「あらら…」
俺の足元を見下したママさんが、目を丸くして俺の爪先につんつんと触れた。俺がちゃんと自分で靴下を履けているかどうか確認しに来たママさんが、別の物を発見してしまったのである。俺も眠い目を擦って自分の足を見下ろして、右足の親指をくいっと上げた。
「まま、おはよぉ」
おはよう靴下。北の方の方言だとこの前テレビで言っていた。靴下の穴から指が「おはよう」と顔を出しているように見えることからそう呼ばれているらしい。なんとも可愛らしい厄介者に、ママさんも思わずといった様子で穴から覗く俺の小さな爪をこちょこちょと擽った。やめてくれ。
「んふふ、おはようくつした?」
「うん…」
なんかちょっとあざといことをしてしまったと少し恥ずかしくなりながら、じりじりと少しずつ後退ってママさんから距離を取る。俺の間抜けな逃げ方に顔を綻ばせたママさんが俺をくるっと回転させて後ろからぎゅむっと抱き込んだ。あーめっちゃ微笑ましい親子のやり取りをしている。ふむふむと靴下を物色するママさんに釣られて俺もそちらを見れば、どうやら反対の靴下の親指の部分も薄くなっていた。そりゃこいつだけ贔屓して散々履きたおしてたからな。
「うーん、他のところも薄くなってるから、これはばいばいしようか?」
ママさんが俺のご機嫌を伺いつつそう提案してくる。当然のことだ。お気に入りといえど靴下に穴が空いてしまったのなら答えは一つ。
「えへへ…や」
と見せかけての「や」である。断固「や」。何故ならばこの靴下は俺の心の友であるアンパンのヒーローを象った至極の一品であるからして。足首の部分に顔が、爪先に向かって身体が描かれている。そしてなんと言ってもポイントが、ちゃんとアンパンマンの手足の部分から立体的に布が足されており、小さな腕と脚が生えているところ。俺の趣味をよく分かっているこの最高傑作は、なんと元同期の伊達からプレゼントされたものだった。そんなん尚更捨てるのやだ。
「うーん、やかぁ…うふふ、じゃあ直してあげようねぇ」
これにはママさんもにっこり。普段あまり我儘を言わない幼児が些細な抵抗を見せると、ママさんは少し嬉しそうにする。ぺたぺたと爪先を上げて下ろしてと指先の運動をしていると、ママさんが俺用のタンスから別の靴下を持ってきたところだった。某白いうさこちゃんの柄だ。
「じゃあパンのことはママが元気百倍にしてあげるから、今日はこっちでいーい?」
「いーよぉ…」
これも可愛いんだよなーとママさんから靴下を受け取る。青地に白いうさぎ、そいつの洋服はオレンジ。これはママさんチョイスの逸品である。ぽてっとその場に腰を下ろして、俺は足から穴の空いた靴下を抜き取ってママさんに渡した。自分で繕っても良いんだがそれは流石に神童ムーブが過ぎる。ふぁ、とあくびをしながら俺はもそもそと靴下を履いた。
眠いが目が覚めてしまったのなら起きてしまったほうがいい。この時間なら朝の教育番組にも間に合うし、眠かったらその辺に転がっておけば良いのだ。幼児の一人や二人、その辺の床に転がっていても邪魔になるものでもなし。靴下を履いたまま睡魔に負けかけてじっと目を瞑っていると、すぐ近くで押し殺したような笑い声がして、俺の頭をくしゃくしゃと撫でていった。驚くから足音を立ててく零。
「ゴミ出して来るよ」
俺の横を通り過ぎて玄関近くまで行ったらしい零が、ママさんにそう声をかける。この辺りは収集車のルートの関係か何なのか、割とゴミの回収の時間が早いのだ。零が家を出る時間についでにゴミ出しが出来ればちょうどいいのだが、残念ながらそれより少しだけ早い。
「えっ助かる!零ありがと
!」
俺の朝ご飯の準備をするママさんが、キッチンからそう返事をした。零とママさんのご飯はもう先に済んでいて、予想外に起きてきてしまった俺はこれからである。眠気に負けて前にころんと行きかけた俺の脇にどす、と柔らかいものが突っ込んでくる。薄っすら目を開けると白きもふもふだった。よきかな。むに、と頬を少し引っ張って目を覚まして伸ばした太腿をぺちぺちと叩くと、ハロさんがそこにそっと顎を乗せて伏せた。ぬくい。ばたん、と扉の開閉があって、零が家の中に戻ってきた。
「一希、ごは…ん?ねぇ零
、ここにあった一希の靴下知らない?パンのやつ」
パンの呼び方がママさんに浸透しているのはまぁ良しとしよう。がくん、と前に行きかけた俺にびっくりしたらしいハロさんがぴゃっと飛び上がった。すまんびっくりさせたな。ごし、と目を擦ると、零がけろりと答える。
「あぁ、穴が空いてたから一緒に捨てておいたよ」
「えっ!」
「えっ」
「え…?」
しん、と降谷家のリビングに珍しい沈黙が降りる。何かまずいことをしたらしいと一瞬で察知したらしく押し黙った零、零がこれ以上余計な事を言わないよう目で制しつつ俺が状況を理解しているのか測りかねているだろうママさん、そして中身が中身(三十路男性)だけにバッチリと内容を理解した反応をしてしまってしらばっくれるか問い詰めるか迷っている俺。突然の膠着状態。零とママさんのアイコンタクトが忙しなくてお前らテレパシーでも使ってんのかっていう感じである。アウトオブ蚊帳な俺は、取り敢えず状況を打破するために意を決して口を開いた。坂下、動きます。
「ぱん…ばいばいした…?」
聞き間違いだよね…と目で訴えながら零を見上げると、明らかに狼狽えていてそっと視線を逸らされた。靴下が捨てられてしまったショックからか、とてつもなく哀れっぽい声色になってしまったこともありママさんもあーあって顔をしている。こ、これはもしや、誠意ルート…か…?冷や汗が止まらないご様子のパパ殿が引き攣った笑みを浮かべてママさんと顔を見合わせる。一つ頷いたママさんは、するっと零の横を通って外へ駆けていった。戦場に赴く人か?
「えっと…ごめんな?パパが間違えて捨てちゃって…でも、穴が空いてただろう?新しいのを買ってあげるから…な?」
「だてから もらった やつ…」
ここまで焦っている零も珍しいな、と思って見上げると、どっと両目から、ほとんど噴き出すような勢いで涙が溢れる。零が目をひん剥いてびっくりしている。というか俺もびっくりしている。なんの予備動作もない号泣だ。眠気も相まって、感情の制御が出来ない。零から「ヴッ」と押しつぶされた蛙のような声がした。ぽろぽろと、止めどなく涙が零れ落ちる。自分ではどうすることも出来ないので、ただその水滴が服に染みを作るのを眺めるだけである。
「ばいばいなの…やだなぁ…」
ぽろり、と零れ落ちたどうしようもない本音に、ひゅ、と零の喉がおかしな音を立てた。見上げると、浅く息をする零の表情が強張っている。心なしか青褪めている顔を見てふと思い至った。確かに幼児が声もなくただ涙を零すとか言う光景はメンタルに来るよな。ぱちぱち、と瞬きをした俺を見下ろしてぐっ、と唇を噛んで険しい顔をした零が、俺の前に膝を折った。震える手が伸びて、固定するように俺の両腕を掴む。服の上からでも分かる、子供の腕を掴むには余りある力だ。
「…我儘を、言うんじゃない」
零が唸るようにそう言った。予想外の言葉に涙が引っ込んで、目を見開いて零の顔を見つめてしまう。苦しそうに歪められた顔、怯えているような色をした、光のない眼。いつもの快晴の空のような碧眼ではなく、曇った空を反射する海のような瞳だった。
「分かるだろう…?もう、どうにもならないことだってあるんだよ…」
押し殺すような吐露に言葉を失った。いや分かるよ、もう捨てちゃったしどうにもならないけど。だったら似たやつを買ってくるとかなんかそういう解決方法があるだろう。どうにもならないことを割り切るのも確かに大人になる上で必要かもしれないけれど、今のこの状況でそういう答えになるのはおかしい。こちとら三歳やぞ。それに、いつもの零だったらちゃんと謝るとかまずそういう方向に行くはずなんだ。なのに、零、お前、なんの話してんだ?
「ごめん一希!収集車行っちゃっ…こらっ!なにしてるの!」
俺と零の間に降りた不思議な沈黙を、外まで収集車を探しに行って戻ってきたママさんが破った。はっと我にかえったらしい零がママさんの方を振り向いて、それからもう一度俺に視線を戻す。恐る恐るといった様子で掴んだ腕を放して、それから涙でべちょべちょの俺の顔を指先で拭おうとして、躊躇った。俺が言葉の意味を掴みかねてただじっと零を見つめていると、狼狽えた零が少し上体を引いて俺から距離を取る。ママさんが、そんな零に少し困ったように笑って尋ねた。
「零、自分が今どんな顔してるか分かってる?」
ママさんがそういうのも仕方無いくらいの酷さだ。迷子の、子供のような顔だった。怒られたのかと思うほど所在なさげな表情をなぞるように自分の頬に手を当てた零は、一瞬罰が悪そうな顔をした後に深く息を吐いて立ち上がる。近くのソファの背もたれに掛けてあった背広と出勤用の鞄を手に取った零は、そのまま踵を返して玄関に向かった。
「…そう、だな…すまない、一希もごめんな…ちょっと早いけどこのまま出るよ」
「そう…?分かった、気を付けてね」
俺と零を見比べて、ママさんが少し戸惑ったふうにそう零の言葉を飲んだ。突っ立っている俺をよいしょと持ち上げて、ママさんがテーブルに置いてあったタオルで優しく顔を拭ってくれる。すまん実は服もべちゃべちゃなんだ。ママさんに頭をぽんぽんされたり顔をつんつんされたり背中をとんとんされたりさんざん構われながら零の後をついていく。零はこちらを一度も見ないまま革靴に足を突っ込んで、そのまま玄関のドアノブに手を掛ける。その様子が、明らかにいつもと違ったので。
「…ぱぱ?」
零の背中に、短い問いをぶつける。振り返ったその男は、少しだけ目を瞠ってからふと悲しげに笑った。閉じた扉を眺めながら、果たして今のは本当に
零
一希の父親
だったのだろうか、なんて、俺は途方もないことを思った。
list
- ナノ -