「はぁ……」

 ついたため息は慣れた部屋の中で思いの外に大きく響いた。
 筆をとめて、軽く広げた手をじぃっと見つめる。
 弓矢でできた擦り傷に手のひらのまめ。
 右手の人差し指の爪は欠けていて、左手の甲の傷はどこでできたものかもわからなかった。
 普通の生活では決してできないような、度重なる戦いの中でできた傷だらけの手。
 細い指や形のいい爪、白い手肌はそのままだが、細かな傷を合わせれば数えるのも億劫になるほどにその手は荒れていた。
 どうにかしようといくら頑張ってケアをしてみても限界はあって、ましてや今の生活の中で以前のような無傷の手に戻そうなんて到底無理な話だった。

 ――――こんな手、大人でだって滅多にいないわ

 誰のせいでもない。仕方がないとは思うけれど、ふとした時に気になってしまう。
 今みたいに不揃いな爪なんかがふと視界に入ったときだとか、自分の肌に触れたときだとか、ささくれや傷のちょっとした痛みだったりとか。
 みんながしているような、色づく目元や頬にかわいい唇、流行りの服やつやつやとしたヒールのあるパンプスなんかを見て少なからず羨ましいと思う。
 テレビや雑誌でちらりと見たそれらを思い出して、今の自分と比べてみて今度は部屋中に響くことを意識して深いため息をついた。
 綺麗でいたい。可愛くいたい。
 お洒落は難しくても、できる限り、少しでも身なりを整えたいと思うのは当然のこと。
 唸るようにして自身の手指と向き合っていたかごめは、ドレッサーにしまってあったピンクの小瓶を思い出した。
 書きかけの数式もそのままに、少し瞳を輝かせながらそこへと手を伸ばした。

  ***

 「かごめ、おめぇなに塗ってんだ?」

 それ、と犬夜叉が指さした先にはつやつやとしたかごめの小さな爪。
 欠けてしまった爪も綺麗に丸く整えられて、桜色に色づいた手をかごめは満足気に陽に翳した。

 「これ?マニキュアっていうのよ、爪のお化粧。綺麗でしょ?」

 粗野で肝心なところでは鈍感な犬夜叉だが、以外とこういう小さな変化には気がつくのだ。
 爪の色がほんの少しいつもと違う、ただそれだけの変化に彼が気付いたことに驚いたが、それ以上に犬夜叉が自分にそれだけの興味関心をもってくれていたということが嬉しくて、かごめはにこりと笑って照れたようにほんのりと頬を染めた。

 「爪に化粧すんのか?」

 なんで爪なんかに、とでも言いたげに首を傾げながら、犬夜叉は陽に翳されて淡くきらめく指先を眺めた。
 小さな変化には気づけども、その心意まで汲み取れというのは難しい話か。
 これが弥勒であれば慣れたお世辞のひとつやふたつ、流れるようにして出てきたであろうが。
 今はこちらに来れば四魂の玉を集めろだの奈落を倒せだのとその身には大きすぎる使命を負って、元の世界に戻ればテストだの受験だのと忙しなくしているが、そもそもかごめはたった15歳の女の子だ。
 たまには遊びたいしお洒落だってしたい。
 綺麗とか可愛いと言われればそれなりに嬉しい。
 殊更好きな人には――――

 「少しでも綺麗とか可愛いって思ってもらいたいのよ……」

 好きな人といるときも、好きな人を想うときも、好きな人に見つめられるときも、触れられるときもいつだって綺麗で可愛くでいたい。
 その肌に触れて、この肌に触れられて。
 もっと触れていたいと、もっと触れられていたいと思われたい。
 そんな当たり前のことをぽろりと言いこぼして、かごめは翳していた爪を抱きしめながら、その唇を少し拗ねたようにしてとがらせた。
 色づいた爪の心意に気がついて、今度は犬夜叉がその耳をぴくぴくと小さく動かしながら照れたように視線を泳がせる。

 「あー……まぁ、これもいいけどよ……その、たまにはいつものに戻せよな」

 犬夜叉は小さく柔らかな手を取り、ほんの少し、自身でも気づかないくらいに少しだけ目尻を下げてその指先を見つめる。
 そのまま爪の先まで愛おしいとでも言うように優しく緩やかに撫でられて、細い指先はじわりと熱を持つ。
 蕩けたはちみつ色の瞳は桜色の薄い膜の奥にあるものの全てを愛するように彼自身が撫で続けるその様を見つめた。
 その姿に、その感覚に、なんとも言えないこそばゆさを感じて、かごめは撫でられ続ける指先から目を逸らした。

 「……次は落としてくるわ」

 「ん、」

 かごめを形作る細胞のひとつひとつですら愛おしいとその視線は言葉以上に雄弁に語る。
 柔らかく静かにくちづけられた傷はもう薄くなっていた。



  愛がにじむ







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