脳内辞典



【甘え】
1



「おれは、いやだなあ」

にこり、笑いながら答えたナマエを、エースがじろりと睨み付けた。凍り付いた空気にスペード海賊団の仲間たちは気配を殺しながらその部屋を後にする。残ったのはスペード海賊団の船長であるエースと、古参の戦闘員であるナマエの二人だった。

「どんな文句があるんだよ」

目尻を釣り上げたままエースが問い詰める。いつもはエースの決定に「しかたないなあ」と間延びした喋り方で賛同するその男にしては珍しい返答である。うーん、と微笑んだまま斜め上に視線をずらしたナマエは、エースと対象的にへらりと笑って答える。

「おれの船長は、エース一人だからさあ」

彼らが話し合っているのは、白ひげ海賊団についての話だった。頑なだったエースがとうとう白ひげ海賊団への加入を決めて、それに賛同したスペード海賊団の船員たち。だがその中でただ一人、ナマエだけが異を唱えたのだ。

いつもエースの提案に真っ先に賛同する男が、全く同じ声のトーンで嫌だと言ったのだから、皆呆気に取られていた。エースも思わず聞き間違いかと思った程で、ナマエだけがいつもと変わらず柔和な笑みを浮かべていた。

エースがはあ、と溜め息を吐いて腕を組む。その上になった手の人差し指が苛々として腕を叩いているのを、ナマエの目が捉えた。

「そのおれが白ひげ海賊団に加わるって言ってるんだろ」

「それじゃあおれはどうなるんだ?」

ナマエの指先が彼自身の顔を指差す。何を言っているんだ、とエースの表情に険しさが増したとて、それを宥める人間はいない。だから、と語気を強めて、エースはナマエの手と同じように彼の顔に人差し指を向けた。

「お前らも一緒に入るんだよ」

「だから、おれの船長は…」

「ああもう、しつけェな」

埒が明かない。堂々巡りに嫌気が差したエースは、ナマエの言葉を遮るように声を上げた。あとに続く言葉はもう分かっている。「おれの船長はエースただ一人」だろう。信者の崇拝のような、過保護な親のような、ともかくその言い方。いつもはなんとも思わないし、むしろ当然の事だ、くらいには思っているが、今のナマエのやけに頑なな態度がエースの神経を逆撫でした。いいか、と前置きをして、少しだけ語気を強めた。

「お前はおれについてくればいいんだよ、今まで通りだろ、その代わり、海賊王にするのは白ひげだ、分かったな?ナマエ」

辛うじて笑顔を保っていたナマエの表情が、その瞬間に一瞬だけ曇る。暫し目を伏せて気落ちした様子で、しかしそれもすぐに隠れた。

「わかった」

ぽつりと、噛み締めるような声だった。

「わかったよ、エース」

もう一度自分の中に落とし込むように繰り返したナマエに、ならいい、と言いつつもエースは違和感を見止めていた。いつもはエースに全くと言っていいほど歯向かわないナマエが、あそこまで食い下がるとは。エースも何故かと聞かないし、ナマエもその理由を言わない。それはいつもの事だ。どうせ大した理由もないだろうし、聞く必要もない。その証拠にナマエの態度はいつも通りだ。へらりと笑った彼が立ち上がって踵を返す。

「じゃあおれ、甲板の掃除行くから」

ひらひら、と後ろ手に手を降って、ナマエが部屋を出る。このモビー・ディック号では、エース以外の船員には既に掃除や洗濯や見張り何かの当番が割り振られている。エースも一船員として白ひげ海賊団に加入するなら、その当番に名前を連ねる事になるのだろう。

そんな風に呑気にこれからに思いを馳せるエースの手から、一つ、もう二度と手に入れようのないものが溢れて落ちたのだが、それに気が付いた人間は一人しかいなかった。




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