玄関の扉の前で、途方もない気持ちでドアノブを見下ろしている。かれこれ二分は扉の前に立ち尽くしているし、その前は車を降りるかどうかで十分ほど頭を抱えていた。そろそろ深夜に片足を突っ込んでいると言える時間帯だし、もう息子は寝ているだろう。
彼女からは自分からした電話で「本当は縫って使おうとしてたの、置きっぱなしにしちゃってごめんね」と情報提供をしてもらって以降何も連絡がなかったので、もしかしたら一希の不機嫌が直らずに、連絡が出来ないほど忙しい思いをさせてしまったかもしれない。申し訳無さで最早笑いすらこみ上げて来る。はぁ、と溜め息を吐いて、意を決して鍵を開け、扉を引いた。
「ただいま…」
「あ、おかえりなさい」
声を殺した帰宅の挨拶に、すぐに返事があった。驚いて顔を上げると、マグカップを二つ持った妻がやってきた所だった。何故か沢山服を着込んでいる。何故。よく見ると部屋着なのでこれから出掛ける様子ではなさそうだ。思わず彼女の顔をまじまじと見つめてしまうと、顔を綻ばせた彼女が目線を玄関の踊り場の床に向ける。視線を追うと、床に布の塊が落ちていた。
「…おか、えぃ…」
布の塊から挨拶が返ってくる。まじまじとそれを見つめると、玄関の壁で丸い頬を押しつぶすように寄り掛かっている、息子だった。毛布でぐるぐる巻きにされた上から帽子、耳当て、マフラーなどでしっかり防寒されている。寒空の下のキャンパーのような様相に、思わず目を丸くしてしまった。時間も時間だ。今にも落ちかけている瞼を眠そうにしぱしぱと瞬かせてこちらに手を伸ばしてくる一希を、鞄を持っていない方の手でそっと抱き上げる。暖かくて軽い。軽い筈なのにずっしりと重く感じて、落とさないようにと身体の上に乗せるため少し仰け反る。
「何してるんだ?こんなところで…」
「ぬぅ」と小さくぐずる一希が、もにゅもにゅと口を動かしてから僕の首に細くて短い腕を回す。片手で支えているからか身体のバランスが心許なかったのかもしれない。微笑ましげにそんな一希の様子を見た妻が、目を細めて笑った。
「…ここで起きて零を待つって聞かなくて」
「…なんで、そんな」
今は冬だ。開け閉めがないとはいえ玄関は冷える。寒かったろうにどうしてこんなところで待つだなんて。寧ろ僕の顔なんて見たくないとさっさと寝てしまうと思っていたのだ。鞄の持ち手を何とか手首に掛けて、空けた手を小さな背中に添える。
「れぇ…めん、ねぇ…」
すり、と首筋に金色の頭が擦り寄ってきて、息が詰まる。嫌われたと思っていた。けれど、どうやら僕の勝手な思い込みだったらしい。殆ど寝息のように告げられた可愛らしい謝罪を最後に、一希の身体からふっと力が抜けた。どうやら眠ってしまったらしい。
「ご、めんな、パパも…ごめん…」
堪らなくなって、すり、と自分と同じ色のやわい髪に頬擦りをした。そうだよな、バイバイは嫌だ。僕だって誰かと一緒に居ることを諦めなかったから、今腕の中にこの温もりがあるんだよな。声を殺して笑う妻に何とか笑い返して、僕はやっと玄関の踊り場に上がった。靴下は、新しいものを五足くらいプレゼントすることにしよう。
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