その男は、白い部屋の真ん中に座り込んでいた。こちらに背中を向けている彼の背中を、僕は知っている。
ネイビーのスーツを着ている坂下を見たのは初めてだ。それを見たのは坂下が殉職した事件の捜査資料、それと仕事終わりに松田と萩原と伊達とで集まって行われたという飲み会でふざけて撮られた写真でだった。これは僕が彼に黙って姿を消した後の、僕の知らない頃の坂下勇太だ。
「……」
何と、声を掛けようか迷った。それどころか声を掛けて良いものか。怖い。黙って姿を消して、彼の死に目にも会えなかった。登庁したついでに死体安置所で物言わぬ姿になった坂下の残骸を、ただぼんやりと眺めていただけ。「何故黙って姿を消したのか」と責められても仕方ない。「何故姿を消す時に別れを告げなかったのか」と、言われたって、それは僕の我儘だからただ謝る事しかできない。潜入捜査が終わったら、また彼の側に戻れる関係でいたかったという、身勝手な理由だ。いやに大きく感じる自分の心臓の拍動を、押さえ込むように灰色のスーツの左胸を握り締めた。
出口もない窓も壁もないただの白い空間、これはきっと夢の中だろう。僕の夢の中なら尚更、坂下の言葉が想像できなかった。足を一歩だけ踏み出して、自由に動けることを認識する。明晰夢、というやつだろうか。
坂下が顔を歪めて誰かのことを糾弾する姿を、僕は知らない。例え犯罪者相手であっても相手の事情を加味して考えて、極力悪く言うことは避ける男だったと記憶している。快楽殺人犯や愉快犯なんかは理解不能、という態度を取ることはあったが、それは僕も概ね同じなので何とも言えないところだ。人道的。腕白と言うに相応しい一面もあったくせにそんな言葉が似合う男だった。
そんな彼が、目の前にいる。僕の記憶の欠片をくっつけて人の形にした、もういない男だ。その背中を見つめて立ち尽くす僕に坂下が気付いたのか、ゆっくりとこちらを振り向いて足が竦んだ。ぱちり、と驚いたように瞬きをした彼の視線に、身構えるように身体に力が入る。けれど、僕の心配を他所に坂下はにっと笑って片手を上げたのだった。あぁ、知った顔だ。
"よ!零じゃん、久し振り!"
声にならない声がそう言った。唇の動きでこんなことを言っているな、という推察はできる。公安警察の必須スキル、読唇術だ。それに加えてテレパシーのように坂下の言いたいことが頭の中に流れ込んで来る。なんて都合のいい夢だろう。ふと肩の力が抜ける。そうだった、彼はこういう男だ。僕が勝手に象った夢の中でも、坂下は坂下だった。それはそうだ、僕は、僕に負の感情を向ける坂下を知らない。は、と浅く息を吐いて肩から力を抜く。僕は着ていたパーカーのポケットに手を突っ込んだ。
「…坂下、何してるんだ?」
そう尋ねて、坂下の背中側から手元を覗き込む。広げられた白い紙に書き殴られた謎の図形に首を傾げると、坂下は部屋着みたいなTシャツの袖を捲ってとんとん、と鉛筆で紙を叩いて示した。
"椅子の設計図書いてんの"
「坂下…?」
こくり、と坂下の頭が上下した。恐らく"そう"とか"うん"とか返事をしたんだろうと思う。坂下の前に回り込んで、その設計図とやらを拝見する。大きな模造紙に、三角、丸、四角。おおよそ意味のある配列に見えないそれのどのあたりが設計図だというのか。思わず首を傾げると、坂下は困ったように笑った。
"だって椅子ねぇんだもんここ"
尻いてぇじゃん、と続けた坂下は、くるりとペンを回した。彼が講義に集中できない時によく見受けられた仕草だ。だから図案もとっ散らかっているのかと半ば呆れて周りを見渡した。特に規則性もなく並べられたパイプ椅子がぽつぽつと並んでいる。なんだ、あるじゃないか。そう思いながら、無機質なそれらを指差して坂下に声を掛けた。
「あるだろ、ほら…これとか、そこにも」
顔を上げた坂下が、僕の指先を目で追って視界に椅子を捉えた。ゆっくり立ち上がって、彼はそのまま軽やかにパイプ椅子に足を進めた。Tシャツとジーパンに合わせたスニーカーなのに、何故か革靴のように重厚な音がする。じっと前かがみになってパイプ椅子の背凭れを凝視した坂下は、ふるふると首を横に振ってこちらに視線を向ける。
"や、よく見て、これは風見って書いてある、んでそっちは倉田"
坂下が背凭れに貼り付けてあったコピー用紙のようなものをひらひらと揺らす。確かに、そこには手書きで「風見」と書かれていた。ふむ、と少し考えてまたきょろ、と視線を泳がせると、パイプ椅子とは作りの違う木の椅子が置いてある。青色のクッションが置いてあるこれなら座り心地も良さそうだ。
「…それは?」
特に名前も書いていなさそうだ。それなら誰が座っても良いのではないだろうか。坂下がぐる、と椅子の周りを回ると、僕の死角になる椅子の後側に紙が貼ってあったようだ。腕を組んだ勇太がぷ、と一瞬頬を膨らませて、息を吐いてから不満そうに眉間に皺を寄せた。
"駄目だな…ヒロ、だって…あ、そっちは萩"
それなら隣は、と尋ねる前に坂下が同じ作りの椅子の背凭れに手を置いた。紫のクッションは"萩"の、赤は"班長"の、緑は"松田"のらしい。その隣の華奢な作りの椅子は"先生"だと、坂下は半眼で答えた。少し遠くにある子供用の椅子を見ながら"こなんくんて名前ヤバ、キラキラネームかよ"と坂下がぼやいている。ふと見たら、先程坂下が座っていたところには橙色のクッションだけがぽつりと置いてあった。
「別に、名前が書いてあっても座るだけなら」
"駄目だよ、俺のじゃねえし"
僕の言葉に被せるように伸びをした坂下に口を噤む。我侭な奴だ。今ここには誰もいないのだから、座るだけなら誰のものでも良いだろうに。というか何ならクッションだけ敷いて床に座っていればいいのだ。不満そうに腕を組んだ坂下は辺りを見回した。
"てかここ椅子少なすぎ…零、椅子の作り方知らないだろ"
「…作り方は知ってる、けどここには材料も何もないだろ」
椅子なんて、木材か何かを組み立てて釘で打って座れれば良いだろう。大方察しはつくが、ここにはそんな木材も、釘もない。
椅子が少ない、というのはどうだろう。この空間がだだっ広いからそう見えるだけであって、パイプ椅子は壮観と言えるほどに並んでいるのではないだろうか。間隔は広いが、数は警備企画課、そこに警視庁公安部を足した人数が満足に座れるくらいはありそうだ。それ以外の作りの椅子はぽつぽつ、という感じだが、どうだろう、相場が分からないからなんとも言えない。坂下が少ないと言うのなら少ないのかもしれないが、それも何と比べたのかは僕の知ったところではない。椅子の並んだ空間を眺める僕の背中を見ていたのか、坂下が背後で笑った。
"はは、違う違う、木育てるところからだろ"
「某農業系アイドルかお前は」
ラーメンを作るのにも小麦を育てるところから始めそうだ。なんて思いながら振り返ると、僕のすぐ後ろに木の椅子が鎮座していた。まるでホラー映画のような近さに思わず声を上げそうになるがすんでのところで堪える。お前の仕業かと坂下を睨み付けると、この上なく澄ました顔で坂下が一つ頷いたところだった。
"と言うわけで、完成したものがこちらです"
「お前…っ、驚かすな!どんな夢だ!」
"いや夢だからだろ"
至極当たり前のようにけろりと言った坂下に「そうだけど…」と困惑してしまう。そうだけど、夢の中の住人に「これは夢だ」と言われることもあるのか。坂下を通して自分の潜在的な冷静さを垣間見ていると、背凭れを叩いて感触を確かめてから、坂下が僕の隣を抜けていった。
"じゃあちょっと失礼して"
坂下が機嫌良さそうに橙色のクッションを拾い上げる。小脇に抱えてまた椅子に向かって歩いてくる坂下は、その様子を凝視している僕を不思議そうに見返してくる。から、ずっと思っていた事を伝えようと、口を開いた。
「…なぁ、声を聴かせてくれないか?」
ずっと、ずっと考えていた。何故坂下の声が聴こえないのか。簡単なことだ。僕がもう、坂下の声を覚えていないからだ。姿は分かる。目に焼き付いている。写真は全て燃やしてしまったけれど、坂下の顔は、姿は、笑顔は、怒った顔は、僕の料理を食べて血相を変えた顔は、講義の最中に窓の外を眺めている顔は、僕の怪我を手当しながら見せた呆れた顔は、全部、全部全部脳裏に焼き付いている。なのに、それなのに。唇を噛んで押し黙った僕に目を丸くした坂下が、不思議そうに首を傾げて自分の唇を指差す。
"別に良いじゃん、読めてんだろ?"
「いいわけ、ないだろ」
良いわけない。覚えていたい。僕の中の坂下勇太を、欠片も損ないたくなかった。割り切ったつもりでいたのだ。坂下は僕のことを恨んだりしない。忘れろといったのも、僕がずっと過去に囚われて後ろ向きのまま生きていくのを望まなかったからだと。優しい男だ、思い出として温かく抱えられないのなら忘れてしまえと、足りなかった言葉の裏にはきっとそんな意味が隠れていたのだろうと、そう思い込んで割り切った。
「いいわけ…ない…」
押し潰されたようになった肺から、そんな吐息が零れた。殆ど泣きの入った情けない声だ。目を丸くした坂下が僕を見ている。なぁ、お前は、自分が死んだことを分かっているのか。分かっているならもっと、死ぬ前に伝えたかったこととか、僕への文句とか、あるだろうに。それも、結局僕の夢だから、脳の整理以上に情報を仕入れることが出来ないのか。言ってほしい、何でもいいから残してほしいのに。ふ、と困ったように笑った坂下が、後ろで手を組んで僕の顔を下から覗き込むようにして言った。
"…俺のこと、忘れてって言ったのに?"
ぐ、と息が苦しくなった。重い。諭すような坂下の目線が、僕を突き刺している。彼の視線は優しいのに、僕の中に巣食っている罪悪感がそれを屈折させていた。優しいから、優しいから坂下は、僕からお前を取り上げようとするんだな。く、と喉の奥で笑って、微笑む坂下の顔を見返した。
「…じゃあ、なんで椅子なんて作ってるんだよ…」
ここに居座る気だろう。そうなんだろう。そうだと言ってほしい。皆を、僕を置いて死んだりしないで、ずっとここにいてほしい。思い出でも、後悔でも、呪いでもいいから。膝から崩れ落ちそうな喪失感の中、僕の両足は形のない地面をしっかり踏み締めている。
"えっ…なんでだろ、未来への投資?"
自分でも分からない、といったように惚けた坂下が半分笑いながら腕を組んだ。ケロリとした男の様子が、やけに現実味を帯びている。未来への投資、だなんて、椅子とどう結びつけたと言うのだろう。こじつけも甚だしい。
「…僕を恨んでいるのか?だから…忘れろと言ったけど、本当はずっと、君を思って苦しむことを望んでるんじゃないのか?」
夢の中の幻に、そんなことを尋ねても意味はないと分かっている。坂下の「忘れてくれ」という言葉を伊達班長伝で初めて聞いた時は、掛け値なくそう思ったのだ。いくら坂下が優しい男だからと言って、いくら坂下が僕のことを好きでいてくれたとして、いくら坂下が僕の幸せを願ってくれていたとして、怒る筈だ。自分に一言も断らず姿を眩ませた恋人が、死ぬまで会いに来なかったのだから。普通なら怒るだろ。唇を噛んで、坂下が怒る姿を想像する。当然のようにそんな顔は脳裏に現れない。笑顔で、声のない声で僕を責めるのだろうか。そうしてくれた方がいいと少し身構えるけれど、坂下はへらっと笑ってクッションを抱え直した。
"え?普通にそれはないけど"
「…そんな、わけが、あるか」
それなら今更夢枕に立ったりする理由がない。拳を握り締めて押し黙る。分かっている、憎んでいてほしいというのは僕の罪悪感を満たす勝手なエゴだ。
怒らない理由だったら、一つだけ思い当たる。坂下が僕のことなんて、ずっと昔から待っていなかったとか。けれどこれを聞いて肯定されてしまったら、きっと立ち直れなくなる。坂下のことは綺麗に思い出に出来たと思ったのに、その全てが粉々に壊れてしまうから、僕は押し黙るしかなかった。
口を噤んだ僕に向けた坂下が、少しだけ目を細めた。見ているのは、僕を超した先の何かだ。振り返ろうとして、けれど眩いものを見るような顔をする彼から目を離せずにいると、ふ、と浅く息を吐いた坂下は少し俯いて、それからこれまでの一番の笑顔を見せる。
"俺、もう行くわ"
気が付いたら、坂下は持っていたペンを床に取り落としていた。彼が着ている紺のスーツに合わせてあるだろう革靴の、すぐ先に落ちている。それを蹴ることなく向こう側に一歩踏み出した彼は、橙色のクッションを抱えたままこちらを振り向いた。行くのか。行ってしまう。きっともう止められない。行かないでくれと言ったとしても、坂下は。追い掛けようとしたところで、僕と坂下の間に立ち塞がるように真新しい椅子が置かれているのに気が付く。背凭れに張り付けられた紙は、白紙だった。ゆっくりと瞬きをして、その冷たい木の意匠を指先でなぞる。
「…勝手に作ったくせに、いなくなるのか…」
随分と、凝った作りの椅子だ。細い足だけれどしっかりとしていて、背凭れや肘掛けの部分には花の装飾が彫り込まれている。座り心地も良さそうなのに、せっかく作ったのに、座らずに行ってしまうのか。自分の声と思えないほど、小さな声だった。けれど坂下はそれすらも簡単に拾ったようで、不意を突かれたように一瞬沈黙する。けれど、まるで子供をあやすように優しい声で笑った。
"大丈夫だよ、零"
何が大丈夫なもんか。何も分かっていない、適当に僕を言いくるめようとしたのだろう坂下の言葉に、思わず憤った。
「っ、大丈夫じゃない!…分からない、知らないんだ木の育て方なんて、椅子の作り方なんて…───人の!愛し方なんて…っ!これで!今の僕で正しいのか分からない!」
吐き出したのは、薄っすらと分かっていたこと。この椅子は、居場所だ。僕が受け入れた人間の数だけ、その名前の椅子がある。パイプ椅子が沢山あるのは仕事関係の人間だから、その他の木とか鉄とかソファとかは、友人やその他大切な人の椅子。そう言われてみれば少な過ぎると思わないでもない。きっと、坂下の心の中の椅子の数に比べたら微々たる量なんだろう。
だって知らない、椅子の作り方なんて、心の開き方なんて、人の愛し方なんて。知らなかったのだ、エレーナ先生が僕の手当をしても、初めて友達になったヒロが、警察学校の同期達が賑やかに踏み入って来ても。知らなかった、彼が、坂下が平然と僕の手を取っても、もちろん今だって。自分からそれを返すなんて、どうすればいいか分からない。僕は貰ってばかりだ。坂下の作った椅子の背凭れに、ぐっと爪を立てる。唇を噛んだ僕に笑った坂下は、さも簡単なことのように肩を竦めてみせた。
"そんなん間違ってもしょうがないじゃん"
けろり、今日の晩飯を答えたような、そんな口振りだった。いとも簡単に言ってのけた男に呆気にとられながら、とんちのようだな、と一瞬思考があらぬ方向に飛んだ。
「…間違ってても、しょうがない?」
"しょうがないよこっちも相手も違う人間なんだから、間違った時謝ればいいだろ、普段謝らない奴ほど素直に謝ったときの効力マジすごいから"
「お前僕のこと謝らない奴だと思ってたのか」
すかさずそう一刀両断すると、坂下は親指で下唇をそっとなぞって考え込む素振りを見せた。スマホにそういう顔文字あったななんて誤魔化されないからな。じと、とそのわざとらしい仕草を睨めつけていると、無駄だと分かったのか坂下が一つ咳払いをした。
"料理も出来るようになったんだから、今度から椅子も自分で作ること!"
びし、と坂下が僕を指差す。学生時代の僕の壊滅的な料理しか知らないのにそんなことを言うなんて、やはり目の前の男は僕が作り出した幻想なんだな、と少しだけ寂しく思った。
「そう、だよな…うん、ありがとう…」
料理はヒロが教えてくれた。恐らく結構な根気が必要だっただろう。そうやって僕に心を砕いてくれた、それがヒロの人の愛し方なんだろうか。今では自分でアレンジしてメニューを考えられる程になった。大きな進歩だと思う。変わったんだな、僕も、坂下を置いて。なんだ、人のことを言えないじゃないか。自嘲の笑みを浮かべると、坂下が突然思い立ったように"あ"と声を上げた。
"あとこれはおまけ"
そう言った坂下が、どこからともなく取り出した風呂椅子くらいの小ささの椅子を投げ渡してくる。落とすわけにもいかずに咄嗟に受け取って抱えると、見た目よりずっしりと重みが伝わってきた。落とさないように抱え直す。さっき坂下がコナンくんのものだと言っていた椅子よりも二周りくらい小さいだろうか。
「…小さいな、こんなの…誰が座るんだ?」
首を傾げてそう尋ねると、坂下はにっと歯を見せて笑った。確か、僕の見た目を揶揄ってきた警察学校の同期の昼食の飲み物にぎりぎり溶け切る量の塩を入れているときの笑顔と、同じだった。よく考えたら絶対駄目だなあれ。
"さて、誰だろうな!"
誰なんだ。そう尋ねる前に、なんの前触れもなくぐっと後ろに肩を引っ張られた。驚いて坂下の方に手を伸ばすが、坂下は目を細めて笑って、ひらひらと手を振る。振り返っても目が眩んで何も見えない。きらきらと暖かく揺らめく真っ白い光の中に引っ張り上げられるようにして、僕は夢の中から追い出されてしまった。
list
- ナノ -