突然だが、今俺の目の前には真っ白いぬいぐるみのようなもふもふのふわふわがころころしていてあーっていう感じだ。つぶらな真っ黒い目、一点のくすみもない白の体毛、たまにちらりと除く桃色の舌と肉球。生まれて初めて俺、もとい一希が対面する、人間以外の動物。
「わんわん!!」
そう、わんわんである。イッヌとも言う。
ちょうど俺が座ると、白い犬と目線がほぼ同じになる。大人の身体ではこのサイズの犬と目線を合わせるためにはだいぶ屈まなくてはいけない。子犬がまるで某国民的もののけアニメ映画の山犬くらいの大きさに見えるのは子供の特権だろう。小型犬デッケェ。矛盾。
「ワンッ!」と短く鳴いた小型犬くんは、俺の顔を真っ直ぐ見つめて黒い瞳をキラキラと輝かせた。ぶんぶんと振られる尻尾を暫く目で追って、それから俺と小型犬の様子をにこにこ見守っていた零とママさんをちらっと見上げる。久し振りの、というか一希にとっては生まれて初めての動物お触りチャンスに身体が浮足立っているのを感じた。困ったことにウキウキが止まらん。
成人男性の知能とは別に、身体の反応は幼子に由来するのかもしれない。確かに眠気に抗いがたいこともあるし、最近は何だかんだ自立心が湧いてきて、靴を履かせてもらうのを拒否してしまったり自分で荷物を持ちたくなったりなど、いわゆる「イヤイヤ期」に入っている自覚がある。けど他の幼児よりは多少筋の通ったイヤイヤなので、そこまでママさんを困らせている訳ではない…と思う…。困らせてたらごめん…。
俺のチラ見攻撃に顔を綻ばせた大人たちが顔を見合わせる。なんだよわんわんやにゃんにゃんは見たことはあっても触らせて貰ったことは無いんだからな。そりゃ言葉の通じない動物を無闇に子供に近付けるのは危ないし、子供のほうが動物に危害を加えてしまうこともある。まだ三歳を回って少しの俺に対しては正しい判断だろう。
「一希、この子はハロくんだよ、はーろ」
「はーよ?」
「んふふ、そうそう」
言われたように真似をしてそう名前を呼ぶと、ママさんがにっこりと笑う。名前の由来はなんだろう、挨拶のハローかな。犬、ハロは目の前に差し出されたママさんの指先の匂いを嗅いでから嬉しそうにスリスリと頬擦りした。えっかわいいおとなしい。はわわ…となりながら見ていると、横から褐色の指先が伸びて白い毛に埋まった。零だ。
「そう、一希よりおにいちゃんの六歳だからな」
アッ、そうだったんすか…って事はハロ さん か…。お務めご苦労様ですハロさん…。実年齢ですら俺より上に加えて、成犬になってからの犬の一歳は人間で言うと四歳に相当する、と聞いたことがある。つまりハロさんは人間換算すると四十歳で…今この場にいる誰よりも年上でいらっしゃるじゃねーか。ハロおじさんだよ。
スン、と真顔になり掛けた俺に、ママさんと零の手から開放されたハロさんが首を傾げる。たった今聞いた衝撃の事実のせいでそのキュートな御姿から聞こえてくる副音声は「おい、どうした小僧」というダンディーなボイスだった。先入観とは怖いものである。きゅっと唇を引き結んで、俺は背筋を伸ばした。
「さわっても、よいですか」
「嘘でしょなんで敬語なの…むり…いいよ…」
えっ、どっち?むり?いいの?その後心なしか震える声でママさんがちゃんと許可をくれて、ハロさんをびっくりさせないように触り方を教えてくれる。そっと伸ばした俺のもみじ饅頭みたいなぷくぷくした手に、ハロさんの黒い鼻がつんと触れた。あら濡れてる…元気な証拠だわね…。
「かわいい…けど俺そっちのけじゃない?」
「犬は初めてなんだ、許してやってくれ」
俺が白いもふもふではわわしている横で、男二人のひそひそ話が成されている。ぶっちゃけどっちの声も聞いたことがあるんだけどひとまず置いておいて、俺はハロさんのピンク色の舌によってべちょべちょにされていく自分の手のひらを感動しながら眺めていた。あたたかい。生き物ってこんなに温かかったのか…。
俺がそろそろハロさんの毛並みを堪能させて頂こうと恐る恐る手を伸ばすと、それより先に俺の脇の下に手が差し込まれる。おや、と思ったと同時に身体が後方に向かって空中を移動していた。離れていくハロさん。俺の指の隙間をすり抜けていく、白くてもふもふの、毛並み。
「あーっ!やぁだーっ!」
いくら手を伸ばしても届かない。悲しいかな、人は失ってからその大切さに気が付くのである…一回死んでる俺が言うと洒落にならないんだけど…。離れていくハロさんの黒くて丸いお目々と見つめ合っていると、俺の視界を遮るように覗き込んできた男がいた。
「そろそろ俺にも構ってほしいなぁ」
困ったように笑う髭面の童顔。先程の聞き覚えのある声をした客人、俺の元同期の諸伏景光である。
さて、個人的に零と同じく諸伏も警察辞めたんじゃねぇか疑惑を持っていた俺だが、どうやらこの男も予想に反して元気に警察官を続けていたらしい。零とのやり取りを聞いたところ所属は大体の想像通りで、けれど職場で遭遇した記憶がないのでやはり、潜入捜査官だったのだろう。幼馴染揃ってそんな危険な任務に就くのも無理はない、こいつらはそれだけ優秀だったし。
というか萩原も松田も機動隊からスカウトされてるし伊達だって次席だったんだから、問題児とか言われていたけれど鬼塚教場伊達班は何だかんだ優等生なのでは…?俺だってそこまで目立ってはなかったけど何回か表彰はされてるもん。あと俺はこいつらに比べて問題行動が少なかったと思う。つまり真の優等生は、俺…?
さて、そんなこんなで俺達からの連絡をガン無視して下さっていた諸伏景光くんが俺を抱き抱えている訳だが、こうして生存確認できてとても嬉しい限りである。嬉しい限りであるんだが、俺とハロさんの逢瀬の時間を邪魔する奴は指先一つでダウンということで…。
「やーっ!」
ぐっ、と腕を突っ張って諸伏の胸板を推す。飼い主からの頬擦りを嫌がる飼い猫のようなムーブだが正直内心はまさにそれである。なんなら液体のようにぐにゃっとその腕を抜け出したい。イヤイヤ期に突入した俺の本気のイヤイヤを刮目せよ。ほぼ反り返って腕からうなぎの如く零れ落ちそうな俺の背中に手を添えて、諸伏が身体を支えてくれた。けれどその顔は絶望感たっぷりである。
「え…うそ、悲しい…」
悲しいのはこっちだよ。ハロさんお触りタイムを邪魔された幼児の身にもなってくれ。よっぽど泣きわめき散らかしてやろうかと思ったが、頬を膨らませて諸伏をじっと見上げるだけに留めておく。お前これ正真正銘中身が子供の幼児にやったら阿鼻叫喚だから覚えとけよ…!俺が精神年齢三十代だから良いものを…と思ったけど怒ってほっぺ膨らませる三十代ってヤバくない?まぁ可愛いからいいよな…。
「不機嫌アピールが…かわいい…」
「あんな顔、見たことないが…」
そこの両親、聞こえてるぞ。ぷい、と諸伏から目を逸した俺の耳にシャッター音が届く。コラやったなママさん。普段のイヤイヤ期の症状より強めの拒否が珍しいのだろう。む、と口を引き結んでいると、諸伏が俺の丸く膨らんだ頬をつん、と指でつつく。負けぬ。更に頬に空気を送って抵抗すると、諸伏は俺の顔を摘むように右手の親指と人差し指で両頬を挟んだ。ぽひゅ、と口から空気が抜けた俺の頬が潰れて、間抜けな音を立てる。
吃驚して目を丸くした俺と、同じように猫目を見開いた諸伏が暫く見つめ合う。お、お前、こんなに機嫌の悪い幼児を構い倒すって、勇者かよ。それとも子供の扱いを知らないのか?たっぷり五秒見つめ合って、諸伏のびっくり顔と空気感が段々と面白く感じられるようになってきた。
「くふ、んふふふ…」
「お、笑った?ゼロにそっくりだな
」
止めろコラ、幼児っつーのは箸が転がっても満点大笑いなんだぞ。耐え切れず両手で口をおさえて笑い出した俺に、諸伏の肩の力が抜ける。目の前の童顔がにま、と嬉しそうに破顔して、声を弾ませながら俺を抱き締めた。スリスリと頬擦りされて、顎髭が額に刺さってちくちくする。ふと俺の頭にもみじおろしの作り方が頭を過る。あっ、削げる。顔面が、幼児の柔らかいおでこが。あ、削げ、あーーお客様!!困ります!!ちくちくします!!お客様ーーッ!!!
「ぎぇあ゛あ゛っ!マ゛マ゛ァ゛ア゛ア゛!」
「諸伏さん!今度のはマジ嫌がりです!」
「わかりました!!止めます!!ごめん!!」
俺のスネ夫ばりの絶叫にガバッと諸伏が離れて、髭が刺さっていた俺の額を撫で擦った。ありがとうママさん…。母親からの助言はほぼ正解と同意義である。特にこの降谷家は父親である零があまり帰ってこないので、俺とママさんが二人で家にいる時間が長い。ママさんが一番俺のことを知っているのは確実である。その証拠に俺のマジ拒絶を初めて見た零が顔を青ざめさせて「僕も気を付けよ…」と震えている。別にちゃんと髭剃ってくれれば大丈夫だよ。
「ご、ごめんな…?嫌だったよな…」
罰の悪そうな顔をした諸伏が、俺の髪を直しながらしょんぼりと眉を下げた。そういやこいつ確か兄貴しかいないんだったな…仕方ない、いつか諸伏が世帯を持った時の、まだ見ぬ娘や息子のために俺が礎となろう…。諸伏の太腿にちょこんと腰を下ろして、そのつり眼を覗き込むように見上げる。
「ゆるす…」
三十代のくせに末っ子気質な諸伏は、大学の頃から何となく放っておけない奴だった。人懐っこいのにどことなく壁を作るのでいやお前心の扉開けろや!!と何度諸伏のメンタルの軌道修正をしたことか。大学卒業して警察学校に入っても人と一線を引くのは変わらなかったけど、それでも伊達班の奴らのおかげで大分肩の力が抜けていたように見受けられた。
幼い頃の体験から考えると他人に対して身構えてしまうのは仕方のない事だとは思うが、こいつも零のように多少生きやすくなっていればいいなぁなんて思う今日この頃である。ふ、と猫目を緩ませた男は、俺のマシュマロの如き頬を指で突っついて堪能しながらくすくすと笑った。
「…うーん…何かチョロくて心配になるなぁ」
ンだとこの野郎!!前言撤回だお前もう十分図々しいわ!!俺はぎゅっと身体を丸めて縮まって、足の裏を諸伏の胸筋に当ててぐっと身体を伸ばして反り返った。危うく腕の中から飛び出しそうになった俺を「うわっ!?」と声を上げて驚きながら支える諸伏。因みにママさんがめちゃくちゃ笑っている。
「んぬぅ!!」
「何!?海老!?」
エビィ!?こちとら二回連続人間じゃコラァ!!全身で遺憾の意を表す俺にわたわたと慌てる諸伏の周りを、ハロさんがぱたぱたと走り回った。うん、かわいいは正義である。
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