわ……私のことも私の大切な人たちのことも」

 『たくさんあるんだから。気長に聞いてね』とかごめは笑う。
 おれの顔のすぐ傍に寄せられた頬は温かい。

 「あぁ、これからのんびり聞いてやるよ」

 いつだって、いくらだって。
 どこでどう転んだって俺の残りの未来じかんはかごめと過ごすんだ。
 もしかしたらずっとずっと先だと思っている、かごめの皺くちゃな手を握るのは、おれたちが思うよりも意外と近いのかもしれない。
 それでもかごめの話を聞いて、時々は喧嘩して、これから先の俺たちの話をするくらいのことはできるだろう。

 「いや、足んねぇかもな」

 「ん?なぁに?」

 「なんでもねぇよ」

 『なによー』とおれの背中で楽しげに笑う声が耳を揺らし、くつくつとした揺れが背中を過ぎて胸に響く。

 「おめぇが婆ぁになっても聞いててやるよ」

 「あら、嬉しい」

 『約束ね』そう言って小指を結ぶ代わりに横目で視線を絡めて笑いあった。
 幸せそうに笑うかごめの瞳に映るおれは穏やかに微笑んでいた。



  夜光虫









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