零は、どうやら俺達家族が大好きなようだった。ママさんのことは勿論愛しているようだし、俺のこともふにゃふにゃに溶かした離乳食みたいな顔で見ている事がある。そういう日常の様子を見ていると、やっぱり零にはこういう普通の幸せが必要だったんだな、と思うことが多々あった。
俺が坂下勇太という男として生きていた時、降谷零とお付き合いをしていた。大学時代に出会って仲良くなって、友達の延長線上を行くように付き合い始めて、手を繋いだりデートに行ったりごく稀にキスをするかしないか程度の、年齢にしては清いお付き合いのまま警察学校に入って、卒業して音信不通になった。
零はどうやら幼少期、家族に恵まれない環境だったようだった。本人から直接聞いたことは無いものの、言葉や価値観や振る舞い、そして零の幼馴染の諸伏の対応からもそのことが伺えてなんとも言えない気持ちになったのを覚えている。対して俺はどちらかといえば幸せな一般家庭。零の家族に対しての思いを酌めるかどうかと言われれば、きっと俺では力不足だっただろう。
「ふふ、一希、これだーれ?」
「まーま!」
そう柔らかく笑って、ママさんが自分の顔を指差したので即答した。この人も大層な美人さんである。零の奴本当にいい女捕まえたよな。優しくて顔も人当たりも良くて話している感じ頭も良さそうだし、芯が強くて笑顔の絶えない女性だ。子供がまだこの大きさでその立ち居振る舞いなのだから元々性格の良い人なんだろうな。
齢一歳半となりし俺は、やっと言葉を話しても不思議じゃないサイズ感に成長した。とはいえ子供の年齢ごとの成長度合いの目安なんて知ったこっちゃないので、勉強熱心なパパ殿、もとい零が育児の本を読み漁りながら「一歳半で言葉が…」とか「二歳頃には会話が…」とかぶつくさ言っていたのを拾ったのだ。ほんと勉強熱心だなこいつと思っている俺の横でママさんも苦笑いだった。子育ては知識だけじゃどうにもなんねーぞ。俺の中身が大人でよかったな。
「じゃあこれは誰だ?ぱぱだぞ?」
その後に、愛息子に呼ばれたいがために一足先に答えがまろびでている主席殿が自分の整った顔を指差しながらずいっと近付けてくる。驚くほどいい笑顔である。何か光線でも出ているのかと錯覚するくらいの顔面最終兵器ぶりに眩しい思いをしながら、俺はぺち、とその頬に紅葉の掌を貼り付ける。
「れえ!!」
「パパだってば…!」
がくっと肩を落とす零は、それでも俺に認識されているのが嬉しいらしく顔を緩ませている。「だれ?」とか言ったら首を括りそうな勢いである。絶対面白い反応が見られると分かっているのにやらない俺を誰か褒め称えてほしい。じゃないといつかやると思う。
零は仕事が忙しいらしく、こうやって休日らしい休日を過ごしているのは稀である。とはいえその仕事が何なのかはいまいち掴めていない。俺が捜一で働いていた時に零の姿を見かけたことはないので、もしかしたらもう警察は辞めてしまっているのかもしれない。
それでもこんな狂ったようなセキュリティを搭載した一軒家を建てて専業主婦の奥さんも養っているあたり、安定した収入の入る仕事をしているのは確か。もしかしたら起業でもして一発当てたのかもしれない。意外過ぎるが無い話ではないよな、こいつ割と何でもできるし。
「あっ、もしかして私が零って呼んでるからかな…」
ママさんが眉を下げて申し訳なさそうな顔を作る。確かに子供は大人の会話を聞いて言葉を覚えるんだろうから、その考えは当たらずとも遠からずだろう。元々俺という名の一希くんが「パパ」を「零」だと色濃く認識していなければ「パパだぞ」と言われたら「パパ」の方に行くのが自然だろうに。
けど一年半も零の息子やってるけど何となく「パパ」と呼ぶのは抵抗があるんだよな。いっそのこと掴まり立ちに失敗して頭でも打ち付けて記憶が吹っ飛んだら「パパ」と呼ぶのも吝かではないんだけれど。そう思っていると、零がいつも自信満々に上がっている眉尻を僅かに下げて困ったように笑った。
「うーん…でも君のパパじゃないし…君の前では夫でいたいんだ」
「れ、零…」
ヒューwwwwwヤダァねぇちょっとこの部屋暖房強すぎじゃなーい!?wwwwwあっついんだけどぉ!!wwwww誰か氷持ってきて俺が抱き締めて涼を感じられるくらいのぉ!!wwwww
突然夫婦の時間を横っ面にぶつけられた幼児のする事なんてお出しされていた動物型のお野菜クッキーをしゃぶしゃぶすることくらいである。ったく夫婦っつーのはいつまで経っても男と女なのかね。よもや自宅リビングに旦那側の元彼がいるなんて露ほども思っていないだろう零とママさんから生暖かい空気感を感じつつ、最近生えてきた歯が痒い俺はクッキーをもそもそ歯茎に擦り付けていた。味はいいんだけど水分が少ない。あーあ饅頭のあとはお茶が怖いわぁなんてちらっと家庭内お花畑空間に視線をやると、まだ少しだけ頬を染めたママさんと目が合った。
「あらあら、一希、クッキーおいしい?」
二人の時間を終えたらしい両親が俺に注意を向ける。あっもう少しよろしくしていただいてても構わねぇんですよと思いながらも、クッキーが一枚じゃ足りないのも事実。俺はにっこり笑って粉だらけの手を上げた。
「おい!ち!」
「そっかそっか、じゃあもう少し持ってくるな?」
俺の舌っ足らずな催促を正しく受け取ったらしい零が俺の子供特有の細い髪を一撫でしてキッチンに向かって、その隙にママさんは俺の手をおしり拭きで拭いた。俺これびっくりしたんだけどおしり拭きって舐めても大丈夫な成分で出来ているらしいので実質お尻だけじゃなく何を拭いても大丈夫らしい。森羅万象拭きに改名した方が売れるんじゃないだろうか。優しく拭かれてすっきりした手をぐっぱ、と動かしてから俺のためにクッキー運ぶマンになってくれた零の背中に最大級の謝辞を送った。
「ぱぁぱ、あーと」
「!」
その瞬間、ごと、と何かが落ちた音がする。びっくりして音源の方を見ると、おしり拭きのケースを落っことしたママさんがこれでもかというほど目をかっ開いて俺の顔を食い入るほど見つめていた。いやこえーよと思いつつもその顔に見覚えがある。俺が初めて彼女を「まま」と呼んだ、その時と同じ顔である。「ひょわ」となんか変な音をさせながら息を吸った彼女は、人知を超えた瞬発力で零が姿を消したキッチンを振り返って荒ぶり始めた。だからこえーよ。
「れれれれぇ!!!いま一希がパパパパ、パパって!!!早く!!!」
おいママさん落ち着いてくれ。俺が悪かったからどうか正気に戻ってくれ。こえーから。
「えっ!?待ってくれ今行く!!!」
きらきらとご尊顔を満面の笑みで輝かせながらクッキーの袋を鷲掴みにした零が走ってくる。軽やかに走っているように見えるが背中にジェットエンジンを搭載しているかのような身のこなしである。嘘だろお前ここ家の中やぞ。こえーよ。頼むからそのアイランドキッチン飛び越えたりしないでくれよ。
「れーえ!はーく!」
「ああああ…」
「ああああ…」
俺がママさんの真似をしてそう呼んだ瞬間に零が床にずささっと崩れ落ちて、ママさんが心配そうにおろおろする。ふーん、おもしれー夫婦。両親を振り回す幼児的楽しさを感じつつ、俺は目と鼻の先で撃沈したクッキーの袋を眺めながら自分の右手をしゃぶ、と口に入れた。すまねぇママさん、良かったらまた拭いてくれ。
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