「今日会ったことは、その…誰にも言わないでくれないか?」
坂下の横顔に声を掛ける。自分勝手なことを言っている自覚はあったけれど、大義の為には仕方のないことである。手錠がついたままの俺の腕を引きながら、坂下は眉を上げてにっと笑った。
「あぁ、もちろん一課で大声で触れ回ってからツイッターにも書き込んどく、ふぁぼリツよろ」
「うん分かったスパブロしとくな」
守秘義務もクソもあったもんじゃない。本当にやったら現実世界でも
スパブロ
社会的に殺
してやろうかと思ったところで坂下が肩を竦めた。
「つめた…アカウントじゃなくて心凍結したわ」
うまいこと言おうとすんな。ばし、と坂下のふくらはぎを蹴りつけると、「いて」と全然痛くなさそうな声がした。
警視庁に着いた。このまま俺は一旦勾留でも保護でも何でもされて、最終的に公安に回収されればいい。坂下から借りた携帯で風見さんには連絡してあるし、履歴も消してある。このまま行けば坂下に協力者の打診が行くだろうが、そうでなくても大丈夫なように履歴は消した。
警視庁の門をくぐると、エントランスに男が立っていた。彼を視界に入れて、坂下が立ち止まる。男、風見さんも俺達に気が付いたのか、顔を上げた。その靴の先がこちらを向いて、足早に向かってくる。表情は、当然だが険しい。
「…ご無沙汰しています坂下巡査部長、その男の身柄を渡して頂けますか」
風見さんがそう言い放つ。ご無沙汰しています、ということは、風見さんと坂下は面識があるのか。それなら風見さんの顔を見ただけで俺の所在が公安案件だと分かるだろう。安心して肩の力を抜こうとした瞬間、ぱちん、と坂下のスイッチが切り替わる音が聴こえた気がした。途端に肌を差すように鋭くなった空気は、坂下が風見さんに向けている敵意だ。
「…おやぁ?公安さんはいつから公務執行妨害の処理を代わってくれるほど親切になったんです?それとも何ですか?警察辞めてボランティアでも始めましたか?それならその怖ぁいお顔をどうにかした方がよろしいかと…元交番の人気ナンバーワンおまわりさんからのアドバイスです」
捲し立てるような口振りに思わず耳を疑う。普段温厚で、どこかおちゃらけた雰囲気の坂下と一見同一人物には見えないほど刺々しい口調で言った彼は、風見さんに向かってにっこりと深い笑みを向けた。
「お喋りは結構、その男は我々の担当する事件の重要な証人です」
「まぁまぁそう言わずに!何だかんだ長い付き合いになるのに私は貴方の名前すら知らないんですから、もっとお話しましょうよ…勿論 私が この男を逮捕した後でね、メアド交換します?」
「いえ、こちらは貴方と違って忙しいもので…貴方も遊んでないでさっさとご自分の職務に戻っては如何ですか?」
「ははは、貴方と話してると公安が嫌われる理由がよぉく分かりますね、取り調べが上手そうだなぁ…いい性格してるって言われません?」
「貴方程ではありませんよ、彼の身柄を渡して下さい」
「嬉しいなぁ、エリート様に褒めて頂いて光栄です!それじゃあ私は彼の取り調べがあるので!」
眩しい程の笑みを浮かべた坂下が首を傾げて風見さんを上目遣いで見る。風見さんとは違った、何とも悪者然とした振る舞いだった。する、と俺の肩に坂下の手が回った。そのままぐっと引き寄せられて、恐らく風見さんの横を通り過ぎようとする。
「え、坂下…?」
怒っているのだと、ややあって理解した。聞くところによると坂下は何度か公安案件の事件の捜査にあたっている。公安に事件を引き継いだ経験もあるとの事だったから、本当は素直に俺の身柄を引き渡すのが正しいと、彼も分かっている筈だ。恐らく、俺が潜入捜査を離脱して公安に回収されたのだと分かっていて、俺を危険な目に遭わせた、と公安の人間に対して怒っているのだろう。それくらい、俺だって覚悟していたから、大丈夫なのに。呼ばれた坂下が笑顔のまま、俺に視線だけを向ける。
「…その、俺は大丈夫だから、ありがとな」
そう言うと、坂下の笑顔が一瞬固まったように見えた。それから一度風見さんの顔を見遣って、ふー、と深く息を吐く。それと同時に、坂下の顔から笑みが抜け落ちた。面白くなさそうで、今でも頬でも膨らましそうな子供みたいな表情。本当に分かりやすい男だ。
「…そうかよ」
ばし、と坂下が俺の背中を叩いて、風見さんの方に押した。振り返れば坂下はまだぶすくれていて、半目で風見さんのことを睨み付けている。ちら、と俺の方に視線が動いて、どことなく困ったように笑う。これはよく知った笑みだ。
「今度会ったら飯奢れよ、伊達と…萩原と松田も呼ぶからな」
「あ、りがとう…ごめん、ごめんな…」
言い聞かせるように俺を指差した坂下に、それしか返す言葉がなかった。その約束を、果たせる日はきっと随分先になるなぁ。そう思いながら無理矢理に笑顔を作ると、坂下は一瞬斜め上、虚空を見上げるように視線を泳がせて、それから一つだけ溜め息を吐いた。
「あとは、もしどこかで零に会ったら…よろしく言っといて」
「っ…あぁ、分かった」
眉を下げて苦笑した坂下が、風見さんに一礼する。踵を返して、振り返らずに歩いて行く。その背中を風見さんと一緒に見送って、見えなくなるまで動けないでいた。傷付けてしまっただろうか、ここまで送ってくれたのに、ただ坂下を利用したと思われても仕方がない。否、実際に俺は坂下を利用した。危険だと分かっていて、その手を取ってしまった。追い掛けて弁明したい。けれど、そんなこと許されるはずも無い。俺の命より大事な情報があるように、友人より大事な仕事もあるのだ。
坂下は、ゼロのことも分かっているのだろう。俺に「よろしく」なんていうくらいだ。俺もゼロも、潜入捜査の任務に就いてからは、旧知の人間とは一切連絡を取っていない。家族、友人、もちろん同期。坂下とゼロは同期というだけではないけれど、それでもだ。
分かっているんだろうな。分かっていて、何も聞かなかったんだろう。坂下も警察官だ。
「諸伏、行こう」
「…はい」
風見さんに腕を引かれて、俺は素直に一歩踏み出す。友人との束の間の邂逅だというのに、後味はいいとは言えなかった。情報の漏洩元について考えているのだろう風見さんの仏頂面を見遣る。坂下の態度について、気にした様子はなかった。
「…あの、風見さん…坂下がすみません…けど」
せめて代わりにと謝ろうとすると、風見さんは眼鏡を上げ直して少しだけ顔を綻ばせた。本来この人も優しい人だ。ただ立場上憎まれ役を買って出るのは仕方のないことで、まぁ坂下が言ったように「いい性格」に見えてしまうこともある。本人がそう見えるように振る舞っている、というのもあるだろう。本当は勤勉で穏やかな、人間味のある人だ。
「いや、分かるよ…彼は責任感もあるし、友人思いだな」
「…っ、はい…!」
そう微笑まれて、滲んだ視界を誤魔化すように両手で頬を叩く。捨てるしかないと思っていたのに、拾われた命だ。報いる為には前に進むしかないだろう。そう思っていた。
けどさ、坂下、時々思うんだ。俺さ、巻き込みたくないから黙ってたけど、あの時危険を承知で本当の事言えばよかったのかな。それでゼロのこと待っててやってくれって、絶対お前の元に返すからって伝えてたら。そうしたら、もしかしたらまだお前達は、お前はさ。
これ、俺の考え過ぎかなぁ。分かってるよ、今更後悔してもどうにもならないよな。ごめん、本当に、ごめんな。
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