marry me


ソファに横並びのまま二度ほど唇を重ねて、気が付いたら上半身が寄り添うように近付いている。井尾谷の腕が首のタオルから俺のバスローブの胸元を掴んで、それからぐい、と力任せに体重を掛けてきた。されるがまま倒れた俺の項が、ソファの端の肘掛に当たる。俺にしなだれ掛かる井尾谷が、ぐっと上体を起こして手荒に目元を拭った。

「ええんか、竹原、そんな気無いんじゃろ」

そんな気、とは。この状況でそれを聞き返すほど俺も鈍くはない。酔った勢いとか、雰囲気に流されてとか、俺達は後々そんな言い訳でどうにか出来るような一夜の過ちを、これから故意に犯そうとしているのだ。

それに、少し鼻声なその言葉を拒絶したらうっすら色づいた目尻がまた涙で濡れることがあるかもしれないと分かっていて、誰がその手を振り払えるだろうか。俺の胸に体重を掛ける腕も、今はもう言う程強い力が掛かっている訳でもない。

ちらり、と流しっぱなしにしていたテレビの画面を見ると、いつの間にか黒い画面に白い英語が流れていた。エンドロールだ。結局欠片も頭に入らなかった。ギリギリ届く位置のリモコンを手にとって、ぶつん、と電源ボタンを押す。

「井尾谷は、そんな気あるんだろ」

顔を見上げながらそう言うと、井尾谷が怯むように口角を下げた。図星といった表情だ。思わずふ、と笑みを浮かべると、睨みつけるように顔が顰められた。剣呑な目付きこそしているが、揺れる瞳は明らかに焦れている。俺の問いへの答えか、こくり、と微かに頷いた井尾谷がじっと俺を見下ろした。

「…止めろ、言われても、もう止められんぞ」

と、掠れた声が伺いを立ててくる。この期に及んで何を言うのだろう。ゆったりと瞬きをして、井尾谷を見詰める。少し俯いて、俺の腹あたりを見下ろす井尾谷の脳天に向かってぽつり、と言った。

「もう、って何だよ」

そういえば、式に披露宴、二次会三次会と、酒をしこたま飲んできたな、と思った。この後に起こるだろう事柄を予想して、己の逸物の調子を案じながら、ふい、と顔を隠すように横を向いた井尾谷の側頭部に向かって話し掛ける。

「俺の失恋につけ込むって、最初からこういうことだったんじゃないの」

垂れた黒髪の隙間から、真っ赤に染まった耳が覗いていて、ああ、と思う。どうやらこれも図星だ。全く、寝て帰るだけだと言ってこのホテルに入ったのに。とはいえまさか今日突然、有り体に言えば最後までとはいかないはずだ。受け手側は前もっての準備が必要だというのは、実際男同士の経験のない俺ですらなんとなく知っている。顔を隠す井尾谷の髪を、そっと耳に掛けた。潤んだ目が、カーテンのような髪の隙間で光っている。

「…分かっとんなら、話は早いワ」

と、ぐ、と上体を傾けてきた井尾谷がそっと俺のバスローブの帯の結び目に手を掛ける。適当に蝶々結びにした塊はするりと解けて、力なく垂れ下がった。あぁ、本当はこんなことをするつもりは、欠片もなかったのに。だなんて今口にしてもなんの説得力もないだろうな。俺のバスローブを左右に開こうとする手をすっかり酔いの覚めた頭でぼうっと見ていると、ふいにその動作が躊躇うように止まった。

「最後まで」

ぽつり、と呟く。一つ瞬きをして俯いた脳天を見遣ると、覚悟を決めるように息を吐いた井尾谷が顔を上げた。

「するけど、ええじゃろ」

「…うん?」

じ、と俺の目を見据えてくるその男が言った意味を、少し分かりかねた。暫しの沈黙が降りて井尾谷の言葉が俺の腑に落ちた時、俺は頭を抱えたくなった。ええじゃろ、じゃない。良い訳がない。今俺がそれを了承すれば絶対にどちらかが痛い目を見ることになる。

「…いや、駄目だから」

「アァ?」

「駄目」

俺のバスローブの前を掴む井尾谷の両手に、静止するように俺も両手を添える。ちら、とそれを一瞥した彼は、片眉を釣り上げてムッとした様子で聞き返した。俺が納得する理由でないと許さない、とでも言うような表情の井尾谷を諭すように口を開く。

「最後までって、どうやってするか分かってるのか?」

「当たり前じゃろ」

「今急にはい突っ込みますって言って出来ると思う?」

井尾谷が押し黙る。今の状況の無理矢理さが伝わったようなら何よりだ。元々男の体は、入れるようにできていないのだから。

「俺はしたことないから無理だし、井尾谷だって…詳しいことは知らないけど…多分、尻なんて、こんなことに使ったことないだろ、急にしたら誰だって痛いんじゃないのか」

な?と宥めるように付け加える。いくら井尾谷が良いと言っても、無体を強いる気はないし、かと言って俺は痛いのも嫌だ。お互いの温かさを感じるだけならわざわざ無理して痛い思いをする必要はないだろう。はぁ、と井尾谷が溜め息をついて、が、と左手で前髪を掻き揚げた。

「黙ってワシに任しときゃええ」

「…あぁ、うん、そう…ですか…」

そしてこちらを睨みつけてきた男に、俺は尻の死を覚悟した。どうやらこの上なくやる気らしい。頭を抱えたくなる状況に真顔になりつつ、もうここまで来たら何もせずに終われないとかいう引っ込みのつかない気持ちも分からんでもない。けれど、井尾谷が俺に男役を譲るとは思えないからきっと、そういう事だ。まさかの休みが明日だけで足りなくなりそうになるという事態に、俺は表情に出すのも忘れてさっと顔を青くした。けれど、井尾谷は表情を和らげて、いたずらっぽい笑顔に少しだけ眉間に皺を寄せた。

「なあんにも、痛いことなんてありゃせん」

「…本当かよ」

大丈夫。静かに言った井尾谷におや、と思う。する、と太腿をバスローブの生地の上から撫でられて、思わず身体が強張った。そんなところ、久しく自分以外の誰にも触れられていない、なんて言うのも残念な話だけど。切れ長の目がまろやかに細められて、ごくり、と井尾谷の喉が動いた。

ぐ、とソファを腕で押して上体を起こした井尾谷の片手が、俺の腹辺りに移動する。俺のバスローブの紐にその指が掛かって、いやにゆっくりと解いた。合わせ目が割り開かれて俺の身体が曝け出されると、ごくり、と井尾谷の喉が鳴る。それから、俺の下腹辺りに井尾谷の手が近付くのをはらはらとしながら眺めていた。きゅ、と口を一文字に結んだ井尾谷が、俺のボクサーパンツのゴムに指を掛ける。

「…井尾谷」

怖気づいてつい名前を呼ぶ。と、真剣な視線を俺の股間に向けたまま、井尾谷が返事をした。

「ん?」

「…なんでもない」

そんなに見られても困るだろう、俺の息子も。けれど本人は至って真剣だ。何とも言えない気持ちになりながら、その額辺りを見詰めて考えた。

この際、ここから性的なことに飛躍するのはもういいとしてだ。井尾谷は俺のことが好きなのだという。はっきりと明言されたわけでは無いが、井尾谷の言った事から察するに、そうなのだろう。俺は、井尾谷と同じ気持ちではない。あぁでも、報われない片思いをしているという点では同じとも言えるかもしれないけれど。

井尾谷も、俺が待宮の事をずっと好きでいるということは分かっているだろう。じゃなきゃ笑顔で三次会を後にした俺を追いかけて来ないだろうし、俺の傷に付け入る旨の発言なんてしない。とはいえそれを、今のこの状況を、甘んじて受け入れた俺も俺だ。

そんなことを考えながら先程から動きのない井尾谷を眺めている。俺の下着のゴム部分に触れたまま、真ん中の膨らみをじ、と見つめている井尾谷の表情を見ると、どことなく思い詰めているように見えた。項垂れている逸物と井尾谷の頭を見比べて、俺まで不安になった。

「…やめとく?」

「いや、やめん、けど」

歯切れの悪い言い方をしながら、井尾谷が下着の上から恐る恐る指の外側で俺の股間を優しく撫で上げる。ぞわ、と寒気にも似たもどかしい感触が尾骨を掠めて「ん、」と思わず声が零れた。ぴた、と硬直した井尾谷の頬がじわ、と赤く染まったのを見て苦笑する。と、まだ芯のないそこを、井尾谷が恐る恐るといった様子でふに、と二本の指で挟むように押した。

「こら、遊ぶな」

ぺち、と思わず額を叩くと「いて」と反応が返ってくる。不満げに見下してきた井尾谷が、眉間に皺を寄せて押し殺すように言った。

「…ワシで勃たんっちゅうんなら、目ェ瞑っとったらええ」

「はい?」

咄嗟に、おかしな返事が漏れてしまう。それは勘違いというものだ。これから情事になるというのは分かっているものの、相手は同性の友人。現実味の無さに加え身体に回る酒。今突然目を覚まして「全部夢でした」と言われたって「ああ、そうか」で納得できそうな状況だ。まだ全然実感が湧いていないのだから、俺の逸物も準備不足なのは仕方がない。どことなく不満げ、否、もしかしたら不安げに口をひん曲げた井尾谷の隙を突く訳ではないが、俺も彼の股座に手を伸ばした。

「勃つも何も…まだ何もしてないだろ、お前だって勃っ…」

「ひア、ッ…!?」

てない、だろ。その言葉は、指先に触れた硬くて熱いものへの驚きと、井尾谷の上擦った声で途切れた。目を白黒させてしまう俺の鎖骨辺りを見詰めながら、居た堪れない様子で口を引き結んだその顔が、更にぶわ、と赤く染まった。

「え、なんでもう勃ってんの…?」

素朴な疑問、のような俺の声色に、井尾谷が傷付いたように顔を歪ませる。のを見ながら、頭の外側くらいの所で漠然とした危機感を持った。これは、泣くかもしれない。泣かせるかもしれない。けれど井尾谷は涙を滲ませる事もなく、歯を剥いて殆ど怒鳴り散らすように声を荒げた。

「っんでもクソもあるか!それを今更言わせるんかお前は…!」

ぼふ、と俺の顔の真横に拳が振り落とされた。呆けていたからか予備動作が全然見えず、頭の横が凹んだ気配にさっと血の気が引く。流石に呉南高校の卒業生なだけある、というのはひとにぎりの真面目な生徒に申し訳ないが。

今更言わせるのか、なんて随分な言い方だ。自分だって決定的な言葉を避けているのに。やっぱり好き、なんだろうな、俺のことが。こんな、どうしようもない、報われない恋を延々引き摺って泣いて、挙げ句の果て自分に向けられた好意を利用するような、情けない俺のことが。

「…ちょっと、待って」

ぎり、と音がするほど噛み締められた井尾谷の歯を見て、胸の奥に引っ掛かりを感じる。悼ましいような、悲しいような、哀れみだろうか。それとは別にもう一つ、羨望のような、そうだ、俺は羨ましいのだ。う、と息を詰まらせた井尾谷が、何を勘違いしたのか声を荒げた。

「待たん!する!」

「そうじゃなくて」

そうじゃない。やめるつもりなど、否、やめてやるつもりなどない。羨ましい。傷付いても良いから好きな相手の心の隙に入り込もうと、行動ができた井尾谷が。玉砕も、諦めることも出来ずに惨めに泣いた俺とは比べ物にならない。同じじゃない。同じ気持ちなんかじゃ、ない。俺より勇気があって、狡くて、優しいこの男を、俺と同じようにぐちゃぐちゃに踏み躙りたいと思うし、幸せにしてやりたいとも思うのだ。

「っ、じゃあ、何じゃア!ここまで好き勝手させといて今更いけんっちゅうんなら、最初からこんなとこ…」

俺の否定に更に語気を強めた井尾谷の、唇にそっと右手の親指を這わせる。ひゅ、と息を吸って硬直したその頬を残りの指で包んで、揺れた瞳の奥をじっと見据えて言った。

「ベッド行こう、な?」

宥めるように言った言葉が揺れた。ふる、と手の中で井尾谷が身を震わせて、戸惑った目が細められる。唇に触れた指をそのまま撫でるように横に滑らせると、ごくり、と見せ付けるように喉仏が上下した。







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