「お願い!もう今週ずっとなのよ!」
入った無線を聞き終わったところで、入れ替わりに耳をつんざくような女性の声が聞こえる。観光客の道案内を終えた俺が職場である交番に戻ると、先輩である巡査部長が中年女性に詰め寄られてたじたじになっていた。なんかすげぇの来てんな、と思いながらそろりと入ると、どうやら会話の内容は何らかの相談のようだった。
「と言われましても…警察としては事件性がないと…」
ううん、と唸る先輩を、女性がぐっと睨み付けている。事件性がないと、ということはストーカーとか、別れた彼氏絡みとかそういう話だろうか。警察は証拠のない話には付き合わないとはよく言うが、申し訳ないけど仕方ないことではあるんだよなぁ。ふう、と溜め息をついてから先輩に声を掛ける。
「戻りました、どうしたんです?」
「あぁ、坂下、戻ったか…」
困り果てた先輩と、相談に来ていた女性の視線が一気に俺に集まる。特に女性からの熱視線に驚いて半歩身を引くと、やれ獲物が編みに飛び込んできたと言わんばかりにその人が飛びかかってきた。おっとこれはとんだアグレッシブレディだったぜ。
「もうアンタじゃ話にならないわよ!聞いてよお兄さん!」
「おっふ…」
取って食われるかと思ったほどにグイグイ来られて、あれ?俺って今まで女の人にこんなに迫られたことあったかな?なんてチベスナ顔をしてしまったかもしれない。とにかく、交番勤務のお仕事の一つ「親身にお話を聞く」を遂行しようと、俺は先輩に誘導されるままに女性の正面に座った。さり気なく押し付けやがったなチキショウ。
「…んー…なるほど、そうでしたか…そりゃ困りますよね…」
ざっと話を聞けば、騒音問題である。管理会社に相談してもダメだったとのことで、じゃあなんのための管理会社なんだよなんて思ってしまう。どうやら相手の住人は角部屋で、その隣人は彼女一人。この女性も騒音の源である隣人も一人暮らしとのことで、直接苦情を伝えるのも自分の身が危ないし、相手も相手で一人で夜中高笑いをするような危ない奴らしい。犯罪者予備軍じゃないのか逮捕してくれ、と女性は言うのだが、そこでさっきの「警察は証拠のない話には付き合わない」に帰結する。いやいくら深夜帯のテレビが面白いと言っても夜中に高笑いは十分ヤベェと思うけどね。理由も分からんしそういう問題じゃないか。
「そうなの!なんとか言ってもらえない?警察の人から言ってもらえたら相手もビビると思うし…しかもなんか夜中に喋ってる内容もちょっとおかしくて、不気味なのよ…」
「?、ほう、どんなです?」
「勇敢なるなんとか、とか言ってたり、大声で笑ってたり…ゲームでもやってんのかしらね」
お願い!と拝むように手を合わせる女性は、確かに不憫である。夜中のゲームは静かにやらないと駄目だよな。力になってあげたいなあ、なんて思いながら先輩を見ても、やっぱり気が進まないようだ。もちろん俺も先輩も彼女の力になってあげたいとは思ってはいるんだけど。相手が犯罪者予備軍っていうのは少し逸りすぎな気もする。少し悩んでから、いややっぱり、と椅子から立ち上がった。
「…先輩、俺行ってきても良いですか?」
「…おい、勇太…」
渋る先輩はきっと正しいんだと思う、けどなぁ。官帽を外して髪を整えてからもう一度被る。先輩も一応、俺が問題ばっかの鬼塚教場伊達班出身だとは聞いている筈だ。というか配属当初に「お前か!噂の問題児!」と言われたんだけど問題児は俺以外の五人なので全くの的外れです残念でした。嘘じゃないよ。
「相手、角部屋なんでしょう?管理会社から言ってもらっても隣人だとバレて何かされるかもしれないし…その点こっちは警察なんだから匿名の通報が、とか出任せ言っときゃいいんですよ」
そう、通報とか相談とかそんなもん突撃お宅訪問される側の一般市民の知ったこっちゃないのだ。「お前なぁ…」と呆れた顔をする先輩も、そう言いながら仕方なさそうに立ち上がった。後輩のわがままに付き合ってくれる良い先輩である。
「じゃ、行きましょうか」
「ごめんくださ
い!」
決して威圧的にならないように軽い雰囲気で声を掛ける。チャイムがぶっ壊れてるのかガン無視を噛まされているのかは定かではないが、呼び出しても全く出てくる気配がなかったからだ。中に人がいるのは、生活音が聞こえたので確かだろう。そろそろ五分くらい粘っているので、先輩が時計をちらりと見た。その瞬間、扉が開いて煩わしそうな顔をした男がこちらを見遣る。俺達の、恐らく服装を見て、少しだけ目を見張ってから顔を引き攣らせた。
「なにか?」
「突然すみませんね、申し上げにくいんですが、ちょっと匿名の通報、が…」
スッゲェキョドるじゃんと思いながらにこやかに答える。と、ふと虫の知らせのような予感が胸を過った。声だ。部屋の中から声がする。まだ中に人がいるのかと視線を落として玄関床を見るが、目の前の男が履いているスニーカー以外そこに靴はない。客人、ではなさそうだ。テレビ?否、それにしては違和感が。不意に黙った俺に、男が訝しげな顔をした。一瞬、周りから音が消える。
『…松田……の、用だ…』
静寂の中。耳に転がり込んできた声に、呼吸が止まった。ちりちりと胸を焼くのは不快感である。
「…すみません、お話は中でさせて頂いても?」
「は?何でですか」
突然家に上がり込もうとした警察官に、男は警戒心を顕にした。うーん、と少しだけ考える風を装って、俺はにぱっと破顔して、ドアの隙間の男の顔にぐっと詰め寄る。先輩は俺が突然おかしなことを言い出したにも関わらず、黙ってこちらの様子を見守っていた。恐らく、この男の様子がおかしいことにとっくに気がついていたのだろう。
「いやぁ今日暑くて!もう十一月なのに酷いもんですよねぇ!自分見ての通りの格好ですし!もし良かったら」
俺のニコニコ顔の圧に押されたのか、男が「ひ、」と小さく悲鳴を上げて思い切り扉を引いた。こら、逃げんじゃねぇよ。
「っ!」
「お水の一杯でも頂けたらと思うんですけどね!いやぁ、すみませんね厚かましくて!」
構わず喋りながら、ガッ、と扉の間に革靴を突っ込む。スニーカーだったら足の甲の骨粉砕してんぞと思うほどの勢いで閉められかけたドアは、少しの隙間を残して閉まり損なった。奥から、大変に聞き覚えのある男の話し声がする。俺は視線だけで部屋の中の様子を探った。暗くてよく見えない。探りながら、先程交番の前で聞いた無線の内容を頭に浮かべる。
『…は、三分…訳には…』
米花町某マンションにて爆弾を発見。機動隊が出動しており解体作業中、犯人を刺激しないよう爆発物処理班以外の必要最低限の人員以外のみ臨場。ちなみに交番勤務の職員は待機。そして俺の耳に入った彼の家の中から聞こえる声は、その爆発物処理班所属の友人のものである。
その声がなぜこの部屋の奥から聞こえるか、なんて考えるまでもなかった。今この部屋の中で萩原が爆弾解体でもしてなきゃ、十中八九、盗聴。ここまで明瞭に聞こえるということは、つまり解体作業にあたっているだろう萩原のすぐ近くに盗聴器はある。マンションの床?壁?萩原の服?それとも、爆弾の中、とか。脳に突然満ち満ちたアドレナリンが、思考を飛躍させていく。けど多分合ってるんじゃねーかなこれなぁ。
「それとも、入ったら都合の悪い理由でもあるんですか?」
短い間だったが共に警察官になるべく肩を並べた萩原の声を俺が聞き間違うはずもない。というかなんなら先週飯行ったばっかだ。この男が事件に関与しているのは間違いない。目の前の男を真顔で睨めつけると、まずいと思ったのか、男が扉を閉めようと力を入れる。だが俺の足が邪魔で閉じることができないのを確認して、それから焦ったように踵を返した。
「…っ!クソッ!」
ここは二階。成人男性なら十分窓からでも脱出出来る高さだ。男の手が離れた隙に、力任せに扉をぶち破る。一秒の時間も惜しくて靴も脱がずにダイナミックおじゃましますをかまして、拳銃か手錠かどちらを掴もうかと迷った右手は、とにかく相手を拘束するために何も持たずにテーブルに手を掛けている男の首根っこを掴んだ。それから渾身の力で、背負い投げにもなりきれないめちゃくちゃな投げをお見舞いする。勝ちゃいいんだよ勝ちゃ。
「御用改めじゃコラァアッ!!」
「ウブェッ!?」
「坂下ーーッ!?」
受け身も取れずに床に叩き付けられた男がカエルの潰れたような声を上げた。穏便に注意に来ただけの筈の後輩が突然隣人をぶん投げて先輩がびっくりしてるようだ。けれど、大変申し訳無いことに先輩に構っている暇はないのである。なんかいい感じに空気を読んでなんかいい感じに動いてくれ。
男を床に取り押さえて背中に体重をかけた体勢のまま、部屋の中をざっと見回す。遮光カーテンで保たれた暗闇はどことなく部屋全体を重い雰囲気に落とし込んでいた。棚に煩雑に並んでいるのは配線や基盤やスイッチなどの部品、それとちょいちょい便に入った恐らく化学薬品的なカラフルな液体。ああそうはいはい混ぜるな危険的な薬品かな。
それからテーブルの上のパソコンの画面には、マンションの廊下らしい映像が流れている。天井からのアングル。斜め上の画角から撮られているらしいので、監視カメラのジャックだろうか。にしてもマンションのあんな場所にカメラなんてあるだろうか。セキュリティの度合いによってはないこともないだろうが、この男が自分で取り付けた可能性も無きにしもあらず。なんて分析をしていると、画面から萩原の怒鳴り声が聞こえる。
『皆、逃げろッ!!』
「っ、萩原!?」
顔を上げると、爆弾の周りに座り込んでいた萩原、その周りにいた機動隊の面々が退避を開始していた。なんで?マジでなんで?立ち上がって画面に顔をくっつけるようにして見ると、俺に踏み付けられた男がぐえっと悲鳴を上げて、それから狂ったように笑い出した。知るかそのまま笑ってろ。そんなことより画面の中、タイマーが、生き返っている。吐き気がして、俺は思わず手で口を塞いだ。六秒ってなに、カップラーメン一個もできない。湯注いで終わり。むり。
「坂下!」
名前を呼ばれて、はっと正気に戻る。先輩が俺の代わりに男に手錠を掛けている。萩原の声を知っているというアドバンテージがあった俺の、一見支離滅裂な行動の理由をこの一瞬で理解したらしい先輩が、俺に目線で「動け」と訴えていた。そうか、そうだ、そうだな。大丈夫全然まだあと五秒あるしいけるまだ舞える俺は出来る男!!!画面の前のテーブルに齧り付くようにして目を凝らした。
「っクソ、…これか!」
ぽつりと置かれたPHS。明らかに怪しい。これを操作すれば止まるのか、なんて男に聞いても答えてくれないだろう。けれどこんなもの人様に見せるでもなし、わざわざここにダミーを置いたりしないはずだ。いや、置かないでくれ、頼むから、ほんとに。指が震える。胸が詰まる。俺の指先に萩原や機動隊員の命が掛かっているのだ。待って機動隊って何人?その家族まで考えると?同僚友達恋人とかなんかその辺まで換算すると何人?と、思うと、もうなんかむりほんとむり。目が潤んでくる無理マジ泣く。
このスイッチを切り替えて、もしカウントをすっ飛ばしてその瞬間に爆発したら?止まらなかったら?そう考えると指が震える。そうしたら俺はこの盗聴器越しに、防犯カメラ越しに友人が、同僚たちが死んでいく瞬間を見守らなければならなくなるのだ。こんな時間では取り押さえられている男を説得するのは無理、つまり俺がここで正しい操作をする以外の策は存在しない。ここまで頭が回るのが一瞬。息が吸えなくなる、指先が震える。
「や、やめろ!!やめろおおおっ!!!!」
先輩が押さえている男が、俺の手元を見て獣の断末魔のような声を上げたので、それならとそこに責任をぶん投げる。お前がそこまで悔しがるってことはやっぱこの携帯だよな?なぁ、そうなんだろう。そうであってくれ。そうやって決めつけて、震える手を叱咤して通話終了のボタンを押した。ぴ、と、小気味のいい音。あぁあむりまじでむりもう直視できない。祈るような気持ちで、たっぷり十秒、薄目で映し出された映像を凝視した。
「………?、とまっ、た…?」
残り一秒。その表示で、文字盤のタイマーは停止していた。カメラの向こう、映ったマンションの廊下、爆弾の周りは無人にはなっているものの、建物が倒壊している様子も爆弾に異常があるようにも見受けられない。
「は、はは…と、とまってる…」
笑っていた膝がとうとう立っていられないほどの大爆笑に陥って、どたん、と床に崩れ落ちた。手も震えていて力が入らないし、心臓は、むしろ俺の心臓が爆発するのではないか、と思うほどに早く脈打っている。あぁもう、全身スタンディングオベーションだ。ブラボー。
良かった。真っ白になった頭の中に安堵だけが浮かんで、廃人になったみたいにぼうっと画面を見つめてしまう。爆弾の周りには誰もいない。そりゃそうだ、一度息を吹き返した爆弾に近寄る馬鹿はいないだろう。萩原も二度とこの監視カメラに映るんじゃねぇぞ心臓に悪い。
「坂下、坂下大丈夫か!?」
先輩が無線を片手に俺を呼んだ。きっとなんかどこかに報告したんだろうな、くらいの感覚で眺めて、あぁ何か答えなきゃと口を開く。けど辛うじて絞り出せた言葉は、情けなく震えていた。
「す…んません、だ、大丈夫っす、力抜けて…」
口から抜けかけていた魂がヒュッと戻るような錯覚を覚えた。FXで全財産融かした人みたいな体勢から、這うようにして胡座をかいて座り直す。暫く動けなさそうな俺を見て、先輩が報告がてら応援を呼んでくれたらしい。俺と同じく、否、少し違う意味ではあるが放心して真っ白になっている爆弾魔の男を見下ろしてから、先輩が俺の顔を気遣わしげに覗き混んだ。
「萩原って、お前がよく言ってる同期だろ?連絡してやれよ」
「あす…」
もそもそ、とポケットから携帯を取り出した。とはいえ連絡してもなぁ、と思いながら電話帳の萩原の名前を呼び出した。向こうも大変な出来事が起きて今本部との無線でてんやわんやだろうし、繋がらない可能性のほうが高いだろう。まさかこんな場面で使用の携帯に来た連絡を受けるなんてそんなことがあるはずが
『…はーい、どったの坂下ちゃ…』
「何出てんだ!!!」
『どんな怒られ方?』
あるんかい。何故繋がるのか。パソコンから流れる盗聴器の向こうもガヤガヤしているので報告や、これからどうやって爆弾の処理をするかとかそういうあれそれが話し合われている時だろうに。俺の頭の中の赤い配線が何本かブチ切れたのを感じながら、暴走した握力で携帯を粉砕できるのではないかと思うほど強く握り締める。
「お前ほんとなに…防護服!!!お前…っ!!!お前お前お前えええっ!!!」
突如吹き上がった怒りで語彙力が爆発四散した。爆弾はここにあったんや。電話口で萩原がぽかんとしているだろう口振りでレスポンスがある。
『え、こわ、なんで知ってんの』
無意識にドン、と床を殴り付ける。こわじゃねぇよ。そりゃお前が爆弾の前で?身軽そうな格好で?ガンダして逃げてたのを見たからな?そしてその爆弾を止めたのは我ぞ?こっちが怖いわ、なんで爆弾解体するのに丸腰で行っちゃうんだよ。マジ怖いわっていうか怖かったわ。ほんとに、ほんとに怖かった。
あの爆弾がどのくらいの威力のものかなんて俺には分からないが、目の前で爆発されたら無事じゃ済まないことくらいは分かる。萩原は、そんな状況だった。ひょっとしたら今死んでいてもおかしくなかったのだ。窮地を脱してやっとそれが腑に落ちると、俺の両目からどばっと滝のように涙が零れ落ちた。
「う゛え゛え゛え゛お゛前゛土゛下゛座゛し゛ろ゛よ゛お゛お゛飯゛お゛ご゛れ゛え゛え゛!!!」
『え…何…?泣いてんの?』
「大゛号゛泣゛だ゛よ゛馬゛鹿゛野゛郎゛!!」
『な、何なんだよぉマジで…』
なりふり構わず喚き散らす俺に、電話の向こうで明らかに萩原が困惑していた。けど残念ながら全く気が収まらないのでもう少し狼狽えて頂く。馬鹿、萩原。死んじゃったらそこで終わりなんだぞ。生きてたって会えないことだってあるのに、死んだらこの先の万が一の再会もないのだ。尚も息絶え絶えな俺に困ったように笑った萩原が、子供を諭すような口調で言った。
『あー…そういやさっき陣平ちゃんにも怒られてさ、今日飯行こって話してたんだけど…坂下ちゃんも来るだろ?』
「いぎだい!!!」
間髪入れずに怒鳴り散らす。ビールかっくらって大号泣してやるし俺が事情を全部吐いたら起こるだろう松田の説教イベントに全面的に乗っかってやるから覚悟しとけよな。まさか自ら四面楚歌を作り出しているとは露知らず、萩原は『じゃあいつもんとこ』と電話口で笑った。愛してるぜ馬鹿野郎、生きててよかったな。
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