坂を上った。兼正へと続く坂を。 静かな夏の夕暮れだった。降りしきるように鳴く蝉の声が止み、物悲しさを孕んだ声でひぐらしが切々と鳴いていた。 「立派なお屋敷ですね……」 主が不在のまま佇む坂の上の洋館を見上げ、圧倒される思いでわたしは呟く。 坂の上に君臨する洋館。村の中から遠く離れて見るよりも重厚で堅固でありながら、どこか優雅さを纏って屋敷はそこにあった。そのあり様は幼い頃から夢に見た理想がまさにそこにあるようで募った憧れは胸を次第に膨らませていく。 坂の途中で足を止めるわたしの隣で室井さんもそれを見上げていた。 「そうだね。だけど、どうして急に兼正へ?」 「その……やっぱり、忙しかったですか」 「いや、そういうことじゃないんだ。ただ急だったからどうしたのかと思って」 それだけだよ、と優しげに室井さんはそう言ったけど、そうですかと素直に納得していいものか躊躇いが生まれていた。 二つ返事をもらってここまで来てみたはいいものの、正直なところ今頃になってこの人の言葉を鵜呑みにするべきではなかったのではと思い始めていた。 「でも小説のお仕事だってあるし、もしかして室井さんまた寝てないんじゃ」 夜更かしばかりしてろくに眠ってもいないということが室井さんにはままあった。それでも、たとえそうだとしも表にはださないで平気な顔して付き合ってしまう、そういう人だと知っていたのにその時のわたしはそのことをすっかり失念していたのだ。 そんな自分の数歩遅い気遣いや至らなさを後になって知り、情けなさに頭を抱えたくなることがこれまでに何度あったろう。 そのことに気が付いているのか、すかさず言葉をかけて安心させるように微笑んでくれるのもまたあなたという人だった。 「平気だよ。なまえが心配するようなことはなにもないから」 そうやって微笑んでくれるものだから、胸の奥をぎゅっと握られたような感覚を身に覚えながら、いつだってその優しさにわたしは心を焦がした。 笑いかけてくれるその姿がうれしくてたまらなかった。できることなら、見つめて、長く長く目を合わせていたかった。表情や感情の移り変わりをつぶさに見ていたいのに、それは思うよりもずっと難しいことで自身のことだというのにいつも心のままにはなってくれない。絡んだ視線を他所へやって逃げてしまいたくなる、そんなどうしようもない矛盾をわたしはいつも抱えていた。 平時と何ら変わらないその微笑みでさえまだわたしにとっては慣れないものであり、こちらの心の準備もなく不意に向けられてしまえばひどく胸を高鳴らせてしまうようなやっかいなものだったのだ。 安心させるための行為がかえってわたしの胸の内を掻き乱し、息を詰め圧する。そんなどうしようもない状態に陥ってしまうことを本人に知れてしまうのはどこか恥ずかしく思えた。だからいつだって何でもないふりをしてみせるのがわたしの常だった。 「本当に?無理はしてない?」 「本当に。ぼくのことなら気にしなくていいんだ。睡眠ならとれているし、それに原稿の方も少し煮詰まっていたところだったから、連れ出してくれてよかった」 ありがとう、とむしろそれはわたしが言うべきことを先に言われてしまう。 またこの穏和さにわたしだけが救われてしまう。これで何度目だったろう。あなたの傍にいれば少しずつ仕草や表情まで似てきて、いつかわたしもこんなふうになれるのかな。隣でそんなふうに思っていたなんてきっと室井さんでも想像に及ばないことだったに違いない。 やっぱりそれも本人には言わないまま「それならいいんですけど」と呟いて歩みを再開させた。そうすれば室井さんもまた同じように足を進め隣へと歩み並んでくれた。 「実は、特別な用があるわけじゃないんです。ただ、その、」 何とか事情を話し始めるも言い淀んでしまう。 不安が過っていく。 呆れられたらどうしよう。よくよく考えると他人からしてみればわたしがここへ来たかった理由なんてとてもありきたりでくだらないものかもしれない。 今更になって沸き起こった不安が話の続きを躊躇わせる。相手の呆れた顔をこの目で見てしまうことになるのが何より怖い。その思いだけがわたしから声を奪い取った。 言葉を続けられずにちらりと隣の様子を窺ってみると、その表情はまだ呆れを知らずにいる。それどころか黙ってしまったわたしを少し心配顔で急かすことなく続きを待ってくれているようだった。 「なまえ?」 「……その」 「うん?」 「……笑ったり、しません?」 一瞬目を丸くしてくすりとされた。笑わないよ、と言って。それだってもう笑っているのに。でも悪い心地なんてするはずもなく、ただ室井さんの穏やかな声に背中だけを押される。まだ不安を残しつつもいくらか軽くなった心を話してみようと前を向かせるには十分だった。 「何だかどうしても近くで見てみたくなって」 「それは、兼正を?」 顔色を伺いながら慎重に頷いた。 「こんなに立派な洋館近くで見る機会がなかったから。実はちょっと弱いんです、こういうのに」 理由のくだらなさを思い、小さく笑って誤魔化してみる。口に出してみるとやっぱりとてつもなくくだらないことだったと改めて思う。室井さんはどう思っただろう。そんなことに付き合わされているのかと呆れはしなかっただろうか。どんな反応を返されるだろうと不安を募らせていると当の室井さんは一人妙に合点のいった顔をしていた。 「ああ、だから」 何故だかうれしそうにそれを口にするからわたしは首を傾けざるを得なかった。 室井さん?と尋ねると寄越されたのは呆れるどころか微笑ましげに緩められた視線だった。 「だから建築様式の書籍を読んでいたんだね」 「な、何でそれ……!」 話した覚えのないことを相手が口にするものだから思わず取り乱してしまう。 話したことなんてあったろうか?思考が頭の中でぐるぐると終着点を見つけられず回る。記憶を探ってもそれらしい心当たりは見つけられない。それならどうして、とひとり解決の糸をつかみ損ねている様子を見かねて室井さんは続ける。 「この間図書館に行ったらカウンターになまえが借りた本の図書カードが表に出たままになっていて、それで」 「図書、館」たったひとつのキーワードの出現が絡み合った糸を解きほぐしていくようだった。 そういえばそういった類の本を図書館でも何度か借りたことがあった。室井さんが目にしたのはそのうちのどれかだったのかもしれない。 そっと息を吐く。やましいことは何もない。何もなくてもまだ打ち明けていないささやかな趣味を自分の預かり知らぬところで知られてしまっているのはどことなく気恥ずかしいものがあり、わたしははにかんだ。 「なんだ……それで知ってたんですね?」 「うん。少し前に。見るつもりはなかったんだけど」 ほんの少し申し訳なさそうに表情を変えるからわたしは慌てて手を振る。 「あの、大丈夫です!別に秘密とかじゃないから……ただほら、わたしも、だけど、室井さん何も言ってなかったから」 ちょっとびっくりしただけなんです、と室井さんがしてくれるみたいに笑ってみせると「ごめん」とまたしても笑みが返ってきた。 いつもそうだった。 笑いかければ頬笑みを返してくれた。先を歩けば後を追ってきてくれた。そんなささいな室井さんがくれる当たり前のことをいちいち拾い上げて大事に仕舞っておく。今に至るまでのすべての選択肢を何か一つでも間違えていたら、こうして二人で坂を上ることもなかったのかもしれない。 だからこそ、その優しさが自分のためだけに向けられたと感じる度にいっそう胸を熱くさせてしまう。 やっと叶った願いだったから。 何もかもが始まったばかりで初めてで特別だった。 知らないことの方が多かったけれどそれをとりたてて悲観することも問題視することもなかった。お互いのことなんてきっとまだ半分も知らない。好きなこと、そうでないこと、過去のこと。それらをいつどんな形で知っていくことになるのか想像もつかないけれど、必ずそのいつかは度々やってきてわたしたちに何かしらの思いを抱かせていく。そう信じてた。何度も訪れ、そしてその度に好きになっていくのだと。 たとえ自分にとって不可解なことがあったとしてもゆっくりと解いていけばいい。時間はいくらでもあるのだから。盲目的にそう思えた。その盲目さが幸せだった。 一緒にいられることがただひたすらにうれしかったのだ。 「やっぱり、憧れるものなのかな」 言って、室井さんは再び兼正を見上げる。西洋の異国を思わせる佇まい。白い塀に重厚な門扉、出窓にレンガ。かつて強く惹き付けられたものばかりがそこにはあった。 空には水で薄くのばした水彩のような青から蓮華色に変わるグラデーションが描かれ、雲だけがはっきりと赤く染め抜かれていた。 それを背負う屋敷での生活を思い描けば高鳴るものを簡単に見つけてしまえた。 「そうですね……憧れないって言ったら、うそになっちゃいます」 うん、と室井さんはひとつ頷き話に耳を傾ける。わたしは洋館を指差した。 「あそこ。屋根裏部屋があるんですよ。そういうところもちょっといいな、なんて」 「隠れ家みたいで?」 「そう。隠れ家」 自然と綻んだ顔を見合わせて二人で小さく笑い合った瞬間がたまらなく幸福だった。 いつかあの館にも誰かが住む。そこは一体どんな心地がするんだろうか。 もしも誰かと住むのなら、わたしはあなたがいい。なんて、その顔を見ながら言ってしまいたかったけれど、わたしにはそれができなかった。 他愛もないことを話しながら並んで歩く、それだけで胸がいっぱいになるわたしにできるはずもなかった。今日は何を話そう。そう考えてからでなければあなたの隣も歩けない。 それがもどかしくも苦しくもあるのに、会いたくてたまらなかった。変だ。だけどそれが恋なんだと知ると無条件にその心の営みが愛しさに変わった。 あなたの隣はいつもそうだった。 「わたし、大人になったら海外に行ってみたかったんです。あっちで仕事して暮らす、そういうの」 とても憧れた。到底叶う夢ではなかったけれど。 「今は、そうじゃないのかい」 振り向いて首を傾げる室井さんの色素の薄い髪がわずかに夕日に染まる。あの洋館を囲む白い塀と同じように。きれい、そう思いながら目を細めた。 「今はもういいんです。わたし、この村のことも嫌いじゃないし……それに本やあの洋館だけで十分なんだって、今はもうそう思えるから」 ただの子供の夢ですよ。そう言い繕うわたしを室井さんは切なげな眼差しで見つめていた。 「……そう。だけどきみはまだ若いから、またそうしたいと思う時がきたらそうするべきだと思うよ」 その言葉にいくばくかの寂しさを感じ、顔にはださない努力をしてみてもきっと声はいじけてしまっていた。 「……室井さん、それじゃあわたしを追い出したいみたいに聞こえます」 「そうじゃないよ」 そう言って苦笑する。 苦笑しそう、そんなふうに思っていたら本当にそんな顔をするから、わたしの口元は思わず緩んだ。 少しだけ近付けた、わかったつもりになれたと自惚れていたかった。 「いいんです、本当に。だって」 勢いで発しかけた言葉は喉元でつかえる。いつもならなかったことにしてしまう言葉。 だけどあなただけにはちゃんとわかっていて欲しいと願ってしまった。 「ここには、室井さんがいるもの……」 お寺だって好きです、ととつとつ零れ落ちていくわたしの声。 不純だってわかってる。きっかけはあなたでしかなかった。室井さんがいたから。 そうであっても本心から出た言葉なんだと伝えたくて、羞恥のあまり逃げてしまっていた目を室井さんのその目になんとか留め置く。そうしてかち合ったのは驚きに見開かれた目だった。その瞳に映る自分を見た途端、かあっと体温は上昇して結局目は泳いで逃げていってしまった。 「なっ、なんだかしゃべりすぎちゃいましたね!わたし運動不足だからほらもう息が…!でも日も暮れそうだから、その、急ぎましょうか」 逃げるように早口で言葉を継いでいく。 今すぐ顔を覆ってしまいたかった。話すつもりなんてなくてずっと自分の胸に秘めてきた思いを一時の感情に任せて言ってしまったんだ、まともに見ていられるはずがない。やっぱり言わなければよかった、なんて後悔しながらこれ以上火照ってしまわないように顔を手で煽る。 外へ出てしまった言葉はもう取り消すことはできない。慣れないことを言った自覚はあり、そうして体のどこかを動かしていなければまともに留まっていられない気がしたのだ。 「行きましょ、室井さん」 自分の発言を誤魔化すように一人歩調を早めた。 逃げるように足を前へ前へと進めて不意につまずきそうになっても立ち止まるわけにはいかなかった。 踏み出す度に指の間を夏のぬるい風がすり抜けていく。 「なまえ」 だけど名前を呼ばれた瞬間風がふ、と自分の手に触れた何かによってわずかに塞き止められた。 危ないよ、と囁きに近い声がして歩みは止まる。 振り返れば、室井さんがいる。そして今も手に留まるその感覚。それがどういうことなのかを認識すると頬が紅潮するのを止められなかった。 その皮膚感覚を知らないわけじゃなかったから。 たとえばそれは家族だとか友人だとか、幼い頃から親しい誰かと交わしてきたもの。 「ゆっくり行こう」 「むろいさ」 夢を見ているみたいだった。心臓がうるさくて、うるさくて、同時に勘違いじゃありませんようにって願ってた。 だからわたしはちゃんとこの目で確かめたくてひとつひとつ辿っていくのだ。腕へ手首へ、その先の手をやんわりと遠慮がちに包んでいる自分のものとは違う骨ばった手へと。 「帰りは送るよ。それに」 どこか恥ずかしげに笑う目の前のあなたが夢のようだった。 「そうしたいんだ。できることなら、今は」 初めて見る表情に、目が、心が眩んだ。 そうして息を詰めるようなあの感覚が舞い戻ってくる。 たまらず俯いてなんとか小さく頷く。歩みを再開させてみてもこの胸を圧迫するものが消えることはなかった。 あたたかさが滲み、ひとり思う。 きっと、あなたは知らないんでしょうね、と。 きっと知らなかった。何もかもが初めてだったなんて。柔く包み込まれるように繋がれる手の中で握り返せもせず、指一本動かすことすらできないでいた理由だってきっと。 手を繋いでいるはずなのに時々ぬるい風は隙間を見つけて抜け目なくすり抜けていく。 だけど未完成の結び合いだと笑われたようだったのに頓着しなかったのは、もう十分すぎるくらい幸せとか喜びとかそういうもので溢れていたから。 一歩一歩コンクリートの道を確実に踏みしめていく。足取りは軽かった。前へとわずかに引いてくれているような気がして高揚と戸惑いを同時に感じてた。 そのくせこの坂に終わりがなければいい。理想としたあの洋館がずっと先にあればいい。そればかりを考えてた。 本来の目的を忘れかける自分に変だと笑い、でも恋なのだとまた愛しくなる。 それでも道には限りがあり、なだらかな坂を上り終える頃わたしは名残惜しさをその手の中に残しながらこの幸福な時間に別れを告げる心準備をして手を解こうとする。 坂が終われば全て終わりだと何故思えたんだろう。 「室井さん、ありがとう。もう、平気」 だけど解こうとしたそれはあっけもなくまた室井さんの手の中へとおさめられていく。 室井さん、と名前を口にするとより強く握り返されていった。 どうして。 問いかけるように見つめた先には、眉を下げた控えめな笑みがあった。 「せっかく、繋いだから」 だからもう少しだけ そう言った。 大げさだっていい。 世界が輝いていると思ったの。 静寂も暗闇を持ち込む黄昏も、すべて美しく思えた。 あたたかくて光に溢れた未来ばかり思い描いた。 一体何がわたしたちを隔つんだろうって。このまま時間が止まってしまわないかってどれだけ思っていたか。 隙間を埋めていくように指をぎこちなく動かし握り返していく。苦しいほどに胸を膨らませていく行為に何故だか泣きたくなった。 今度こそ確かに結ぼうとしてくれる室井さんの手に包まれていくのを感じながら、安堵とそして自惚れでないのなら愛しさで深められた笑みを見つめ返す。そのすべてをいつまでも覚えていられたらと願った。 言わなければ、伝えなければ。 わたしだってそうしたかった。まだ離したくないってそう思ってた。 同じ気持ちでいてくれたことがうれしくてどの言葉で伝えればいいだろう。 まだ口にも出せていないのに何故だかとても幸せな気分で、声にしてしまったらどれだけ満たされるんだろうと思った。 早くと急く気持ちを抑えながらただひたすらに胸の中をあなたへの気持ちでいっぱいにさせて精一杯の思いで見つめた。 早る鼓動に急き立てられ薄く口を開いていく。 好きになったのがあなたでよかったと、ひとつでも多く伝えられたらいいのにと願いながら思いの丈を声でなぞっていく。 そして目の前のその人に、ああまた微笑んでくれるんですね、そう思った刹那──ぶつり。 世界は暗転した。 この世は無常だと誰かが言っていた。 永遠はないし変わらないものなどないと。 知っていたけど知らずにいたこと。 開けた視界を満たしたのは白い光だった。無機質な白。 光を見つめ、ほどなくして自分が横たわりほどよい温度に包まれていることを知る。 暑くも寒くもない、機械で温められた乾燥した空間。渇いた喉と包帯の下から拾うじくじくとした火傷の痛み。 鈍い頭の中でゆるりとその意味を理解していき、ああなんだって泣きそうになった。 わたしは、あの人はもう。 瞬きをしても何も変わらない。夏の夕暮れなんてどこにもない。あまりにも鮮やかすぎた景色の突然の喪失こそが夢のようで、押し寄せる虚ろさに押しつぶされてしまいそうになる。信じたくなくて、夢だと思いたくて、まるで縋りでもするように起き上って窓の外を見た。 そしてわたしはそこでまたなんだって思い知っていくのだ。 自嘲めいた笑みがこぼれ窓の外に広がる溝辺町の鈍色の空が揺らめき歪んでいく。心が震え、たまらず瞼を下ろした。 わかっている。ばかだなって思ってる。もう声も手も届かないんだって。もう取り戻せないものだとも知っているつもりだったのに。 ねえ、だけど、それでも。 せっかく、繋いだから 脳裏を過ぎったのはあの人の優しい笑みや夕日に染まった髪の色だった。 どうしたって離れなかった。 同じ気持ちでいてくれてうれしかったから。 望まれていると信じて疑わなかったから。 だから明日も明後日も、いつだってあの人の名前を笑って呼べると思ってた。 だけど。 ──室井さん。 そう口に出そうとしたら、心がちぎれてしまいそうだった。 20121111 初恋の剥製(nancy,i love you.) ← |