「静信」 真夜中の廃教会の扉を遠慮がちに開けたなまえを振り返りながら違和感を覚える。この場所を不気味だと言って近寄りたがらない彼女がよりにもよって村が寝静まった時間にやってきた。それがどれほど不自然なことか考えるまでもない。何かあったのだろうか、問いかけようとして口を噤んだ。何かあったかなど、もう今のこの村では愚問なのかもしれない。 入口で躊躇っているなまえに微笑むとほっとしたような表情を浮かべ、背後の闇夜から逃げるように少しばかり急ぎ足でやってきて隣に腰掛けた。 「夜中に歩きまわるのはあまり、賛成できないな」 「うん、怖かった」 「近頃は野犬も多いようだから」 「うん……でも会いたかったの、どうしても」 肩に頭を預けてなまえは目を瞑った。僕は小さく、そうとだけ返す。ランプの明かりが目の下にまつ毛の影をつくっている。影のせいだろうか、なまえの顔がどこか沈鬱で憔悴しているように見える。不安が込み上げ、あたたかな肌に落とす影から守るように彼女の手に自身のものを重ねて握った。そうするとなまえは薄く目を開きまた閉じていった。 「……昔話でもして」 「昔話?」 「そう、桃太郎とかじゃなくて」 口元に薄い笑みを浮かべる様はもう立派な大人のそれだというのに、昔話をねだるなまえにかつて両親に向けた幼さを垣間見たような気がした。 ステンドグラスを見上げながら唐突すぎる要望に応えるため思案する。記憶を探るといつかの出来事を思い出す。 「最近、気が付いたことがあるんだ」 「気が付いたこと?」 「うん。昔、まだ小さかった頃のことだけど」 うん、となまえが頷いて返すと彼女の髪が首筋をくすぐってこそばゆかった。けれど耳をつんざくような蝉の鳴き声を聞いた夏の日のことをいくつもの記憶の中から彼女のためだけに掘り起こす。樅の木の緑も空の青さも何も変わらないずっと昔のことだ。 「確かお盆の時期だったかな……敏夫と僕とで、一度だけ知らない女の子と遊んだんだ。多分ご両親の帰省についてきた子だったんだろうね、村にいる女の子とは少し雰囲気が違ったからすぐわかったよ」 なまえが身じろぎもせず黙って話に耳を傾けていたから僕は記憶の断片を拾いながら続けた。 「遊んでほしそうにしていたから川で一緒に遊んだんだけど、その子のサンダルが流されてね」 夏らしい白いワンピースを着た子だった。両親から持たされただろう麦わら帽子を煩わしそうにしていたような気がする。ワンピースはふわふわとしていてとても川で遊ぶような格好ではなかった。だけど子供だったあの子は気にもしなかった。連れてこられた田舎で暇を持て余していたところにちょうどいい遊び相手を見つけたことの方が大事だったのかもしれない。そういえば流された小さいサンダルもやはり川遊びには似つかわしくないものだった。 「追いかけたんだけど結局流されてしまって、その子は片方だけ裸足になってしまうし、転んで怪我をして泣いてしまったり、大変だった」 河原には石がたくさん転がっているから、きっと傷は痛々しいものだったはずだ。 「それで敏夫がその子の家に、親戚の家までおぶって帰ったんだ。敏夫は、面倒見のいいところがあったから」 僕はその敏夫の横であの子の河原で傷ついた足や今にも落ちそうになって揺れていた足先のサンダルを見ていた。きっとますますこの村を嫌いになった、もうここには来ないかもしれない、そんなことを思っていた気がする。今となっては遠い出来事のことで定かではないけれど。 だんまりだったなまえが肩口に頬をすりつけてきたかと思えば小さく含み笑いをした。 「それ、わたしだ」 「うん、そうなんだよ」 あの時のあの子は君だった。何をきっかけにというわけではないけれど唐突に思い出し気付いた。あれはなまえだった。 「まさか越してくるとは思わなかったな」 彼女が越してきても今の今まで気付かなかった。何しろ会ったのはあの一度きりだったし、彼女にそれほど面影は残っていなかった。ただ一緒に過ごすようになって、その笑い顔にひっかかるものがあった。それが最初の糸口だった。 「おんぶしてくれた男の子が静信だったら運命的だったのに」 「そうだね……でもこういう時に率先して動くのはいつも敏夫だったから」 「わたしはおんぶしてくれた男の子が少しだけ好きだった気がする」 「そうだと思った」 後悔してるよ、今は。そう苦笑しながら告げると、なまえが手のひらを返してそっと指を絡めてきた。そうしてもう片方の手を僕の手の甲に重ねる。今は自分だけだと言われたようで、村に起こる出来事などなかったかのようなあたたかな安寧が胸の内になだれ込んでくる。 「少しだけ眠りたいな……起きるまでこのままでいてくれる?」 「心配しなくてもどこにもいかないよ」 怯えたように声をだすなまえをあやすようにささやく。 あの日の緑も青も変わらないというのに、彼女の両親や親類は皆いなくなり、この村においての血縁者は絶えてしまった。なまえが何を思ったかは想像に難くなかった。死は近親者に連鎖していく。 「ねえ……」 眠りに落ちそうになりながら、弱く震えた声が聖堂にひそやかに木霊する。続きはすぐさまには紡がれず、確かな思いをがあるにも関わらず、未だ彼女の中では迷い逡巡されているかのように思えた。しばらくして、なんでもないと頭を振った。 けれども、隠されたものが何だったのかを知っていた。わからないはずがなかった。同じものが心の奥底でくすぶり続けているのだから。 「ちゃんと、そばにいてね」 そうして無理矢理眠りに落ちていこうとする。 嵐が通り過ぎるのを待つように寄り添って静かに眠りに就こうとするなまえがまるで祈るようにも見え、目を伏せた。 「なまえ、君は……」 出るべきだ、この村を。 一人どこかへ行くことを望まないとしても。 そう口にしようとしたが、続けることを許さなかったのはなまえ自身だった。 「何も言わないで」 いいの、ありがとう、と弱いながらも凛とした声でそれをさせなかったのだ。逡巡しているのは自分も同じだ。せめて彼女だけでもと願いながら本当にそれでいいのかと自問をする。 本当に望んだことは、願いたかったことは何だったのか。一番強く心に思うことを声にすることすらできない自分は一体彼女とこの村にとって何者でいたかったのだろう。ただ声帯を震わせるだけのことすらままならない自分は一体──。 自分たちが今よりも若くて思うことの全てを口に出し行動することができたのなら、今すぐそうしただろうか。道具じゃないと言えたあの時の自分なら。 役割を与えられ、村の一部に組み込まれて過ごすことがまるで沈んでいくことのようだった。 それでも、言葉にすることが許されなかったとしても叫んでしまいたかった。 逃げよう、一緒に。 ただそれだけでよかったんだ。 20101204 深海で叫ぶ (cathy) ← |