ん?もしやこれ死んでなくね?
ぱちり、と目を開けた俺は、どうやらふかふかの所に横たわっていた。事故の後遺症なのか、視界が酷くぼやけていて周りが白いこと以外いまいち何も伝わってこない。けれど、ふわりと薫る嗅ぎなれない匂いの中に消毒っぽい臭いを感知して、ふと思い至った。あ、これもしかしてベッドじゃない?ここもしかして病院じゃない?そう思いながら目だけで周りの様子を探る。そうっぽい、どうやら救急車がファインプレーをぶちかましてくれたようだ。アイラブ日本の医療機関。
せっかく目が覚めたので枕元にあるだろうナースコールを探ろうと、そっと手を真上に伸ばす。どうやら両手共に点滴のようなものは刺さっていないようだし、何故か身体に痛みもない。何故だろう、なんて思いながら、ふとその考えが過る。もしや俺は伊達を庇ったあの事故の日から、怪我が治るまでの間ずっと眠っていたのでは。植物人間。ぞっとして、心臓がおかしな挙動をしている自覚もありながら、ともかく誰が呼ばなければと枕元を探っても、そこに電子機器は一つもない。
うそ、どういうこと?もしかしてどうせ意識なんて戻らないからナースコールもいらないよねとかいうそんな感じの扱い?こわい。まさか俺そろそろ他の誰かに心臓や肝臓や腎臓や眼球なんかを差し上げる予定とかあったりする?確かに運転免許の裏には「万が一の時は全部あげるよ!」とは書いてあるものの目が覚めた暁にはそれどうなるんだろう。とにかく誰か、医者でも看護師でも通りすがりの人でも誰でもいい。誰かと話をしなければ。今は何年何月何日で、俺は一体どうなっていて、家族は、みんなは、そうだ仕事は、誰か、とにかく誰か。
「おぎゃ…あ?」
あ?声を上げた瞬間、自分の顔がスンッてなったのは理解出来た。
いやおぎゃあじゃねぇんだよ。仮にも二十八歳警察官がどシラフでおぎゃあなんて言ってられないんだよ。紛れもなく不審者なんだよ。しかもあんな事故の後に産声上げ始めたら強烈に頭を打ち付けて深刻なダメージを受けた状態だと誤解されて、どうなるんだろう想像つかないんだけどとりあえず絶対警察官は続けられないだろうなってことだけは分かる。
その後も「すみません」が言えなくて一人でふぎゃふぎゃ言っていると、横に人の気配を感じた。え、ドアが空いた気配すらなかったけど忍者?その人はくすくすと笑いながら俺のほっぺをつんつんしてきた。どうやら声の感じからしてくノ一らしい。
「うん?なぁに
一希
かずき
、おしゃべりしてるの?」
かずき。そう呼ばれて脳内にクエスチョンマークが整列する。俺はナマエですけど。俺はナマエなんですけどこのくノ一何だか俺のほっぺをぷにる手がでか過ぎるし声の調子からしてなんか俺のこと大好きっぽいしそもそも二十八歳男性の起き抜けのほっぺぷにる知らん女が怖すぎる。俺のことを「かずき」だと思っている頭のおかしい女の人が病院から植物状態の俺を誘拐して今まで自宅で世話してたとかいう常軌を逸したシナリオが怒涛の勢いで頭の中に浮かんできてマジで世にも奇妙な物語だった。声もなく震えていると、その女性の反対側から、別の人間の声。
「どうした?…あ、一希、起きちゃったのか」
「そうみたい、お腹減っちゃったのかな?」
「そうか…よし、じゃあパパがミルク作ってやるからな」
そう言って、自分を「パパ」と称した男が鼻歌でも歌いそうな声色でまた引っ込んでいく。やばい、状況が全く飲み込めない、と言いたいところだがなんか今ので大体の事が理解出来てしまった。だから遠くでルンルンしてる「パパ」とやらも、俺のほっぺをぷにってたくノ一の手のデカさも、そして「よいしょ」と軽く二十八歳男性の身体を持ち上げて腕の中に収めてしまったこの、
「じゃあ、パパが来るまでママとおしゃべりしてよっか」
「ママ」とやらの存在も、大体こう、理解してしまった訳で。そして俺の顔あたりに当たるおっぱいがでかいのか俺が小さいのかも大体、いやこれどっちもだわ。俺は小さいしおっぱいはでかいわ。
「ふぇ…」
よしよし、と上下に揺さぶられて、あ〜俺赤ちゃんだわとはっきり理解する。空中に向かって手を上げると、「ママ」が柔らかく笑いながら俺の掌に指をくっつけてきた。反射的にぎゅっと、その指を握る。あぁ、こんな幼気な赤子の中身が二十八歳男性で本当に申し訳ない。部屋の中を練り歩きながら俺をゆさゆさするママさんが知らん歌を口ずさんでいるのを聞いていると、僅かな足音と共にパパさんが近付いてきた。
「人肌ってこのくらいかな」
「…うん、これで大丈夫」
どうやらミルクの温度を確認したらしい二人の話を聞きながら、俺は熱燗好きだったし別に大丈夫だよと思う。とはいえ新生児の肌やら細胞組織の強さなんてたかが知れてるんだろうな。俺ももうちょいでかくなって遊んでる途中にコケたりしたらこの世の終わりみたいに泣き叫ぶんだろうか。
「よし、じゃあ僕が」
そんなことを考えていると、ひょい、といとも簡単にママさんからパパさんに受け渡される。布越しにカッチカチの胸板と腕の筋肉を感じる。えっなにこれ無理マジでかったいわ居心地最悪。コンクリに座らされてるみたいな座りの悪さにもぞもぞと尻を動かしてしまう。口元に哺乳瓶らしきものを持ってこられるが居心地が悪すぎて今それどころじゃない。恐らく赤子を抱くのに慣れていないだろうパパさんは「あれ?」とか言いながら逃げ出そうとする俺に不思議そうにしている。見かねたママさんが愉快そうに笑って、俺とパパさんがくっついている所に指導しにやってきた。
「零、もっと…そうそう、頭支えてあげて?」
「あ、あぁ、ありがとう」
ママさんの軌道修正によって頭がしっかり支えられて、身体の横がしっかりホールドされる。さっきより格段に座りが良くなったので、好位置を探す必要もなくなった。それから口にシリコン状のものが当てられる。あぁ…はい…ミルク、か…。半ば降参するように素直にかぶりついて、ちゅっとそれを啜った。これから母乳を摂取する機会があったりなんてしたら、俺は人妻の乳を口に含む罪悪感で死んでしまうかもしれない。
「…小さいな」
震える声でパパさんが言う。俺はその声に、明らかに覚えがあった。視界がぼんやりとして濃い色しか認識出来ないため個人の判別はできないが、さっきのママさんがパパさんの名前を呼んだときに、それは確信に変わった。視界の真ん中でぼやける、ちらつく金色。
零。降谷零。あ、あ、あ
だよなやっぱこの声知ってるわ。知ってるどころか、ははは。
いつの間にかミルクが無くなって俺の口にぢゅっ、と空気が飛び込んでくる。赤子の吸引力半端ねぇなと思いつつ飲み込んでしまった空気にうぷうぷしながら吃驚していると、はっとしたパパさん、もとい零に恐る恐る縦抱きにされる。本でも読んで勉強したんだろう。なんだか肩がぷるぷる震えていてゲップどころかミルクも噴き出しそうな勢いなんだけど俺。
なるほど、どうやら交通事故で無事死亡していた二十八歳警察官の俺は、音信不通になった元恋人とその嫁の間に生まれた息子の一希くんに生まれ変わったらしい。やっぱ死んでて草だし、伊達はどうやら俺の遺言をちゃあんと零に伝えてくれたらしい。さすが次席殿、仕事が出来る男だ。
そう、そうか。零はちゃんと俺のことを忘れて、新しく出会った女性と幸せな家庭を築いていたのか。良かった、いい事じゃないか。そう自分に言い聞かせるが、こちとら意識の上では元恋人に対して遺言を残すくらい未練たらたらな状態から生まれ直して、というか物心ついてまだ数分である。赤子が物心付くの早すぎねぇかという疑問には同意。うふふあははな空間で、その愛の結晶である俺だけがど真顔だった。はぁ無理、俺はもう主要言語ハァイチャンバブゥで生きていきます。
list
- ナノ -