沖矢昴は生きている
  彼らの晩餐



バタン、と車のドアを閉めて、赤井秀一はのろのろと走り去る外車を見送った。パンクをしているのに加えて無茶な運転のせいでタイヤのフレームが曲がり、真っ直ぐ走れないようだった。よくもまあ、あの状態で日本警察とチェイスなどやってのけたものだ、と後輩のドライビングテクニックを胸中で賞賛する。

尾行されていないことは重々確認してこの工藤邸に戻ってきた頃には、もうすっかり夜も深くなっていた。散々ジョディとキャメルに問い詰められ、泣かれ、怒られてくたくたになったが、これも彼らに生きていることを黙っていたツケが回ってきたのだと受け入れることにしよう。なんて、赤井は工藤邸の鍵を開けた。今日は泊まると言っていたコナンも、飛行機による時差ボケと戦う優作も、恐らくもう夢の中だろう。扉を閉めて鍵を掛けた赤井の背中に、聞き慣れた声が飛んできた。

「おかえりなさい」

「あぁ」

稀に自分の喉からも出るその声は、赤井にとってはもう慣れ親しんだものだった。緩く微笑んだ男が出迎えたのを確認して、赤井はすぐに玄関の鍵を閉めた。

「怪我は?後部座席に隠れていたんでしょう?」

少し身を屈めて、沖矢が赤井の顔を覗き込む。少し首を傾げるようにして赤井の頭から爪先までを眺めても、露出が少ないため判断が出来なかったらしい。そう尋ねてきた沖矢に、赤井はジャケットを脱ぎながら声を弾ませた。

「あぁ、足元に座っていたからな、何度か頭をぶつけた」

まさかシートベルトもせずにキャメルのドライビングテクニックを堪能する羽目になるとは。ライフルを抱き締めながら座席にしがみついて、それでも車が片輪走行した際には吹っ飛びそうになる身体を脚で突っ張って堪えた。死ぬかと思ったし、ニット帽がなければ強かに頭をぶつけて昏倒していたかもしれない、中々スリリングだった。声を殺して笑うしかなかった。そう語ると沖矢は目を丸くして、それからふ、と手で口元を覆った。

「ふふ、大変でしたね」

「ホー、心配してくれていたものと思っていたんだが」

「それはもちろん」

笑みを隠しきれずに顔を逸らしながら、沖矢は赤井のジャケットを受け取って、ニット帽を外す赤井に中に入るよう促した。リビングの扉が開くと、ふわり、とクリームシチューの香りが広がる。

「先に夕食を…あぁ、もう夜食ですね、その間に追い焚きしますから」

手を洗ってから席に着くように言われて、赤井はシンクへ向かった。クリームシチューと鶏肉のソテーと、バケットとサラダ。凡そ夜食には見えない。先に優作とコナンが食べたらしく鍋の中身は減っているが、それでも優に三人分はありそうだった。

「お前は」

待っていたのかと暗に尋ねると、沖矢はクリームシチューを火に掛けてからサラダの盛り付けを始めた。鶏肉のソテーはそのまま電子レンジ行きだ。振り向いた沖矢が、気にした様子もなく小さく微笑んだ。

「お風呂はもう入りました、食事はまだ」

「そうか」と答えながら、先に食べていればよかったのにと思う。律儀な男である。テーブルに食事の準備が整っていくのを見ながら、沖矢昴のこういう所も吸収していかないといけないかと、赤井は少し辟易とした。自分一人で食事をする分にはこれでもかというほど手を抜くくせに、他人がいると良いところを見せようとするのだ。今日はコナンと優作がいたから余計に。

「いただきます」

二人で手を合わせてから食事を始める。赤井が赤井の姿のままで二人過ごすのは久し振りの事だった。突然の来客や外出に備えて基本的に家の中でも沖矢の姿を借りているから、見た目だけはずっと沖矢昴が二人いる状態が続いていたのだ。勿論変声機は必要のない時には使っていなかったが、沖矢からしてみればそれはそれで違和感もあった。

「なかなか、愉快な人でしたね…安室さん」

どことなく楽しそうな声色の沖矢がそう言った。家に突然上がり込まれてあれほど鋭い(沖矢昴という人間にとっては全く関係のない)推理を並べられたにもかかわらずそう評価できるのかと、赤井は思わず目を丸くしてしまった。

「彼をそんな風に言えるのはお前くらいだろうな」

ふ、と笑った赤井に、沖矢も同じように少し眉尻を下げる。最近「笑い方まで似てきたね」と呆れ顔のコナンに言われる事が増えたのだが、互いが互いに真似をし合って振る舞いを寄せているのだからそれも当然の事だ。寧ろそうでなくては騙せない人間もいるというもの。例えば、件の宅配業者などその最たるものの一人だった。

「初対面の人の家に宅配業者だと偽って上がりこんで他人の服を捲る人を、愉快以外何と言えばいいのやら」

もし万一、自分が本当に事情を知らない人間だったらと思うとぞっとしないな、なんて思いながら沖矢が笑う。帰る間際に訪ねてきた本人すら「こんな怪しい人間を上げてはいけない」と言うくらいなのだから、相当だろう。それ程沖矢昴が赤井秀一の変装であるという確固たる自信と証拠があったのだから、安室透改め降谷零も大概優秀な男らしい。公安部に、それも警察庁に所属して潜入捜査にまで携わっているのだからそれもそうか、とクリームシチューを口に含むと、沖矢の視線の先で赤井が少し腰を浮かせて、沖矢の方に左手を伸ばした。

「秀くん?」

赤井の指先が沖矢の首元に伸びて、触れる前に堪えるように留まった。ややあって、その指が引っ込められる。珍しく殊勝な態度に戸惑う沖矢をよそに、赤井がどことなくばつが悪そうに椅子に座り直した。

「見られたのか」

目を丸くした沖矢が一つ瞬きをする。ここにあるのは今となってはただの傷跡で、痛むことは無い。それでもこんなものに良い思い出があるわけが無いと赤井は唇を引き結んだ。首元をぐるりと一周する傷跡、ちょうど赤井の変声機チョーカーと同じ位置にあたる、首輪のようなそれ。沖矢は淡く微笑んで、服の上からその傷跡に触れた。

「…惜しむものでもないので」

「…すまなかったな」

ふと、食卓に沈黙が降りる。申し訳無さそうに押し黙る赤井に、沖矢は少し考えてから努めて明るく人差し指を立てた。

「じゃあこうしませんか?作戦に出しゃばった僕、彼に疑われた貴方、過失は50:50」

にこ、と目を細めて笑った沖矢に、赤井は面食らってきょとんとする。なんの含みもなくそう言ったらしい沖矢が少しだけ緑の瞳を覗かせた。本来は、安室と対峙するのは沖矢に変装した工藤優作の役目だった。それに伴いスペシャルアドバイザーとして秘密裏に来日した優作だったが、直前で沖矢が名乗り出たのだ。

「その安室という人がもし、変装を疑って顔を剥ごうとしたらどうします?ウイッグを掴まれたら、スピーカー付きのマスクを奪われて、さあ声を出してみろと言われたら?」

流石にそこまで手荒な真似はしないだろうとコナンが口を開きかける。だがその後の言葉が続かなかった。相手は公安、国の為に多少の違法捜査は厭わないと聞く。もし安室がそんな凶行に走って「沖矢昴に変装した一般人の工藤優作」の存在を見咎めたら、と考えると。押し黙ったコナンの前に屈んで、沖矢は張り詰めた雰囲気を和らげた。

「憂いは少ない方がいい…それに」

それに、という沖矢の言葉もまた、飲み込まれてしまったのだが。沖矢には沖矢の魂胆があったのだろう、というのが赤井の所見だった。

「とんだ両成敗もあったものだな…」

ならお言葉に甘えよう、と赤井が微かに表情を綻ばせる。強情な相手に肩を竦めた沖矢も笑って、それから小さく息を吐いた。引っ込んだ優しい笑みの代わりに、赤井と酷く似たグリーンの瞳が顔を出す。

「今回の件ですが…彼に、貴方が生きているという情報を与えたのは何故ですか?」

大体想像はついているのだろう。確認の為に問い掛けてきたらしい沖矢に少し考えを巡らせて、赤井は口に運んだ食事を咀嚼した。沖矢は、安室と直接面識はない。あるのは組織に潜入していた赤井やコナンほか、周囲からの人伝の情報のみである。赤井から見てもバーボン、安室透は優秀な男だった。ごくり、とチキンソテーを嚥下する。

「彼は彼なりに真相に辿り着いたんだ、沖矢昴は実在する人物、赤井秀一は本当に死んでいてこの家に来たのは空振り…それでは納得しないだろう、何度でも来るよ、彼は」

「ホー、そういう人なんですか」

どことなく楽しげにそう相槌を打つ沖矢に、赤井は目を細めた。今回の公安との邂逅は、勿論赤井の潜伏場所を隠すだけが目的ではない。沖矢昴の家に突入することを見計らいわざわざ別の場所に赤井秀一が現れることで、暗に沖矢昴と赤井秀一に関係があることを仄めかす。飽くまで沖矢自体は赤井の変装の姿ではなく、赤井秀一への糸口、である一般人であるということを安室透に知らせるための大掛かりなメッセージだった。恐らくこれ以降、安室は沖矢に赤井の居場所を聞き出そうとすることはあれど、沖矢のハイネックに手を伸ばすことはないだろう。

「中々どうして根性のある男だ、執念、と言った方が良い」

そう言いながら、赤井はまた一口クリームシチューを口に運ぶ。赤井が作るものと殆ど味は変わらない。気持ち牛乳が多いだろうか。今度作る時はこの味に寄せるとしようと赤井は思った。

「これ以上互いに不毛な労力を向け合うべきではない、彼の…俺達の標的はもっと別のものであるべきだと思う」

「…組織」

す、と細められた赤井の瞳と、ゆっくりと開かれた沖矢の眼が、ちょうど真ん中でばちりとぶつかった。同じエメラルドグリーンが互いの纏う剣呑さを視認して、それからふっと緩む。

「俺達も、その為にこうして同じ釜の飯を食っているんだからな」

「そうですね…けど」

ぱく、とシチューのついたバケットを口に含んだ赤井が、沖矢の言葉を待つ。同じようにゆるりと笑った沖矢が、サラダのレタスをフォークに刺した。

「僕は貴方と囲む食卓も、案外好きですよ」






 top
- ナノ -