朝、泊まり組を抜いた誰よりも早くデスクについていた降谷さんがきのこ栽培の原木と化していた。こういった方向の人間卒業は初めて見たな、なんて現実逃避も甚だしいだろうか。泊まり組の同僚に「お前が行け」と言うような目を向けられたのでじっとりと睨めつけて降谷さんの方に恐る恐る足を進めた。
「嫌われた」
まだ何も聞いていないんだがもしかして人感センサーがついているのだろうか。ズン、と重い雰囲気を纏って机に突っ伏していた降谷さんが、そのままそっと頭を抱えた。自分にどうしろと。この上なく困っていると、今出勤してきたらしい諸伏が後ろから現れる。不思議そうな顔をしてこちらを見て、降谷さんを指差して首を傾げた。こちらも思わず同じ方向に傾いてしまう。そろそろ机にめり込みそうな降谷さんからくぐもった嘆きが上がった。
「絶対に嫌われたもう挽回できないパパって言われたれぇって呼んでくれなかったおしまいだ絶対に嫌われた明日からどんな顔して家に帰れば良いんだ俺は…えっ、離婚…?離婚は嫌だ…無理…」
「さり気なく本日泊まり込み宣言をしないでください」
明日からではなく是非今日も帰ってくれ。ズン、と重力が倍にでもなったような重篤な落ち込み方をする降谷さんに、勇気ある男が気にした様子もなく話し掛けた。こういう時の諸伏はとても頼りになると個人的に思っている。
「カズに何したの?」
苦笑を浮かべた諸伏が仕方なさそうに尋ねた。どうせろくでもないことなんだろうという内心が見え見えなのだが、降谷さんからすれば話を聞いて貰えれば大した問題ではないらしい。降谷さんの首から上だけがぬるりと動いて、洞穴のような暗い目がこちらを向いた。
「…穴の空いた靴下を捨てた」
「えっ?それで?別におかしいことじゃないよな」
当然のことだと諸伏が目を丸くする。確かにそう聞くと問題があるようには思えない。その年頃特有の子供の癇癪が発端なのだろうか、と考えていると、のそりと状態を起こした降谷さんがデスクに肩肘をついた。
「それが…伊達から貰ったお気に入りのやつで、妻が繕う約束をしていたらしい…しかも我儘を言うなとか…くそ、この口が余計な事を…」
「あぁ…それは…八時三十五分」
「一思いに頼む」
そっと揃えて差し出された降谷さんの手首を、諸伏が両手で掴んだ。二人して何をしているんだ。
なるほど、どうやら些細なすれ違いが招いた悲劇らしかった。こればかりは確認せずに捨ててしまった降谷さんの過失だろうが、あくまで過失である。これは文字通りしっかりと家庭で裁判するべき案件だろう。降谷さんの手首を解放した諸伏が少し戯けたように笑った。
「なんてな、寧ろ良かったんじゃないのか?お前パパって呼ばれたがってただろ?」
その点に関して言えば自分にも心当たりがあった。奥さんが息子さんから「まま」と呼ばれるのに対して、降谷さんは「れい」なんだと月に一回は嘆いている。個人的には我々の職業柄家に帰れないことだってままあるし、「父親である」という認識をされているのだからまだマシなのではと思ってしまうのだが、降谷さんとしてはやはり「パパ」と呼ばれたいのだという。確かに願ったり叶ったりの状況だろうに、降谷さんの表情は浮かなかった。
「違うんだ、ああいう呼ばれ方じゃなくて…」
「ええと…どんな呼ばれ方だったんでしょう…?」
ついそう降谷さんに問い掛ける。ふ、と鼻で笑った降谷さんは、前髪をかき上げてから虚無を濃縮したような目をひん剥いて言った。
「本当に目の前の人間が自分の父親の資格がある人間かどうか見定めるような感じだ」
「ゼロ……成仏してくれ」
「勝手に殺すな」
骨は拾って差し上げよう。諸伏と力強く頷き合うと、降谷さんがこちらをじとっと睨み付けていた。「まったく」と満更でもなさそうにひとりごちる年下の上司は、ふと遠い目をして頬杖をつく。
「…一希が、昔の自分と被って見えたんだ」
ぽつり、とそう呟く降谷さんは、どことなく空虚な雰囲気を纏っているように見えた。自分の見間違いかもしれないが、ふと霞んで消えそうな。その様子に諸伏も押し黙って彼の言葉の続きを待つ。
「バイバイは嫌だ、と言われて取り乱した、どうしようもない別れもあるって、僕は諦めたから」
今まで、降谷さんに訪れた別れにはどのようなものがあったのか、全てを知っている訳ではない。ただ降谷さんのこれまでを考えると納得せざるを得ない重みのある言葉だ。実際に潜入捜査に挑むにあたって、一度は人間関係をリセットした筈だし、勿論それだけでは無いだろう。この人と長い時間共に過ごしてきた諸伏も、その言葉に共感する気持ちも、心当たりもあるらしい。
「そうか…それで、落ち着いたのか?」
「あぁ…少し電話するよ」
ありがとう、と降谷さんが眉を寄せて笑う。それに笑顔を返した諸伏が、彼の背中を軽く叩いてから自分のデスクに戻っていった。自分も降谷さんの机に持ってきた資料を置いて、一つ礼をしてからその場を後にする。降谷さんは、何か大きな案件を相手する前のような真剣な眼差しを携帯に向けている。意を決したように一つ息を吐いて、番号を入力したような動きのあと、降谷さんがそっと電話を耳元にやった。
「もしもし…あぁ、今朝はごめん、その…頼むから離婚だけは勘弁してくれないか…?」
ガタッ、と別の同僚の机の方から足をぶつけたような音が聞こえた。降谷さん、全然落ち着いてないです。神妙な顔をする降谷さんの電話口から、スピーカーでもないのに大きな笑い声が漏れているのが聞こえた。
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