がこん、と自分で買った缶コーヒーが自販機の取り出し口に転がり落ちた。眠気を追い払うカフェイン、疲れた頭に送る糖分。折衷案として選んだのは微糖のコーヒーだった。ふう、と深めの溜め息を吐き出してプルタブを引く。ゴミ箱もあることだし休憩がてらここで飲みきってしまおう、と簡易なベンチに腰掛ける。降谷さんもきっとそうするだろう。
時刻は十六時三十八分。一般企業であれば定時間近といったところだろうが、生憎ここにはそういった概念は存在しない、と思ったほうが精神衛生上良いのかもしれない。今は急を要する案件はないものの、米花町の、ひいては日本の平和は予告もなく脅かされるのだから。
ふと、電話の着信音が響いた。自分のものではない。今丁度自販機に小銭を入れようと財布を物色していた降谷さんが顔を上げて一瞬こちらに視線を向けたので、やはり定時など都市伝説ですねとアイコンタクトを返した。死んだ目をこちらに向けた降谷さんが画面に目を落としたあと、僅かに見開いて、二、三度瞬きしてから通話を開始する。
「どうしたヒロ…えっ?」
一瞬素っ頓狂な声を上げた降谷さんが目を瞠る。どういう感情なんだろう、それは。一応電話の相手は降谷さんの幼馴染で自分の直属の部下、諸伏景光らしい。
先日、我々日本警察が様々な機関や協力者と共に壊滅まで導いた、通称黒の組織。彼らの壊滅を受けて、諸伏の潜伏も終了した。四年と少し窮屈な思いをさせたが、今はそんな生活から開放されて以前の日常を取り戻し掛けている。今日は彼も久し振りの非番で羽を伸ばしている筈だったが、一体何があったというのだろうか。
戸惑い気味に相槌を打ちながら、降谷さんがその辺りをぐるぐる、と円を描くように歩き始めた。顔色がいつもと違う、赤いのか青いのか分からない焦げ茶のような色をしている。「うん」と「それで?」を交互に繰り返していた様子のおかしい上司はふと一瞬足を止めると、突然だん、と床を強く踏み締めた。
「そんな訳ねぇだろうが!!!旦那は僕だ!!!」
「降谷さん!?」
びっくりしてコーヒーをぶちまけかけた。なに…修羅場…か…?諸伏、お前何を言ったんだ…。
「すまない、取り乱した……そう、か、あぁ…ありがとう…」
口から元気よく飛び出しそうだった心臓をスーツの上から押さえる。びっくりした。もはや小学生のような感想しか出てこないほどびっくりして、これがよく言われる「小並感」というやつかと的外れな納得をしてしまった。自分と電話口の諸伏に同時に謝りながら降谷さんが続きを促す。何となく困惑したような様子で答えた降谷さんが通話を終えて、そのままかたまって立ち尽くした。珍しい。いつも背筋を伸ばして凛としている彼らしからぬ所在無さ気な様子だった。ぼんやりとした様子で、思わず声を掛けてしまう。
「降谷さん、どうかされましたか?」
はっと我に帰ったように顔を上げた降谷さんがこちらを向く。よほど何か衝撃的な報告を聞いてしまったのかと身構えると、彼はそのまま首を横に振った。
「いや、問題ない、その…ちょっと妻が産気づいただけだ」
「そうでしたか………はい?」
驚く自分を他所に、降谷さんはいつもと変わらない様子でフッと微笑みを零した。いやいや待っ、ちょっと待ってほしい何か今とんでもないことを言われたような気がするんだが。降谷さんが自販機に小銭を入れる。七百二十円。何だその金額は。一体何を買うつもりなんだ。ガコン、と落ちてきたのは透明なペットボトル…が三本。落ちてきたお釣りは三百九十円。いやだから何してるんだこの人、誰の何を買ったんだ。誰が飲むんだその大量の水を。
「うちに遊びに来ていたヒロが陣痛に居合わせて病院に連れて行ってくれたらしい、ははは少し驚いたな予定日よりちょっと早、あれなんかこのコーヒー透明じゃないか?」
「降谷さんそれは水です」
瞳孔の開き切った瞳で水を掲げる降谷さんが何やらおかしなことを言っている。人間、自分より動揺している人が側にいるとかえって冷静になるという話を聞いたことがあるが、今の自分はまさにそれかもしれない。逆説的に自分が降谷さんより取り乱せば降谷さんが代わりに冷静になってくれるのかもしれないが、現状の降谷さんより正気を失う術を自分は知らなかった。力不足な自分が不甲斐ない。
「本当だな、間違えたか…えっみずでてこない」
「降谷さん蓋が開いていません」
降谷さんがキャップを開けてすらいない水を持つ手がガッタガタ震えている。顔は全くいつもと変わらないあたりはさすがと言わざるをえないが首から下が動揺のあまり異常を来していて大惨事になっている。人間初心者か?
「あっうん蓋だよな、それもそ…ウヴッ!?」
「降谷さん!?」
にこやかな降谷さんがキャップを開けた瞬間に、握り潰してしまったらしい。決してこの上司の握力が強過ぎる訳ではなく、その飲料水のペットボトルがクシャっと潰れる柔らかい作りになっているだけである。頭からキンキンに冷えた水を被った降谷さんが後退りしながらこちらに向かって何かを弁明している。
「大丈夫だ、うん、大じょう、ぶッ!!?」
「降谷さーーん!!?」
落ち着かない様子で濡れた髪を掻き上げて周囲を彷徨き始めた降谷さんの右脚の爪先が、今度は左脚の踵に引っ掛かって身体が傾く。その先にあったのは先程の自販機である。衝突した頭と自販機が、ゴッ、と凡そ人体から発せられるとは思えない音を立てた。自分が同じ目に遭っていたら気絶していただろうな、とゾッとしたのを感じながら、さっきから珍しいどころか中に別人でも入っているのかと思ってしまうようなミスの連続に、この人をここまで駄目にする奥さんという存在の大きさを思い知った。
「降谷さん!?し、しっかりしてください!」
ズダン、と大きな音と一緒に床に崩れ落ちた降谷さんが一緒に笑顔も取り落とす。ごろん、と仰向けに寝っ転がって、瞳が緩やかに丸く泳いでいる。目が回っているのだろう、視界に星も飛んでいそうだ。一瞬死体かと思うほどの真顔は、恐らく彼の恐ろしく切れる頭ですらキャパシティを超えていることを表している、と思って間違いはないだろう。
「……かおがいたい…いや、これは胃…?なんだこれぜんぶいたいなんかゆびもいたいし…」
いやほんとしっかりしてください。ポアロ組織、組織警察庁、組織ポアロ、警察庁組織、ポアロ公安、組織警察庁とかいう精神が揺らぎかねない五徹にも耐えきった鋼の上司が床に蹲っている。指も痛いというのはさっき水のボタンを押した時に突き指でもしたんだろう。そりゃ自販機の水のボタンを秘孔でも突いているのかと思うほどの強さで、しかも高橋名人の如き回数を連打していたのだから当然と言えば当然のことだった。自販機はもう死んでるかもしれない。いけないこちらまで動揺してどうする。
「ええと、その…痛いところがあるのなら、病院に行かなくてはいけませんね…救急車…いやタクシーを…」
かと言ってこんな状態の上司に運転をさせる訳にはいかない。酷い事故を起こすか、或いは壁でも走り出しそうだ。今日はもう使い物にならないだろう上司を見下ろしながら、自分は最寄りのタクシーの事業所に電話を掛ける。えっと、顔と胃と指が痛いときに行くのは確か産婦人科だったな…。十分後に行きます、と答えてくれた心強い味方の言葉を降谷さんに伝えて、放心状態の彼を助け起こした。
「今日はもう上がってください、後は自分達が何とかします」
何ならこの後降谷さんの休みを調整する予定を頭にピン刺ししながら、自販機の中に置きっぱなしだった水二本を取って差し出す。結局降谷さんは水を頭から被っただけで一口も飲んでいないので何だかんだあと二本買っておいて正解だったのかもしれない。自分の事を目を見開いて見詰める降谷さんは生まれて初めて優しくされたような顔をしていて、少し戸惑う。きら、と輝いた空色が覇気を取り戻して、溢れ出る喜色をぐっと堪えて口を開いた。
「……風見、ありがとう…それは受け取ってくれ」
「えっ」
思わぬ返しに間抜け面をしてしまったが、降谷さんは物凄い勢いで踵を返した。あっ、廊下は走ってはいけません。あとこの水一リットルを何に使えと言うんですか、降谷さん。
鉄砲玉のように走り出した降谷さんの後を追うと、どうやらもう退勤後だった。鞄の無くなった降谷さんの机を見遣ると、ざわざわとしていた後輩たちがこちらに気付いたようだった。
「あっ、風見さん!何か今チーターみたいな人が風のように過ぎ去って行ったんですけど…」
「なんかあの風「お先!」みたいなこと言ってなかったか?」
「…それは多分降谷さんだから安心してくれ」
「なーんだあれ降谷さんか」
ははは、と笑って散っていく同僚たち。いやそうはならんだろう。自分の「降谷さんだから安心してくれ」もおかしいが「なーんだ降谷さんか」はもっとおかしいだろう。上司の移動速度が時速や風速で表されることについてもっと疑問を持ってくれ。人間が顔の識別が出来ないくらいの速さで走るのはおかしいことなんだと誰か思い至ってくれ。その一言で騒ぎが収束するのもおかしいだろう。「降谷さんなら仕方ないな」で許される事象の範囲について迷宮入りしそうになったところで、自分の手元にある水のペットボトルに気が付いた。自分はもうコーヒーを飲んだし、これは誰かに渡してしまおう。
「これ、良かったら受け取ってくれ」
「えっ、ありがとうございま…水…?」
近くにいた同僚二人に声を掛けると、怪訝そうな顔をされる。確かに差し入れなら缶コーヒーやお茶が一般的だろう。首を傾げる彼らに説明をするべく口を開いて、少し言葉選びに迷った末、なんとか適したものを選び取った、と思った。
「降谷さんからの…ええと…出産祝い?だ」
「そう…えっ、なんです?」
「出産?えっ、風見さんが?」
「えっ?」
まずい、明らかに言葉のチョイスを間違った。自分も大概動揺していたらしい。そっと頭を抱えて、俺は「上司出産に立ち会えるかどうかで今後の夫婦生活が決まる!」とかいうネットニュースの記事を思い出して上司の健闘を祈った。降谷さん、間に合うといいんだが。
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