「夏野くん、あと五分で年が明けちゃう」 数少ない街頭の光を頼りに華奢な腕時計で現在時刻を確かめる。 あと五分しかない、と言うわりに本人はちっとも慌てた素振りは見せないし声に焦りを滲ませることもない。 結局一年を通してずっとこの調子だったことを思い出してため息を白く吐いて夜の闇に溶かした。 「あんたが遅れてきたからだろ」 白のような淡黄色の着物の袖からのぞく手首は細くて白い。胸元のあたりですとんと行儀良く収まる見慣れた真っ直ぐの髪が今は後ろで緩くまとめられていて、惜しげもなく晒されている首筋は普段のそれとは変わらないはずなのに何故か見てはいけないもののように思えた。それともそんなものに特別な何かを見出だして目を逸らしてしまっている自分が意識をしすぎているだけなのか。なまえさんが待ち合わせ場所に遅れて姿を見せた時からずっと気分が落ち着かないでいた。 だけどこの人が口を開くとばかばかしい気持ちにもなる。 「まあまあ。慣れてるでしょう?」 「反省しろよ」 年上のくせにまるで年上らしさを感じさせない。年はたしか二十歳だったはずだ。深夜に初詣に行こうと誘ってきたのは隣を歩くこの人の方だ。なのに待ち合わせに遅れ、年明けまであと少しだというのにまだ暗い道の途中にいる。 反省した様子はなく「機嫌直してよー」と頭を撫でてじゃれてくる手を払いのける。 「やめろって」 「直った?」 「直るわけないだろ、今ので。どういう思考回路してるわけ」 「夏野くんがかわいくて、つい。ごめんね」 男がかわいいと言われて喜ぶわけがない。少なくとも自分はその部類には属さない。そんなこと知ってるだろうにいつまで経っても改めない。 楽しげに笑う姿に半ばうんざりして山の中腹にある寺の方を見る。明かりがついている。あと数分もすればあの山からも最後の鐘の音が響いて年が明けたことを告げられるんだろう。その頃になっても恐らく自分たちはまだ村の中を歩いているわけだが。 同じように初詣のために歩いている人間がぽつぽつといるにはいる。そのせいもあって顔見知りに出会う度に隣で律儀に挨拶が交わされている。後ろに置いていきそうになったのはこれで何度目だと眉を寄せて視線を送るが相手に届くことはない。 「あらまあなまえちゃんきれいなお着物……あら、弟さんなんていたかしらね」 「母のなんですー」 悪意を含まない疑問と能天気といってしまってもいい緩やかな声調が胸を容赦無く貫いていく。 笑ってないで、否定しろよ。そんな苛立ちにも似たショックといえるようなものがふつと沸き立つ。矛盾だ。いつもならどこの誰それと認識をされなかったことに都合がいいと考えるはずが妙な引っかかりを見つけて否定を望んでしまう。面倒は少ないほど良いとわかっているくせにだ。 ちらとなまえさんに目を遣る。身長はやっと抜くことができたが問題はそこじゃないんだろう。雰囲気や顔に現れる年齢の差がどうあっても埋められない、つまりそういうことだった。 多少の覚悟はしていたとはいえ、実際耳に入れてみればそれは不快で多少なりとも自尊心を傷つけられるものだった。時々男が振り返ってこっちを見てくるのも不快だ。何を見ているのかは察しがつく。 「夏野くんったら、置いていかないで」 置き去りにして一人歩いていたらしく後ろから小さい歩幅で追いかけてきた。弾むように楽しげな声。こっちの気も知らないでのんきな顔だ。この人は気にはならないのかと若干呆れて眺めていると、目の前まで来たところで、あ、と声を漏らしてつまずいた。声も出ず、ほとんど反射だった。腕を掴むことでなんとか地面への接触は阻止する。 「ありがとう、すごいね」 転びそうになったのは自分のくせに、何故か本人にはあまり驚いた様子はないどころか、穏やかな目の中にわずかに光を瞬かせて緩んだ頬のまま微笑んでいる。 こちらの方が驚いてしまっているのがいまいち釈然としないでいると、また頭に手を伸ばしてこようとする。学習しないのか、この人は。「だから、そういうのやめろって言ってるだろ」と払いのけた。それでもまた何事もなかったように笑って隣を歩き始めるから鈍感なのか図太いのかわからなくなる。 「でも危なかったー。汚して怒られるところだった」 「慣れないもの着るからじゃない?」 「またそういうこと言って。モテなくなっちゃうよ」 そう言って軽く受け流されてしまうことが多い。多少嫌味っぽいことを言われても大して気にも留めない。やっぱり物事に拘らない質なのか何も考えていないのどちらかなんだろう。 「そういうのどうでもいい」 「それは、わたしにモテてるからどうでも良いって意味なの?」 「何で、そうなるんだよ」 一瞬目を白黒させてふいと顔を背け、足を前に踏み出した。違った?残念、と大して気にした風でもなくあっけらかんとした声が笑い声と共に追いかけてくる。 鼓動が少しだけ早く胸を打つ。図星を、突かれたんだと気付いた。他の誰に好かれようと関係がない、他人からの好意がどうでもいいことを無意識的にでも見透かされているような気がして内心おもしろくなかった。 もう心の内側に入れてしまった人だ。この粘度の低そうな性格を嫌ってはいないことは自分が一番知っている。事あるごとにねちねち責めてこられるよりはずっとましだと思えるし、粘着質なこの人を想像すればそれは全くの別人でなんとなく笑えてしまう。そもそも嫌いなら間違いなく今ここにはいないだろう。 だけど、へらへらとしているかと思えば時々核心をついてくるようなことを言い出すから油断ならないところがある。 そんな人にでも気に食わないと思っていることがひとつあるらしい。 「おれより、なまえさん自分の心配したら」 「ねえなまえさんってやめてほしいな、夏野くん」 軽口をあっさりと流して唯一不満に思っていることにだけ飛びついてきた。 この人が求めているのは“なまえさん”じゃなくて“なまえ”だなんてこととうに知っている。知っていてそうしないのにはわけがあった。 「あんたがやめたらやめる。だから名前で呼ぶな」 人には自分の望む呼び方を強いてくるのにその逆は受け入れようとしない。「夏野くんのこと名前で呼びたいんだもの。彼女っぽいでしょう」と理由付けて。その主張を理解できないわけじゃない。こっちだって、好きでそう呼んでるわけじゃない。その呼び方が余計年の差を際立たせ自ら浮き彫りにしてしまっていることにも気付いている。この人が何度言っても改めるつもりがないから、自分だけが要求に応えるのが面白くなかっただけだ。 そうして妙な意地の張り合いに付き合うはめになったというわけだ。 「夏野くんももう諦めてくれればいいのに」 そっちこそと言いかけて言葉が喉元で止まる。 にこやかに手を振りはじめたと思えばそれは前を歩く村のどこかの住人に対して行われた行動だった。 またかと思いつつ、やっぱりだとその顔の輪郭や指のラインを視線でなぞる。ただ手を振っているだけなのに別人みたいだ。今日のこの人は会った時からずっとそうだ。自分のもののようでそうでないように思えてくる。何も知らない人みたいだ。中身は何も変わらないはずだっていうのに。 振る舞いのひとつひとつに品があって、誰だよあんたはと言いたくなるくらいに綺麗だった。だからこそ誰かに見られているのも、手を振っているのも気に食わず顔を顰めた。 「……誰?」 「うーん、誰だったかなぁ」 「知らないのに手振ってんのかよ」 「無視できなくって。それに外で愛想良くしておいて損なことはないのですよ夏野くん」 「なんだよ、それ」 目が合えば会釈するなり笑顔を向ける、なにかしらのアクションを自分から起こす人だ。愛想がいいとこの村では認識されているらしいが、実際は目が合ったものをそのまま逸らせないという理由が主らしい。 勘違いをされることもあるくせに、ついやってしまうと言ってその癖を直さないこの人は時々危なっかしくて見ていられない。こうして見ていないとどこかいってしまいそうなそんな気さえした。 相手が振り返した手にまた振り返しているなまえさんの腕を掴んで引き寄せた。 「……どうかした?」 今度こそ驚いたらしく、少し目を丸くしてこちらを見上げてくる。 水溜り、と目で指し示すとそれを確認して、ありがとうと笑う。手を振り返すのもやめたらしく平穏にも似たものが戻ってきた。かと思えば、さっそく隣で慣れない草履で小石を踏んで危なっかしくよろめいている。怪我をするのも時間の問題のように思えた。仕方なくどこか掴むようにと伝えるときょとんとした顔で見上げてきた。 「どうして?」 「なまえさんほっとくと溝にでもはまりそうだから」 そう一言加えると、怒るわけでもなくへらっと笑った。 「今日の夏野くんジェントルマンだねぇ」 「……やっぱやめる」 「ごめんごめん」 慌ててこれもじゃれてくるように腕にしがみついてくる。もっと他に手とかあるだろうと思ったが、うれしそうにそうしている姿を見たら言う気も失せていってしまう。やっぱり中身は変わらない、年上には思えない。そう感じることが越えられないものを埋める方法のように思えた。 「あ、そろそろね」 しばらくして、手首を返して時計の文字盤で時間を確かめる。長針と短針が重なり合おうとしていた。 「夏野くん、こっち向いてて」 「は?なんで…」 「いいからいいから」 しぶしぶ指示に従うと、しばらくして除夜の鐘が鳴り響いた。年が明けた。すると向けられていた笑みがさらに深められ「あけましておめでとう」と満足げに告げられる。納得がいかないままこっちからも返し、これから何かするのかとしばらく待ってみたが何も起こらなかった。それどころか本人はもう前を向いてしまっていた。何だったんだ、今のは。自分の取らされた行動の意味がわからないでいるのに、させた本人はすでにすっきりとした顔で今年も甘酒あるかな?と呑気なことを聞いてくる。 「…なに、今の」 「ん?何が?」 「人に頼んどいて自己完結って…あんたどれだけ自分勝手なんだよ」 「ああ、そうだね。そういうつもりはなかったんだけど。ただ」 なまえさんが悪戯っぽい笑みを浮かべる。 「一番最初に見るのは夏野くんがいいなと思って」 思ってもみなかった理由のせいで、頬に血が上っていく感覚を味わいながらマフラーに口元を埋めた。 「……そういうこと言っててよく恥ずかしくならないよな」 「全然恥ずかしくないよ」 相変わらず恥じらいもなく当たり前のように笑って告げられる。 「だって本当のことだもの。夏野くんが好き」 「もういいって……」 聞いているこっちが恥ずかしくなる。けれど新年一番に向けられ与えられた感情を噛みしめれば、募ることしかできない自分がいた。 「夏野くんはそうじゃないんだ?」 なまえちゃんは悲しいよと冗談めかして言うから、なまえちゃんってなんだよ、と心の中で突っ込みながら夜の暗がりに紛れて手を握ってやる。ぱちとなまえさんが意外そうな顔で瞬きをしてこちらを見た。 「夏野くん?」 「そうじゃないなんて言ってない」 そう言えば目元を緩めて他の誰にも見せないような子供みたいな顔で破顔するから、簡単に手を離せなくなった。 なまえ。 呼べばどんな顔をして笑うのか。知りたいような気持ちになる。きっとまた恥ずかしげもなく素直すぎる言葉と一緒に笑っているんだろう。 その名前を心の中でなぞって想像してしまえば、不思議と願いのひとつくらい叶えてしまいたくなる。 いつかやってくるかもしれない日。 それはこちらの願いでもあることを、この人はまだ知らない。 20110107 きみの名を ← |