沖矢昴は生きている
  沖矢昴は生きている


追い詰めた、と。安室透は、否、降谷零は勝利を確信した。追い詰めた。あの憎たらしい、殺しても殺しきれないほど嫌悪しているFBIの、赤井秀一を。

降谷が赤井の死に疑念を抱いたのは、彼が死んだとされてすぐのことだ。そもあの赤井秀一たる男がそう簡単にくたばる筈がないし、くたばられてもたまったものではない。勿論ちゃんと裏付けだってあるし、あぁ、そう、今丁度その根拠を目の前の沖矢昴に提示したところだ。あとは、そう、その柔和そうな大学院生の化けの皮を剥して、組織に突き出してしまえば、チェックメイト。

「そもそも、赤井秀一という人…」

ごほ、と一つ、沖矢昴が咳をする。風邪を引いている演技でこちらを油断させようとしているのか、はたまた変装の粗を隠すため、マスクをつけていることを正当化させようとしているのか定かではないが、どちらにしろ耳障りだと降谷は片眉を上げる。目の前の眼鏡の男がこて、と首を傾げて、安室を見据える。腹の立つ仕草だ。

「僕と似ているんですか?顔とか、声とか」

白々しい言い草にふ、と思わず鼻で笑い飛ばした。そんなの、鏡を見れば一目瞭然だろう。赤井秀一の黒い髪と沖矢昴の色素の薄い髪は似ても似つかないし、ずっと微笑んでいるような彼の目は、射竦めるような狙撃手のものとは言い難い。加えてその声も口調も、冷徹さというよりは穏やかさを感じさせる。が、顔は変装、声は変声機でどうとでもなるのが事実だ。

調べたところによると、隣の家の阿笠博士の発明品に「チョーカー型変声機」なるものがあったという。少し前に何故か出回らなくなったらしく、そんな便利なものの流通を止めるなど、止むを得ない事情があったに違いない。例えば、変声機の存在をこれ以上広めたくなかったから。なんの為に?ある人物が、それを用いて存在しない人間に成りすまし、人知れず生き延びる為だ。そして、その変声機は。そこまで殆ど一息に説明してみせた安室の視線が、沖矢の首筋で、ピタリと止まる。

「そう…大きさは丁度、そのハイネックで」

ふ、と、降谷の口角が震える。王手だ。勝った。相手は言葉通り降谷に喉笛を晒している。赤井秀一の生殺与奪の権利の全てが、降谷零の、安室透の、バーボンの手に掛かっている。じゅわ、と咥内に満ちた唾液を飲み込んで、獲物の喉笛に、噛み付いた。

「隠れるぐらいなんだよ!」

ぐい、と沖矢のハイネックが引き下げられる。興奮で開ききった降谷の瞳孔がその首元を写して、それから驚きに見開かれた。

「…こ、れは…」

ひた、と、その皮膚に触れて、指先に引っかかる凹凸の感覚に、顔を顰めた。そこには変声機はなく、あるのは、首を殆どぐるりと一周してしまうような、長い長い傷跡。紛れもなく引き攣れた皮膚の感触に、思わず降谷の呼吸が止まる。

「不気味でしょう、僕もあまり人に見られたくはありませんので、こうしています」

限りなく淡白に、なんの感慨もないその沖矢昴の声は、その凄惨な傷跡をまるで他人事のように感じているようだった。例えるなら日焼けの跡だとか、閉じたピアスの穴だとか、ただ他人に指摘されるのが面倒だから隠している。その位の無関心さが傷跡の非日常さよりもよほど不気味だった。

赤井秀一の死に際とされる映像に、そんな形の傷を負うような記録はあっただろうか。使用された凶器はキール、水無玲奈の拳銃だったし、それだって降谷の推理からすれば空砲や血糊で演出されたものだ。おかしい。何かが決定的におかしい。先程まで手の中にあった勝利が零れ落ちていく。否、いや、この傷跡だって特殊メイクでなんとかなる範囲かもしれない。けれど、なんのために?ああ否、首でないとすれば、そのマスクの内側に、変声機が。

思った途端、する、と、今度は降谷が口を開く前に不織布のマスクが外される。メイクの継ぎ目など見当たらない。だとしたら、被るタイプのマスクか。薄い唇がにこり、と柔く微笑む。その顔に赤井秀一を重ねて、照らし合わせて、混乱した。降谷を血眼で探す獲物によく似た緑色の瞳が、此方を縫いとめる様に見据える。先程まで円やかに笑っていた彼は、なるほどその猛禽類のような眼差しを隠していたのだろう。確かにそのほうがずっと優しく見える。

ハイネックから離れて引っ込みかけた降谷の手を、沖矢昴の手が追い掛けた。咄嗟に動いたらしい左手だ。する、と手首に指が絡み付いて、得体の知れない悪寒が身体を駆け抜けたが、降谷の気など知ったことかと言う風に手が引かれる。辿り着いたのは、沖矢昴の左頬だった。

「僕のこの、すばる、という名前ですが」

徐に話し出した"沖矢昴"に全神経を向けながら、降谷の脳は高速で回転していた。左手の中の、人の肌の感触。小指で探った顎下にマスクの継ぎ目は見つからない。どころか、随分とゆっくりと脈打つ動脈がある。声と唇の動きにずれはない。滑らかな言葉の流れからして口の中に変声機が仕込まれている気配はない。紛れもなく目の前の"沖矢昴"が言葉を発している。では、それでは。ありとあらゆる可能性を手繰り寄せては捨て、手繰り寄せては捨てる。では、この男は一体、何者なのか。

「日に卯と書く漢字が名前に使えるようになったのが一九九〇年で、僕は当時十四歳でした」

歌うように話す沖矢昴に対して、降谷は先程までの強烈な不快感を感じなくなっていた。一九九〇年当時十四歳ということは、調べたとおり彼は降谷の二つ年下だ。その割には随分と落ち着いているとは思うが、大学院生というくらいなのだから相当頭が切れるのだろう。今ようやっと最後の可能性を掴んで、それが答えだと理解した。

「そうでしょう…沖矢、さん…あなたの戸籍には、いくつかおかしな点がある」

それでもまだ線にならない点のままの謎を繋ぐべく、胸に詰まっていた息を吐き出す。さながら星座の様に一つ一つ繋いで、目の前の沖矢昴という人間の輪郭をかたどっていく。鎮火した降谷の様子を見て、沖矢昴はまたにこりと目を細めた。

「そうでしょうね、僕が戸籍を作って頂いたのはちょうどその歳で…ああ、もしかしたら僕が、日本にいる昴さんの中で一番年上なのかもしれませんね」

「戸籍が、無かったんですか」

あっけらかんと言ってのける沖矢昴に、思わず食い気味に問い掛けてしまう。「ええ」と何でもないことのように肯定した彼に、降谷は目眩がする思いだった。戸籍を取得した場合は、調べれば「後に戸籍を取得した」という形跡が残るはずだ。けれど、赤井秀一のことを探すにあたり読んだ沖矢昴の記録にはそれが無かった。ある日突然霧の中から出てきたような書類。公安の捜査を以てしても掴めない実体に、だからこそこれが偽造されたもので、沖矢昴が存在しない人間だという結論に至ったというのに。

「君の言うおかしなところというのは、それでは?」

微笑む彼にその名前をつけたのは誰か、まだ若いだろうに、両親はどこにいるのか、今までどうやって生きてきたのか、降谷が一目置く賢い少年と関わりを持ったのはいつからか、これまでの人生、彼に何があったのか。戸籍を取得した形跡が存在しないのではなく、消されているとしたら。それは、そんなのは無茶だ。けれどそんな無茶を可能にする部署を、降谷零は誰よりもよく知っている。一体沖矢昴とは何なのか。じわり、と思考の沼に足を取られていく。けれど。

「そんなおかしな僕でも…いえ、だからこそ、でしょうか」

微笑んだ彼の瞼の隙間。緑色が寂しげに揺れたような気がした。

「自分の存在が無かったことにされるのは、少し、寂しいですね」

「っ、あの、沖矢さん」

息を呑んだ降谷が口を開いた。が、それを遮るように携帯電話が震える。く、と唇を噛んだ降谷に、沖矢が目を伏せて笑った。手のひらを上に向けて、携帯電話を指し示す。

「携帯、鳴っていますよ」

そのまま、電話から意識を逸らすようにマカデミー賞の流れるテレビを振り向く。興味がないと行動で示すようだが、どちらかといえば降谷が気を遣わないようにとそうしているようにも見える。この家の家主が出ているからと頑なに消そうとしなかった番組の内容が気になるのも事実なのだろう。そう推察しながら、降谷は電話を取った。取って、その向こうで慌てふためく同僚の報告を聞いて、探していた男が電話口で言葉を幾つか。そして。

「…撤収してください」

噛み潰すように言って、通話を終えた。降谷の様子を見ていたのか、沖矢がテレビから視線を逸す。その瞳が僅か、瞼の隙間から自分を捉えたのを確認した降谷は、携帯をポケットに入れた。

「…すみません、何か間違いだったようで…帰りますね」

胸に広がる苦々しさを無視して、降谷は無理矢理に笑顔を作った。「そうですか」とどこか呑気に感じる返事をした沖矢に苦笑して、ふと浮かんだ疑問を口にした。

「どうして僕のような怪しい人間を家に入れたりしたんです?」

振り返った沖矢の顔はどこか虚を突かれたようだった。意外そうに開かれた瞳はやはり降谷の探していた男と同じ色をしているのに。じ、と真っ直ぐ見据えた降谷の視線を受けた沖矢昴は、居心地悪そうに目線を泳がせて、それから言いづらそうに口を開いた。言いづらそう、というよりは少し恥ずかしそうだった。

「あぁ…貴方が初めましてじゃないと仰っていたので、存じ上げませんと言うのも失礼かと思って…すみません」

「は、はぁ…?駄目ですよそんな…僕が言うのも何ですけど…」

防犯意識の欠片もない返事だ。この男の中身が赤井秀一だったのなら不審人物の一人や二人家に上げたところで降谷の知ったこっちゃないが、沖矢昴はあくまで一般人だ。身体はそれなりに引き締まっているようだがひん剥いた訳でもなし、そのうちどの程度が使える筋肉で出来ているかなど分からない。「気を付けます」とはにかんだ男は、調べた通りの年よりも幾分か幼く見えて、拍子抜けしてしまった。





ひた、とテーブルの縁をなぞる。玄関、廊下、応接間。降谷零が足を踏み入れた場所、彼が触れられる範囲には盗聴器や隠しカメラの類は無いようだった。変声機の宛が外れたこと、沖矢昴の顔が変装やメイクでは無かったことが余程衝撃的だったのだろう。ともあれ、別の場所で赤井秀一が姿を表したことで今夜ここにいた"沖矢昴"は全く別の存在てあると印象づける事ができた。そう沖矢が確信したところで、電子レンジが鳴く。

カウンターを回って、電子レンジの扉を開ける。ターンテーブルに乗ったマグカップの持ち手に人差し指と中指を突っ込んで、二つを一緒くたに持った。中身はココアだ。冷蔵庫にしまっておいた、紙パックのものを注いで温めただけ。

階段を登った先にある部屋の扉をノックする。中から呻き声のような形容し難い返事が聞こえて、沖矢はドアノブを掴んだ。扉の向こうには、ぐったりと机に突っ伏す小さな少年と、椅子からずり落ちそうな中年というには若々しい男。二人合わせて死屍累々といった様相に、沖矢の穏やかな微笑みの口の端が引き攣った。

「…あの、大丈夫ですか?」

形式的に分かりきった問い掛けをしながら、沖矢は二人の前にそれぞれココアの入ったマグカップを置いた。普段はコーヒー党の二人にわざわざココアを渡したのは嫌がらせではなく、その高速回転した頭脳の燃料になるだろうという配慮だ。無言で紅葉のような手が大振りのマグカップに伸びて、のそりと上体を起こした子供、江戸川コナンが溜め息と一緒に表情を緩ませる。

「…つっ…かれた…あま…」

「ありがとう、沖矢くん…」

はは、と半笑いを浮かべて、それでも作戦が恙無く終わったことに安堵しているようだ。ぐったりとしたコナンよりは男、工藤優作の方が幾分か余力があるが、彼も一つ伸びをして肩を回した。

世界的犯罪組織、通称黒の組織の幹部に殺害されたとされているFBI捜査官、赤井秀一。これは秘密裏に死から逃れた彼の生存を隠すための作戦だった。組織の探り屋、バーボンと名乗っていた人物は、二つの仮面を引き剥がした下に本当の「存在しない」顔を持っていた。それが、先程まで沖矢が対峙していた降谷零。そう、対峙していたのは沖矢昴、である。

沖矢昴は、赤井秀一が世を忍ぶ仮の姿で、その為に作られた架空の人物だと思われていたようだ。確かに背格好や瞳の色が赤井秀一ととても似ていて、妙に厚着で、突然この工藤邸に居着き始めた、戸籍に怪しい箇所のある男など疑って然るべきだとは思うが、家に乗り込んでくるとは思わなかった。沖矢は、まさかこれほどとは、と事前に聞いていた降谷の執念に恐れ入った。ふむ、と顎に触れて考え込むと、ほぼ机にめり込んでいた作戦の立役者ががばっと勢い良く起き上がった。

「つうか昴さん!アドリブするなら言っといてくれよ…!」

アドリブ、とは勿論打ち合わせに無かった沖矢の言動の数々のことだろう。髪で隠れた沖矢の耳につけられた超小型のインカムから指示を送っていたコナンだったが、その指示は途中から通らなくなった。よもや故障かと焦っていたところ、淀み無く言葉を紡いで降谷と会話をする沖矢を見てすぐに分かった。「いやあんた聞こえてんだろ!」と喚き散らす小声を聞きながら咳払いをして笑いそうになったのを誤魔化す沖矢を見て、コナンは匙も通信機も投げたくなった。対象的に、どこか感心したように笑う優作は少し考えてから一つ頷いてみせる。

「いや、却って良かったよ、なかなか堂々としていた」

「ありがとうございます、優作先生…勝手をして悪かったね、坊や」

申し訳なさそうに眉を下げる沖矢に、コナンは押し黙る。そうしていれば赤井秀一には似ていない、良い隠れ蓑だというのに。あのね、と沖矢の言い分が続く。

「彼とはなぜか、自分の言葉で話してみたくて」

「それは、」

どういうことか、それを尋ねようとしたコナンの言葉を切るように沖矢の携帯が鳴った。少し間が空いて、沖矢が尻のポケットから携帯電話を取り出す。通話ボタンをタップしてからスピーカーに切り替えた。

「僕です」

沖矢がそうやって電話を受ける相手は決まっている。深みのある低い声が、同じように自分の名前をぼかして言った。

「俺だ、少し様子を見て帰ると二人に伝えてくれ」

「…だそうです」

ぷつり、と電話が切れる。どうやらこちらの返答は求めていないらしかった。追手である公安の車は軒並み走行不能と言っても過言ではない被害状況だが、万が一別働隊などがいた場合はまた鬼ごっこになる可能性が無きにしもあらず、といったところだろう。今回の作戦を指揮していたらしい降谷が撤退と言ったのでその線は薄そうだが、念には念を、である。

勝手知ったる、といった様子の赤井の振る舞いに、コナンは珍しい生き物でも見たような気持ちになりながらココア入りのマグカップを傾ける。赤井と沖矢の関係性は、赤井とコナン、というよりは赤井とFBIの仲間との間のものに近い気がした。沖矢は赤井が組織に潜っていた頃からの協力者、とは聞いているものの、彼がどのように赤井の任務遂行に貢献していたのかはコナンの知ったところではない。

「君の事も是非小説のネタにしたいものだね」

どことなく楽しそうな声色の優作がそう言うのを、コナンは半笑いで聞いた。それに伴い根掘り葉掘り彼のことを聞きたい、と自分の父の目が好奇心に輝いているのを見て、よもやこの中で一番無邪気なのはこの男なのでは、と頬が引き攣る。そんな優作の視線を大して気にした様子もない沖矢は、おっとりと笑いながら頬に手を当てた。

「おや、光栄ですけど…僕はただの大学院生ですよ?」

嘘つけ。食えない笑みを浮かべた沖矢に、コナンは心の中で吐き捨てた。今回出動した公安警察の面々、安室透改め降谷零には心から労いの言葉を送りたい。架空の人物などではない。沖矢昴は生きている。そう、こんなにものらりくらりと、実に楽しそうに生きているのである。








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