沖矢昴は生きている
  合わせ鏡の真ん中へ

「待って!」

ぐい、と服の袖を引っ張られて、沖矢は立ち止まった。と同時に自分の耳に届いた呼び止める声に絶句しながらそちらを向く。状況が全く飲み込めないまま足元を見ると、畏まった格好の、眼鏡をかけた少年が沖矢を見上げていた。あぁ、きっと父親か誰かと間違えたんだな、と苦笑して、小さな彼と視線が合うように膝を折った。

「こんにちは、どうしたんだい、坊や」

冷静さを取り戻して尋ねると、少年が爪先立ちをして沖矢の耳に顔を寄せてくる。内緒話の時によく活用される「耳貸して」というやつだ。迷子になっちゃった、とでも言われるのだろうか。そう思いながら勝手に微笑ましさを感じていると、耳元で囁かれたのは思ったよりも厳しい語気の言葉だった。

「まだ出ちゃ駄目って言ったよね、こんなところで何してるの?」

「…うん?」

余りの声の冷たさに、一瞬相手は大人だったかと目を白黒させてしまう。まじまじと少年の顔を眺めると余りにも真剣な顔をしていて、全く心当たりもないのに口篭ってしまった。状況が飲み込めない沖矢の様子を黙って見ていた子供は、その手に持っているビニール袋に目を向ける。白いビニールから透けているのは長方形の箱型。その表面には赤い円があしらわれている。円の中に書かれた英語は、ラッキーストライク。青い大きな瞳がそれを見咎めた瞬間に、沖矢は少年の目尻がきっ、と上がったのを見た。

「言い訳なら家で聞くから!ったく…!」

沖矢の言葉を遮って言うなり、ぐいっと腕を引く少年。しゃがんだ状態で手を引かれて思わず転びそうになるが、何とか中腰で立ち上がり、二、三歩たたらを踏むように前に進む。戸惑う沖矢を気にした様子もなく、すっかりお冠らしい少年はまた沖矢の腕をぐいっと引いた。

「………えっ?」

大学院生はそれなりに忙しい。沖矢はそれほど忙しい研究室にいるわけではないので、沖矢以上に忙しい大学院生はごまんといるのだが、授業にレポート、研究や教授の手伝いなどでスケジュール帳が真っ黒になる日もある。そんな時にタバコは便利だった。タバコ休憩という名目で小休憩が取れるし、身体にニコチンが染み込んでしまうとタバコを吸うと落ち着くようになる。ヘビースモーカーと言うほどではないが、論文で煮詰まったときや、落ち着きたいときに吸うことがあった。

反論する暇すら与えられず、沖矢は少年に引っ張られてつんのめる。足が反射的に出ただけで決して同意して歩き出した訳ではないが、不機嫌極まりない少年はそのまま沖矢を引っ張っていく。一体どういった勘違いから子供に連行される羽目になっているのだろうか。全く心当たりのないまま少年についていく。

まったくぶつぶつ。口の中で文句を捏ね回している子供は、寧ろ好き勝手走り回って親から逸れた子供を保護した母親のようだ。まぁ、相手は子供だし、このままついて行っても身の危険はないだろう。そんな風に考えながら、沖矢は腕を引かれるがまま苦笑した。どうせこの日は買い物以外予定も無かった。





自分の腰程も身長がない子供に引っ張って来られてたどり着いたのは、一般家庭と言うには憚られる大きな屋敷だった。表札の「工藤」という文字を見て、あぁこの少年の名前は工藤というのか、と丸い頭を見下ろした。工藤少年が閉じた鉄の門を開けるのを、そっと手を添えて助ける。親御さんに会って、少年を説得して貰ってから帰ろう。そう解決策を考えて、手を引かれるがままについていった。

工藤少年が玄関の鍵を開けて扉に手を伸ばした時、その指が触れるより先にがちゃ、と扉の開く音がした。一人で出掛けた子供の帰りを肝を冷やして待っていた親。こんな豪邸に住む人間の顔を想像して、やめた。そこから顔を覗かせたのは、沖矢の思いもよらない人物だったからだ。

「ちょうどよかった…坊や、すまないが有希子さ、ん…を…?」

聞こえてきたのは、困り果てたようなテノール。その声の主が、沖矢を認識する。状況を理解しかねて声も出せず、普段は緩く笑っている目を見開いて驚いている沖矢と、目の前の男が全く同じ表情を浮かべた。そう、全く。まるで鏡を見ているかのように、である。

ふわりと跳ねる赤味がかった茶色の髪、あまり外に出ないから日に焼けていない肌、すっと通った鼻筋に、驚きに見開かれた、エメラルドグリーンの瞳。驚くほど似ていて、似ているというよりも同じで、それを改めて認識したら少し乾燥した薄い唇がゆっくりと開いて、沖矢のものと同じ動きをする。

「「……えっ?」」

その瞬間、まるで時が止まったように誰も動かなかった。子供に連行されて来た沖矢昴は扉の中から現れた沖矢昴を凝視しているし、工藤家の扉を開けた沖矢昴は突然訪ねてきた沖矢昴から目が離せなかった。その間に挟まれた少年が、自分の頭の上で見詰め合う瓜ふたつを交互に見遣って、それから思考を放棄したように間抜けな声を上げた。

「……えっ?」

先に正気に戻ったのは家の中から現れた沖矢昴だった。否、沖矢昴という人間は少年に連れて来られた沖矢昴ただ一人のはずなので表現としてはおかしなことになっているのだが、そも双子でもないのにここまで似た人間が二人並ぶのがおかしなことだ。彼は上に着たタートルネックの首元を服の上から僅かに撫でると、「あ」と自分の声色を確認してから口を開いた。

「なぜお前がここに?」

自分の顔から他人の声が聴こえる違和感は計り知れない。どこか他人事のようにそう考えながら、沖矢は正面の男が、自分の顔の下でどんな表情をしているかを想像した。それが正しく今聞こえた低くて深みのある声の主のものであると認識してから、はぁ、と深く息を吐く。魂まで一緒に抜けてしまいそうな溜め息だった。

「…肖像権、というものをご存知ですか?」

秀くん。そう、自分と同じ顔をした男を呼んだ。ふ、と目を細めて悪戯っぽく笑った彼、赤井秀一らしき男は、顔を覗かせていただけの扉を押し開ける。釈然としない様子の沖矢は、けれど外で騒ぐのは得策ではないと判断し、まだ呆気に取られている少年をひょいと抱き上げると誘われるままその敷居を跨いだ。






ぱたん、と後ろ手で扉を閉めて、それから鍵を掛ける。一瞬その玄関の広さに視線を泳がせた沖矢だったが、中に入るよう促した赤井の後に続いた。リビングに通された沖矢は、ざっとその部屋の様子も伺う。それから小脇に抱えた小さな身体をソファに優しく下ろして、勧められるままその隣に腰を下ろした。一瞬カウンターキッチンの向こう側に姿を消した沖矢の姿をしたままの赤井が、テーブルにコップを並べる。麦茶のようだった。

「どうぞ、粗茶ですが」

「これはこれは、お構い無く」

彼の喉から聞こえたのは沖矢の声だった。玄関で戸惑っていた時とは裏腹に愉快そうに笑う沖矢(赤井)に、沖矢(沖矢)も半ば呆れ気味で同じ顔をする。「えっ」「えっ」とソファにしがみつきながらぶるぶる震えている少年の前にも沖矢(赤井)は麦茶を出して、沖矢(沖矢)は努めて優しく微笑んだ。この紛らわしい事態が更に少年を困惑させている事に沖矢(沖矢)は気付いていないし沖矢(赤井)は気付いた上で面白がっている。この空間におとなげ、という概念は存在しない。

「さて…秀くん、工藤くんも、説明してくれますね?」

「あっ、えっ!?」

突然話を振られたからだろうか、ぎょっとする少年に、沖矢の方まで驚いてしまった。そこでやっと目の前の子供の状況に気が付く。恐らく自分が赤井だと思って連れてきた男が生き写しの別人で、それを本人が出迎えてしまったのだろう。双子でもない同じ顔の人間が目の前に二人、しかも沖矢はまだ彼に素性も明かしていないのだ。所謂「SAN値ピンチ」というやつでは。

「工藤くん?大丈夫ですか?」

少年の真ん丸い目を覗き込んで言う。沖矢と赤井を見比べながら、どちらかと言うと赤井に助けを求めるような視線を送っている少年は、自分の目の前の状況に慄きながらやっとのことで口を開いた。

「ぼ、ぼく、あの…工藤じゃ…」

小動物のように震える少年に、赤井が堪え切れずに笑った。一体どこに笑う要素があったのかと白い目を向ける沖矢に、赤井は細めた目を片方だけ開いて、緑の目に喜色を湛えた。

「君、怖がられているようですよ」

同じ顔をした男に言われたくない。そう思いながらも、目の前の子供の様子を見て納得した沖矢は無言で少年から距離を取った。敵意はないとアピールするように小さく両手を上げた沖矢に、更に戸惑う少年。笑いを噛み殺すようにして出来ていない赤井、というおかしな空間に響いたのは、扉を開く音。

「……えっ?」

入ってきたのは、栗色の髪をした女性だった。両手に化粧ポーチを持ってにこにこと入ってきた彼女が、ソファに座っている三人に視線を向けて、それから硬直する。赤井、沖矢、それから赤井、また沖矢、と、同じ顔を往復する様子は、沖矢と同じソファで震えている子供の慄きようを彷彿とさせた。親子だろうか。とにかく、と微笑んだ沖矢は、彼女に向かってにこりと笑った。

「あっ、お邪魔してます」

がしゃん、と彼女の足元に化粧ポーチが落下する。しっかりと口が閉まっていたから中身が散らばることは無かったが、破損はしていないだろうか。両手を口元にやって驚きを隠しもしない女性の目は、きらきらと輝い…輝いてる?

「あらちょっ、ヤダなに!?イケメン影分身!?」

「イケメン影分身…?」

「有希子お姉さん!?」

「有希子さん落ち着いてください」

もしかしたらこの部屋に冷静もしくはまともな人間は一人もいないのかもしれない。そうぼんやり思った沖矢も、きっと大概動揺していた。





「つまり?赤井さんの提案したその変装は架空の人物じゃなくて実在する沖矢さんがモデルで、沖矢さんは赤井さんの協力者で…?」

「僕に許可を取らず、お二人に説明もせず僕の顔を使った…ということですか」

不貞腐れたのを隠さずに江戸川コナンが唇を尖らせる。その視線の先は人好きしそうな顔で笑う沖矢、の顔をした赤井だった。呆れたように笑う沖矢は、それでもどことなく赤井を避難するように刺々しく言った。

「すまないな、これから巻き込む予定だった」

許してくれ、とウインクして笑う赤井。自分の顔を借りてそんなことをされるなんてぞっとするな、なんて腕を組んで、沖矢はソファの背凭れに体重を預けた。

「ホー、事後報告の上に決定事項とは」

自分勝手甚だしいと眉間に皺を寄せる沖矢。少し前にテレビで見た、赤井秀一という男が炎上する車の中から遺体で発見された、とかいう阿呆みたいなニュースは、未だに沖矢の胸に、魚の小骨みたいに引っかかっている。ふ、と少し視線を下げた沖矢を他所に、工藤有希子と名乗った女性が「はい」と手を上げた。

「けどけどぉ、実際昴くん、秀ちゃんと体付きが近いし、顔のパーツは似てるから変装しやすいのよ、それでも雰囲気ががらっと変わるのよねぇ…」

有希子の言い分を聞いて、沖矢と赤井は顔を見合わせた。赤井は「なるほど確かに骨格は似ている」と一つ頷いて、沖矢は「こんな戦闘民族みたいな体格と近いだなんて聞き間違いだろう」と一つ頷いた。お互いの思惑を知りもしない有希子は小首を傾げる。

「私的には結構いいなって感じなんだけど…昴くんイケメンだし」

美人に褒められて悪い気はしない。沖矢はまた一つ頷いた。大体の経緯を聞いて赤井の生存を隠さなければならない理由は分かった。各国の警察組織が長年追っている犯罪組織、通称「黒の組織」は、赤井が嘗て潜入捜査官として入り込んでいた。沖矢と赤井の協力関係はその頃からのもので、勿論沖矢も組織や、そのやり口がどのようなものか嫌というほど知っている。自分の顔や身分を協力者の赤井に貸してやることに、抵抗はない。

「ええ、問題ありません」

「よかったあ!」と破顔する有希子に、部屋の雰囲気がぱぁっと明るくなったような印象を覚える。気心が知れているとはいえ勝手に身分を借りようとしていた赤井も、少なからず緊張していたようで少し肩の力を抜いた。

「昴さん」

くい、と沖矢の服を引っ張ったのは、コナン少年である。表札を見た沖矢に何度も工藤と呼ばれていたのをやっと訂正できて幾分か落ち着いたようだった。大きくて青い瞳が沖矢を見上げている。

「ごめんね昴さん…僕、赤井さんが黙って出かけちゃったのかと思っちゃった…」

「いいんですよ、いかにも彼がしそうなことだ」

「聞き捨てならんな」

子供特有の細い髪を撫で付けると、拗ねたような口振りの大人が腕を組む。実際に一人で煙草を買いに出掛けるよりもひどい単独行動を取っていたくせに何を言っているのか。そんな意味合いも込めてじとりとその顔を見上げれば、仰々しく肩を竦められる。アメリカナイズされた自分の仕草に違和感を覚えつつ、沖矢も一つ溜め息をついて、そう言えば今回の外出の目的でもあった荷物を見遣った。

「赤井さんと同じ煙草なんだね」

その視線を目敏く追ったコナンが言う。それもコナンが沖矢と赤井を間違えた要因である。赤井の沖矢の真似も大したものではあるが、そもそも赤井と沖矢との共通項もそれなりにあるようだ。目を見張った沖矢が、ふ、と笑ってコナンの頭を撫でる左手も、その一つ。

「悪いことは、大体この人から教わったものでね」

そう言うと、沖矢は意味深に片目を瞑る。その仕草が少し前の赤井の仕草とどうしようもなく被って、コナンは「はは、」と乾いた笑みを浮かべた。これは、もしかしたら大船かもしれない、と思った。






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