沖矢昴は生きている
  拾った星の欠片は


「いらっしゃいませ」

ドアベルが鳴ると、自然と笑顔になる。安室透という人間はそういう風にプログラムされているかのように振る舞う。本来の自分とはかけ離れている、と言っても過言ではない動きに降谷自身違和感を感じないでもないが、それはそれ、これはこれと割り切っている部分もある。ともあれ、そうしているうちは降谷零は安室透なのだ。

安室が振り返った先にいたのは、このポアロの上にある毛利探偵事務所の一人娘、毛利蘭。その友人である鈴木園子令嬢だった。そして常連と言えるこの二人の後ろには、安室がこの店にアルバイトとして雇用されてから初めて訪れた、その男。

「おやぁ?珍しいお客様ですね」

安室透の完璧な笑みに、少しだけ不穏な口調を乗せてしまった。自覚して、少し反省する。人目のある場所で垣間見せるものではなかった。落ち着くために一往復だけ深呼吸をする安室に、沖矢は白々しくも少しだけ目尻を下げる。その表情を見ながら、どちらだ、とその面の皮の下を推測した。いま安室の目の前にいる沖矢昴は、赤井秀一か、それとも本当に沖矢か。見た目だけでは顔はもちろん、本人も意外としっかりとしたつくりの身体をしている理系の大学院生の中身が本物かまがい物か、推し量るのは困難だった。

「おや、今日はこちらにご出勤なんですね」

言外にあの夜のことを引き合いに出す沖矢に、ひくりと口の端が歪む予兆を感じて急いで取り繕った。それは公安のことを言っているのか、組織のことを言っているのか、はたまた家に上がる口実として利用した宅配業のことを言っているのか。いずれにせよ良い性格をしていやがるなといった返しだった。

「…えぇまぁ…宅配業はもうしていませんけどね」

「そうですか、お疲れ様です」

園子と蘭の手前他のアルバイトのことにして誤魔化すが、沖矢はそれすらも聞き流すように突っぱねた。素っ気なさすら感じる対応だというのに、傍らで安室と沖矢を観察している園子はご満悦のようだ。沖矢も安室ほど目を引くつくりはしていないが、整っている部類に入る。イケメン、に目がない彼女にとっては今の会話の内容には興味が無かったらしい。

珍しい組み合わせの三人を窓際の席に案内する。最近は喫煙家に対する風当たりが強く、ポアロでも終日禁煙が徹底されていた。その旨を一応沖矢に伝えると「大丈夫ですよ」と曖昧に微笑まれる。どころか女子高生二人に元々煙草を吸うのかと問い質されていたので、沖矢昴はその辺り気を使っているらしい。当然と言われれば当然だが、中身があのライ、もとい赤井秀一の場合もある人物だと思うと殊勝な態度にも思える。

「昴さんって、お兄ちゃんみたいですね」

アイスティー、カフェオレ、ブレンドコーヒーをそれぞれ提供してから少し。ふと聞こえてきた蘭の声に、安室は思わず振り返った。

「ふふ、おじさんと言われなくてよかったです」

少し照れたようにコーヒーのカップを傾けた沖矢は、その声の弾み具合からして嬉しそうに微笑んでいた。FBIの捜査官、或いはその協力者といえどあんなふうに誰かから親しみを持たれて嫌な気はしないのだろう、と安室はそのまま次のオーダーに取り掛かった。

「そんなまさか!私達からしたら丁度お兄ちゃんくらいの年ですよね?」

沖矢昴は二十七歳の大学院生。赤井の作った設定にしては若作りだとは思っていたが、それが沖矢本来の肩書きだとしたら納得も行く。沖矢は決して童顔とは言い難いし、その振る舞いからしてももう少し年上と言われても納得は行く。だが稀に一瞬、安室はその沖矢のほんの隙間に年相応かそれ以下の表情を垣間見る瞬間があった。例えば以前彼の居候先に押し掛けた苦い思い出のある夜である。安室を部屋に招いた理由を聞いたときには「なんて不用心な」と思ったが、よくよく考えてみればそれも隙間と取れる。

「実際に僕の妹もお二人と同じくらいの年齢ですので…少し離れた兄妹、ということにしたら計算が合いそうですね」

かちゃ。安室の手元でケーキの皿がぶつかって音を立てた。

「えっ、昴さん、妹さんいるんですか?」

「ええ、僕も入れて三人兄弟なんですよ、ひとり暮らしを始めてからは会えていませんが…」

そうにこりと笑った沖矢の言葉に、安室は一瞬視線を何も無い空間に泳がせる。羽田秀吉と、世良真純。よもやその存在を示唆する発言が沖矢の口からまろび出るとは。嘘に信憑性を持たせるには多少の真実を混ぜろとは言うものの、よもや耳をそばだてている安室に対しての挑発か、なんて深読みをしてしまう。

あれの中身が赤井秀一だというのならその可能性も無きにしもあらずといったところだが、正真正銘沖矢昴ならば、否、それにしても彼の奥にいる赤井秀一を仄めかすには十分では。発言の意図こそ読めないが、安室への撒き餌だと考えると辻褄が合ってしまうのも事実である。ならば、と丁度盛り付けの終わったケーキをトレイにのせて、安室は人好きのする笑みのままそのテーブルについた。

「へえ、ご兄弟がいらっしゃるんですか」

新メニューのケーキを三名それぞれの前に並べる。わぁ、と声を上げる園子と蘭と、僅かに沖矢が目尻を下げる。それもそうだろう、今回の新作「半熟ケーキ」は安室企画の自信作である。ケーキに添えられた小さなフォークを手に取った沖矢は、会話に割り込んできた安室の問い掛けに気にした風もなく言葉を返した。

「…ええ、特に末の妹とは似ているのではないかと」

そう言われて、安室は頭の中に赤井秀一、羽田秀吉、世良真純の顔を並べる。確かに癖毛や目元など、ひと目で血が繋がっていると分かる似通った特徴がいくつかあった。だが、それは飽くまで赤井秀一の話である。

「気になるなぁ、写真とかお持ちでないんですか?」

「そうですねぇ、アルバムなんかはこちらに持ってきていませんし…残念ながら」

そのまま世間話の体で追及を重ねた安室に、沖矢は自然にそう答えた。今は工藤邸に居候先しているうえに、彼の前の住居は火災の被害に遭ったと聞いている。沖矢の背後に赤井がいると聞いた時は日頃の行いの悪さのせいだと大いに納得してしまったが、まぁそれはここでは割愛するとして。安室はトレイを小脇に抱え、反対の手を腰に当てた。

「そうなんですか…本当に、いるんですか?」

「何が、仰りたいんです?」

薄っすらと開いた沖矢の緑色の瞳が、安室をじっと見据える。暫しの不自然な沈黙に、二人で会話をしていた蘭と園子の視線が彼らに集まった。安室は、沖矢昴には兄妹が「本当に、いるんですか?」十四歳から以前の経歴も無いのに、両親も、祖父母も、その他沖矢昴の名前から綴られる家系図の線が一本も無いのに、貴方は、沖矢昴という人間は「本当に、いるんですか?」と、言外に問い質した。その含みが沖矢に伝わるのかは大した問題ではなかったが「こちらはまだお前を見ているからな」と、その意図が伝われば良い。全てを読み解いたのか否か、沖矢が安室の腹の底まで見透かすような笑みを浮かべたので、安室も同じように笑い返した。

「…あぁいえ、写真が一枚も無いだなんて気になって…お兄さん離れですか?」

この場ではこれ以上、深追いしても無駄そうだ。安室は肩の力を抜いたが、もう一つ追求を重ねなかったのはそろそろ女子高生からの視線が痛かった、というのもあった。含みのある舌戦は、含みがありすぎて背景を知らない彼女らからしてみれば簡単なのに難解な会話で、ほぼ沖矢と面識のない安室が彼の兄妹の存在を疑っている、とかいうおかしな状況である。もしこの続きをしたいのならまた宅配業者よろしく彼の根城にお邪魔すれば良いだろう。その魂胆を察したのか、どこか剣呑な瞳をしていた沖矢もまたすっと目を細めて笑った。

「…ええ、寂しいですが、そういう年頃ですから仕方ありませんよね」

「もったいないですね、私だったら昴さんがお兄ちゃんならブラコンになっちゃうかも!」

「ブラコン…ですか」

「ぶらこん…」

一瞬面食らった様子の沖矢は、園子の台詞をそのまま拙く繰り返した。三十路間近の男二人からしてみれば耳慣れない言葉である。まぁ理知的ではある彼の態度が身内にも適用されるのであれば、子供達からの人気も高いらしい高校生視点では無い話ではない、と、安室は分析する。けれど園子の明け透けな物言いにはつい目を丸くしてしまった。

「ブラコンって…でも、本当にまた仲良く出来ると良いですね」

「…はい、ありがとうございます」

蘭の温かい言葉にふわりと笑みを返す沖矢は、ようやっと少しだけ視線をケーキに向けた。ポアロの電子機器のアクシデントと安室の試行錯誤によって生まれた半熟ケーキは、大した抵抗もなくフォークを受け入れた。あぁ、そんなふうにこの男の周到さも眼光も、ふわふわとしていれば良かった。そうしたらそのハイネックも面の皮も、ついでに彼が身に纏う謎すらも剥いでやるのに。なんて、不毛な事を考えながら、安室は「ごゆっくりどうぞ」と一つ微笑んで踵を返した。

当然の話だが、沖矢昴は安室透に忌避されている。これまでのことを考えれば言うまでもなく「そりゃそう」なのだが、沖矢から安室に対してはその限りではない。ふんわりとしたケーキを口に含んだ沖矢はその柔らかさと甘さに舌鼓を打ちつつ、"沖矢昴"の料理の腕などまだまだだな、と苦笑した。






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