沖矢昴は生きている
  沖矢昴はお人好し

ぴ、ぴ、と一定の間隔で機械音が聞こえて、ふと、意識が浮上する。ただ、膜が張ったようにどこか遠くに聴こえて、その後はきん、と耳鳴りがした。嫌な感覚に眉間に皺が寄って、沖矢はそのまま薄っすら目を開けた。

明るい部屋だった。正方形の敷き詰められた天井は見慣れないもので、沖矢の自宅とも大学のものとも違う。ベッドに横たわっている自分の状況と、ぼんやり思い出してきたこうなる直前の状況を鑑みるに、恐らく病院。

視線だけで部屋の状況を確認する。部屋の真ん中に沖矢の寝ているベッドがあるようだ。カーテンはレースのものが閉まっていて、反対側に入り口。入口側のベッドサイドに、男が二人。一人はベッドのごく近くの椅子に座っていて、もう一人はその斜め後ろに立っていた。座っている男は、沖矢の手を握って項垂れている。何をしているのだろうか、と少し顔を動かせば、背後に立つサングラスの男がそれに気付いて、顔を伏せたままの男の肩に手を置いた。

「萩」

呼ばれた瞬間、がばっ、と男の頭が上がる。切羽詰まったような必死の形相に、沖矢は見覚えがあった。甘く下がった目尻、セミロングと言っても差し支えない髪、確かその俳優のように整った顔には軟派そうに、けれど親しみやすい笑みが浮かんでいた筈だった。萩原と呼ばれていた爆発物処理班の男。その黒目がちな瞳が、沖矢のまだ微睡んだ目と視線を合わせて、ぐっと、泣くのを堪えるように目尻に力を入れた。ぎゅう、と握られた手に力を込められて、その反動のように沖矢の口から言葉が押し出された。

「…あり、がとう…ざい、ます」

「え」

萩原と、天然パーマの男のサングラス越しの目が丸くなる。耳鳴りが酷くて、自分がどのくらいの大きさの声を出したのか正確に把握できない。気絶する前の状況を思い出して、もしかして鼓膜がやられているのか、と素人ながら分析した。

爆弾は結果的には爆発してしまったものの、一次的に解除されていなければ沖矢は部屋の中で爆死、若しくは蒸し焼きになっていた。それにだいぶ離れてはいたものの、爆発に巻き込まれた沖矢を救出したのは、直接ではなくても萩原だろう。なら、沖矢を怪我で留めたのは他でもない、自分が爆弾を解体したと言っていた萩原の手柄だ。

「はぎ、わらさ…いのちの、おんじんです」

掠れた沖矢の声を聞いた萩原の目が、一瞬きらりと輝いたように見えた。それから信じられない告白を聞いたように徐々に見開かれて、薄い唇がわな、と震える。泣き出す直前のような表情が見えているのは沖矢だけだが、もう一人の男は成り行きを見守るように口を噤んでいるあたり、どのような表情をしているのかはお見通しなのだろう。す、と萩原が思い切ったように息を吸って、それから無理矢理に笑顔を浮かべた。

「…え、あ、あはは…そうかな?いやぁ、照れ…っ、」

努めて明るくそう言っただろう萩原は、震える声で沖矢に応えようとした。けれど、純粋に饒舌に「感謝している」と伝えてくる緑色の瞳に見上げられて、じわりじわりと、染み込むように罪悪感が込み上げる。とうとう萩原の言葉が途切れると、深い溜め息と共に長い髪が萩原の顔を隠した。

「違うよ」

観念したような、懺悔の言葉だった。萩原の後ろの男が黙ったまま腕を組む。沖矢は何も言わずに萩原の言葉を待った。萩原に握られた左手が持ち上げられて、こつん、と額に押し当てられた。

「違う、俺が防護服を着てれば…階段から落ちる時に俺が庇えた、なんの躊躇いもなく、君がこんな怪我することもなかった、なのに…なんでそんなこと、言うんだよ」

苦しげに吐露される言葉を、沖矢は聞いた。恐る恐る、といった様子で上げられた萩原の目線が、申し訳無さそうに沖矢を見た。あの時萩原は、目の前の扉から沖矢が現れなかったら爆弾のすぐ傍らで一服するつもりだった。

「逆だ、君が俺の命の恩人」

警察官のくせに。そう糾弾される覚悟で口を開く。寧ろ責められた方が楽だとすら思った。どうせこの後始末書の山に加えて上司からもこってり絞られる筈だ。良くて減給、悪くて、さてどうなるのか。今更罰が増えたところでもう怖いものなどない。そう腹を括った萩原の顔を、まだどこかぼんやりとして見上げた沖矢は、想像に反して微笑ましげに目を細めた。

「でも、いきてる、ので」

ありがとうございます。沖矢がそう伝えて笑うと、目の前の整った顔が苦々しく歪んだ。唇を噛んで、沖矢の手を握っていない方の指が、くしゃりと柔い髪を掻き乱した。確かに、萩原の言う通りではある。残り十数段ある階段から落ちる時、恐らく彼は軽装では確実に怪我をすると一瞬躊躇った。その隙を一般人の、それも年下の青年に庇われてしまったのだ。立つ瀬が無い、と思った萩原がぐしゃぐしゃ髪を乱すと、肩にずしりと重みが掛かった。サングラスの男、松田だった。

「お前には殴られるよりこういうののが効くよなぁ、萩」

ぐう、と萩原の喉が鳴る。さすが幼馴染、ご明察である。万一に備えて防護服を着ろと頭ごなしに言われるより、防護服を着なかったことで怪我をさせてしまった相手に「命の恩人だ」と感謝されるなんて、不本意にも程がある。ましてや相手は同僚でも何でもなく守るべき対象だったのに。

「いやなんかもう…ほんとスミマセン…俺ちゃんと防護服着るわ…」

「おーおー、そうしろそうしろ」

いい気味だとでも言うように笑う松田につられて、沖矢もくすりと微笑む。頭に巻かれた包帯、首を支えるサポーター。痛々しいな、と眉を寄せた萩原も、穏やかな雰囲気に表情を綻ばせた、時だった。

「おっきやあああ!大丈夫かーっ!?」

ばん、と引き戸を押し退けて突然華奢な男が病室に飛び込んでくる。突然現れたその男に萩原は椅子から転げ落ちそうになったし松田は若干飛び上がる。沖矢は声も出せないほど驚いたようで両目をかっ開いて固まっていた。ぜえぜえと肩で息をしながら、飛び込んできた男は先客も目に入らない様子でつかつかと足を進めて沖矢の枕元に立つ。

「ごめんほんと俺のせいで!あんなこと頼んだから…!」

そこまで鬼気迫る表情で叫び散らした男は、大きい目に次第に滲む涙が増えるたびに言葉を詰まらせた。とうとうぼろ、と大粒の涙が溢れた瞬間、繊細そうな見た目と裏腹に「オーン!!」と獣のような泣き声を上げて両手で顔を覆う。中々に男らしい青年のようだった。呆気にとられる警察官二人を尻目に、沖矢は安心したように目を細めた。

「あさい」

何となく音量調節ができるようになってきた沖矢が、青年の名前を呼ぶ。青年、浅井成実は沖矢の声を聞き逃さないようにか「んぐ」と泣き声を噛み殺して、それからごし、と袖で顔を拭った。ず、と鼻を啜りながら、沖矢の視線をたどる。ベッドサイドのテーブルの上に置かれた、青色のUSBメモリだった。は、と小さく息を吸った浅井に、沖矢は萩原に取られていない方の右手の指を二本立てた。

「ふたはこに、してくれ」

それでチャラだ、とでも言うように平然と笑う沖矢に、浅井はかっと頭に血が上るのを感じた。そんな怪我をしておいてたったの四、五百円で済ますというのか。勿論自宅マンションに爆弾が仕掛けられているなんて知らなかったのだから、遣いを頼んだ浅井の過失はない。けれど、けれどだ。何を持ってくればいいか分からなかったから慌てて買ってきた花束を振りかぶって、それを振り下ろすのを何とか堪える。「ああもう!」と憤慨した浅井は、反対の手に持ったビニール袋を沖矢のベッドにごく軽く放った。

「ワンカートン買ってきたよ!けど院内禁煙だからな!」

さっさと退院しろ!と怒鳴り付けられたのに、沖矢は大層機嫌良さそうに笑った。次の日退院した沖矢の携帯には新しく「萩原研二」という連絡先が登録されていたのだが、それはまた別の話。






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