ひそか | ナノ




本や紙が乱雑に散らばる部屋の中心になまえはいた。
けれども先ほどまでの彼女はぱっちりと目を開けていたのに、来客との用を済ませて戻ってきてみれば、ここ数日寝ずにひたすら書き連ねていた卒業論文の下書きの上でペンを握ったまま眠ってしまっていた。
外はすでに夜の帳を下ろし始めている。それに加えてなまえはここのところひどく切迫した様子だったし、すぐにでも起こしてしまう方が彼女は喜ぶとわかってはいたけれど、無理を押し続けている体のことを思うとこのままにしておきたい気もした。
悩んだ末、せめてと畳の上に落ちている資料の一つだろうコピー用紙を拾って少しだけ時間を稼ぐことにした。一枚二枚と拾って本も一冊拾い上げる。背表紙には作家の名前が金で箔押しされていた。


「……夏目」


紙幣に刷り込まれている肖像画を思い浮かべながら文豪の名を読み上げる。
それを合図に勢いよくなまえが顔を上げた。起き抜けの顔でわずかの間呆けたように静止して外を見る。それから慌てて時計に目をやった。


「う、うわ、うそ、あたしこんなに寝て……何で起こしてくれなかったの、ていうかもう帰る時間!」


やばいやばいと繰り返しながら散らかした資料をかき集めだすなまえを見て、さっきの彼女の反応の良さに驚きつつも、ぼくもまたその作業の手伝いを再開させる。

本や資料に記される文字たちに目を走らせれば自然と懐かしさが込み上げた。かつて読みふけった本をなまえが同じようになぞっている、なまえが持ち込んだものたちからはそういうささやかな喜びを感じとることができた。
そうやって集めた用紙を整えているとなまえが慌ただしく資料をひとつにまとめながらこちらを見ないで声をかけた。


「ごめん静信、あたし帰るね。明日も少し見てほしいからまた来ていい?」
「それはいいけど、少し休んだ方がいいよ」
「だめ、時間ない。今度寝たら何時間寝るかわかんないし。それに今調子よく書けてるからやだ」


つっぱねて大きなあくびをするなまえに眉をひそめる。


「がんばるのはいいけど、倒れるようなことがあったら元も子もない」
「それ静信だけには言われたくないなあ」
「そうかもしれないけど」


したり顔のなまえに上手く言い返すことができなかった。
本来ならそれはなまえがぼくに向けていたはずの言葉だったからだ。それも頻繁に。いつもこんな気持ちでいたんだろうか、なまえは。今さらになって思い知らされるようで申し訳なさが込み上げる。
いつだって心配をかける側にいる者は気遣う者の言葉をどこか二の次に考える。感謝しつつ自分の体が平気だと言う限りはその言葉を受け取っておきながら隣に置いておくだけにしてしまいがちだ。
普段の自分の私生活を思い返してみる。
本当にぼくが言えたことではない。
けれども都合がいいようではあるが、それとこれとは別なのだ。


「それならあえて言わせてもらうよ」
「はいはい、何ですか室井先生」
「少しでもいいから眠ること。根を詰めても思い通りには進まないからね」
「若さでカバーできるから大丈夫」
「なまえ……」
「静信も若さに関してはあたしに敵いようがないでしょ?」
「……それは否定しないけど」


ひどい言われようだな。
苦笑して彼女の言った若さというものについて考える。
たしかに、若ければ若いほど多少の無理はきくかもしれない。そうだとしてもなまえのようにろくに眠りもせず、体を横にして休むことさえしない状態を若いからといって問題のない事柄として扱えるはずもない。
常に座した状態を維持し続けて体を休めようとしないのは、わずかでも気を緩めてしまえば先程のように自分の意思に反して眠りに落ちてしまうのが怖いから、ということらしい。
すでに体は悲鳴をあげているというのに、カフェインを大量に摂取して無視をしているのだ。


「だけど敏夫を呼ぶことになってからじゃ遅いよ。論文も間に合わなくなることだってあるかもしれない」
「こ、怖いこと言わないでよ!」


その時なまえが顔をぞっとさせたのは敏夫を呼ばざるを得なくなった自分の体に対してではなく、間に合わなくなること、つまり卒業ができなくなることを想像したからに違いない。
確かに今の彼女にとってそれは最も重要なことであり、学生という立場を考えれば何よりも最優先にして行わなければならないことだ。
それは十分理解しているつもりでいる。必死になって取り組む姿は見守りたいとも思う。けれどその疲労はあまりにも目に余るものだった。言うことをきかないとわかっていても何か言わずにはいられなかった。


「と、とにかくあとちょっとだから。嫌でもがんばらないと」


資料や本を鞄に詰め込むなまえにやっぱりだめか、と半ば諦めのため息を吐いて拾い集めた分を差し出す。


「ありがと、う…重……これが卒業の重みか」


分厚い本の重みに嫌な顔をして今度はなまえが深いため息を吐いた。
本当は参っているのだ、彼女自身も。
早く解放されたい、そうこぼしたなまえの頭をそっと撫でる。なまえが振り向く。

「辛くなったらおいで」
「……明日も来るって言ったよね?見てほしいって」
「何もなくてもだよ。用件なんてなくてもいいんだ」


明確な理由がなくとも必要だと思ってくれるのならいつだって構わない。気まぐれでも何かを埋めたり紛らわすためでもいい。結局、今はわずかな助言と心配をすることくらいしかぼくにはできない。だからせめて彼女の拠り所でありたかったのかもしれない。


「いつでも構わないから」
「なんで、そんな」


声が揺らいだ。ああやっぱりと思って撫でていた手でなまえを自分の方へ引き寄せ、ひしと腕の中に納めた。なまえが手にしたままの本の固い表紙が胸に当たるのを感じ取りながら髪をもうひと撫でする。なまえはそこに大人しく納まった。


「……ねえ、優しくされると泣いちゃうんだけど」
「誰も困らないよ」
「あたしが困るんだよ」
「でもこうしたかったんだ」
「……わがまま」


わがままか。初めて当てはめられた言葉に傷つくどころか何故だか不思議とうれしくなって頬が緩むようだった。むしろ初めてだからこそだったのかもしれない。


「そうだね」
「何笑ってんの」


もしも正面に彼女の顔があったのならきっと頬を指でつままれてねめつけられていただろう。けれど腕の中に納まりきっている今の彼女にそれができるはずもない。

視界の端で宵闇を待たずに淡く輝きだした月を見つけると、今日もなまえが家路につく時間がやってきてしまったことにじわりと寂しさを抱いた。こんな時だからこそ願ってやまない。一日というものがあと少し長ければと。
そんなことを考えてしまうのは目の下にくまをつくる彼女のためでもあり、自分自身のためでもあった。


「わがまま、なんだろうね」


なまえを抱く腕の力を緩める。
どうしたの、と顔をだして目を瞬かせるなまえにごく小さく頬笑みかける。そしてその頬に手のひらを添えて触れるだけの口付けを落とした。


「こんな時でもあと少し一緒にいられたらって、そう思ってるから」


髪を耳にかけてやりながらどうしようもなくそんなことを思う胸の内を吐露する。本当はこんな時だからこそ傍にいたいのだけど。


「でも我慢するよ。今はそんな時じゃないからね」


あまり無茶はしないように
恐らく聞き入れられないだろう言葉を最後にかけて離れようとする。けれどそれを許さなかったのはなまえの方だった。最悪、と彼女の口が確かに紡ぐ。


「そういう……」


なまえの弱くはっきりとしない声がしんとした部屋の中に落ちてくる。胸に本を抱いたままふらりとまた体を預けられた。


「そういう帰りたくなくなること言わないでってば……」


くぐもった声で気恥ずかしげに。そして困ったようにそれを言うから、うれしいような申し訳ないような気持ちに苦笑し、ごめんと囁いてからもう一度なまえを抱き留めるために手を伸ばした。







20111018
甘えを許して
(icca)






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