砂糖をシュガーでコーティング

記憶


「!、目が覚めたか!?」

寧ろその言葉が俺を起こしたのだと思う。心地よい声に急かされながらゆっくりと目を開く。そうして最初に視界に入ったのは、俺のベッドサイドに悲痛な面持ちで座っていた男だった。「今先生呼ぶからな!」と立ち上がりかけた彼の手をそっと握って、目を丸くした彼の顔を見上げながら。

「好きです、結婚してください」

俺の、文字通り必死のプロポーズ。その被害者の男はぽかん、と一瞬呆気に取られた。一瞬だけ「は」と浅く息を吸った彼の瞳にじわ、と涙が浮かんだように見える。きれいだな、なんて呑気に眺めていた俺は、彼がそっと手を口元に当てたのを、嬉しさからだと思っていたのだが。

「手遅れだったか…」

よよよ、と当然の如く泣き真似をしながら俺の人生を悲観しだしたから、だったのには横たわりながら肩を落としてしまった。「えぇ、」と落胆しながら、俺はその男の顔を見上げる。

顔がいい。とにかく顔がいい。見れば見るほど整ったその顔から目が離せなかった。とりあえず早く泣き真似をやめてまたその綺麗な顔を見せてほしい。そう思いながら、ふとさっきの彼の言葉を反芻する。手遅れって何。

「えっ…そんないかにもな感じに座ってたのに、もしかして俺の恋人じゃないの…?じゃあ貴方…は…?」

誰、だっけ。そう思った瞬間に、ぞっと全身を悪寒が駆け抜ける。思い出せない。目の前の彼が誰なのか、なぜ俺は病院で目を覚ましたのか、そも俺が誰なのか。自分の名前から、どういう人物だったか、家族のことまで、全ての記憶を、思い出そうとすると思考に靄がかかった様に頭が働かない。けど、今俺が目を覚したここが病院だということは分かるし、俺が寝ているのはベッドだということも分かる。すっぽり抜けているのは、一般常識以外の、むしろそっちのほうが大事だとは思うんだが、やはり俺の個人情報の方だった。

「…おい、本当に大丈夫か?」

唐突に言葉を切り上げた俺のことが流石に心配になったのか、その人がナースコールを押しながら問い掛けてくる。さっきから粗雑なところのなかった声が更に気遣わしげな雰囲気を纏って、アクアマリン色の瞳が不安そうに俺を案じた。ので、今度はその目をまっすぐ見詰めて、大丈夫なことを伝えようと口を開いた。

「すみません、記憶吹っ飛んだっぽいんですけど一目惚れしました、好きです、名前教えてもらえますか、あと結婚してください」

目を真ん丸く見開いた彼が、明らかに呆気にとられた表情を見せた。ぽかんと開いた口から八重歯が覗いている。それからふ、とその口角が上がって、彼が広い肩を少し丸めて笑った。ツボに入ってしまったらしく、どれだけ俺のプロポーズが面白かったのか、少しだけ頬が赤く染まっている。

「お、おま、ふふ…」

かわいい。恐らく初めて見るだろう彼の表情に、素直にそんな感想が湧いた。ずくずくと熟した桃が崩れるように、心臓がおかしな挙動をしている。じわりと広がる暖かさは愛おしさと、恐らく懐かしさだ。やっぱり、きっとそうだ。絶対に俺は、彼のことが好きだった。

笑っている彼のことを、俺も表情を緩ませて眺めている。そんな状況の中病室に飛び込んできた医師によって、俺は階段から落ちてしこたま頭を打ったことによる記憶障害、と診断されたのだった。





どうやら俺は長い階段の一番上を踏み外して一番下まで転落したとのこと。転がっている間に何度か頭を打ち付けていたと目撃者兼通報者であるキバナは語ったし、「咄嗟に助けられなくて悪かった」と謝罪をされた。いやいやとんでもないことだ。目の前で突然階段ダイナミック降りしだした奴がいたら俺だって動ける気がしない。キバナが謝る必要なんて一つもなかった。

「それで?今の気持ちは?」

「もっかい記憶失いたい…いや、お前が失ってくんね?」

「だよな〜」

ふふ、と頬杖をついて笑うキバナ。その顔を見ることができずに、俺は俯いて頭を抱えた。

記憶の混濁は思ったよりもすぐに治った。二日ほど何も思い出せない日が続いて、三日目の朝目が覚めた時に全てを思い出していた。三日目の朝とは、つまり今日だ。その間キバナは時間は違えど毎日見舞いに来てくれた。ということは?当然の如く毎日プロポーズしたということですありがとうございました。

思い出してみれば分かる。友達だった。めちゃくちゃクッソこの上なく友達だった。マジで普通に驚くほど友達だったっていうか、三十秒前までキバナに土下座してたレベルで友達だった。

「いいよ別に、混乱してたんだろ」

へら、と笑ったキバナは、そんな俺のしつこい告白を全て笑って受け流してくれた。「記憶が戻ったらな」とか「考えとく」とか「まず怪我治しなよ」とか、全然まともに取り合ってくれなかったのは、そもそも恋人じゃなかったからだ。それに気付かなかった俺も俺だけど。この世の終わりみたいな気持ちになって思わず頭を抱える。

「まさか…まさかこんな…」

「ま、でもこれに懲りたら足元には気を付けなよ」

尚も笑っているキバナは、肩を竦めて棚に置いてあるフルーツバスケットを振り返った。モモンの実と小振りのナイフがその手にあるので、どうやら切ってくれるらしい。会社の同僚が持ってきてくれた見舞いの品だ。そういう甲斐甲斐しいところで勘違いしてしまったんだろうな、と思いながら彼の背中に声を掛ける。

「そうだな…なぁ、キバナ」

「んー?」

「…付き合ってください」

一瞬手を止めたキバナが、こちらを振り返る。驚きに見開かれた目が俺の真剣な顔をじっと見つめて、困惑した表情のまま口角だけが笑みの形を作った。

「オマエ…入院、長引きそうだな」

「頭の方は万全だけどな!…情けない告白しちゃったから、やり直したい」

そう伝えて、キバナの瞳をまっすぐ見つめる。少し困ったように視線を彷徨わせたキバナが、「はぁ…」と深い溜め息をついたあと、きのみとナイフから離れた大きな手で顔の下半分を覆った。

「……やっぱり手遅れだったか…」

そうだよ、手遅れも手遅れ。ずっと昔から、俺はキバナのことが大好きだ。そうやってふざけたキバナの顔も耳も真っ赤で、こいつも手遅れっぽいから一緒に入院した方がいいのかもしれない。



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