marry me


身体に纏わり付く泡とシャワーでおさらばして、タオルで乱雑に水気を拭ってまた同じパンツを履いた。出先だからしょうがないと自分を納得させつつ、せっかく風呂に入ったのに、と微妙な気持ちになってしまう。

かと言ってノーパンでいるのは、どうにも防御力が薄くて気が休まらない。そういえば、勝負パンツという言葉があるが、名前の割には攻撃力のみに特化しているような気がしてならない。戦いは攻守のバランスが要ではないのか。とかいう阿呆な話は置いといて。

全身を拭ったタオルを首に掛けて、そのままの格好で浴室から洗面所に出る。がしがし、と髪を掻き乱して拭きながら、風呂場で倒れなくて良かったな、と息をついた。酔っ払いの入浴ほど危険なことはない。がっ、と前髪を上げて鏡を見ると、どことなく浮かない顔の男が上気した顔でこちらを見ていた。まだ、ドライヤーを掛けるには暑い。ちらり、と鏡越しに後ろの棚を見ると、バスローブのようなものが二つ置いてあった。井尾谷の分もまだここにあるらしい。ふーん、と感心しながら持ち上げると、その下にベビードールやコスプレ衣装を借りたい場合の説明書が置いてあったので、俺はそっと見なかったことにした。

がちゃ、とベッドのある部屋の扉を開ける。この部屋の名前は寝室でいいのだろうか、かと言ってそこはかとなく安価なラブホテルでベッドのない部屋があるのかと言われれば一概にそうとは言えない。1Kの賃貸とかでも下手したらキッチンと風呂トイレと寝室、といった現象が起こるのだから、やはり寝室と呼ぶのにふさわしいのだろうか。

先程俺がグダグダと過ごしていた部屋で、井尾谷がパンツ一丁のままテレビを眺めていた。ぼうっとした横顔は明らかにその内容を理解している風ではなく、ただ変わっていく画面を視界に入れている、といった様子だ。が、俺がドアを開けた音でこちらに気付いたのか、随分と丸くなっていた背筋がぐ、と伸びた。

「早かったのう」

「いつもこんなもんだよ」

時計を見て確かに、と思う。ゆっくり湯に浸かったにしては中々早いかもしれない。ちらり、とテレビに視線を向ける。俺がつけていった映画がそのまま流れているらしい。出ている女優が同じだ。恐らく恋人だろう男と幸せそうに街を練り歩いている。

「寒くないの」

テレビから視線を外して、恐らく湯冷めしているだろう井尾谷にそう尋ねた。ちら、とこちらを一瞥した井尾谷は、おう、とぶっきらぼうに返事をした。

「こっからスーツに戻るのも何じゃろ」

「じゃあ、これ」

バスローブを井尾谷が座るソファに置く。薄い素材ではないようだし、これなら多少寒さもしのげるだろう。俺もバサッと自分の分を広げて軽く羽織る。風邪でも引いたらたまったものではない。目を丸くした井尾谷も、すまん、と言いながらバスローブに手を伸ばした。

腰の紐を結びながら、テーブルの上に置きっぱなしのビールを手に取る。長く放っておいたからか、垂れた水で下に丸が描かれている。口に運ぶと、なんとも言えないぬるい液体が喉を通っていった。どことなく不快な気持ちになりながら井尾谷の横、テレビがよく見えるソファに腰をおろす。映画は、練り歩いている街での買い食いのターンだ。

「竹原は」

不意に、井尾谷が口を開く。そこで俺は初めて二人の間に沈黙が落ちていたことに気付いた。ぼんやりと見ていた映画がなければ、居心地の悪い無音空間が広がっていたことだろう。返事の代わりにテレビから井尾谷に視線をずらすと、いつの間にかこちらを見ていたらしい彼と視線がぶつかった。

「その…いつから、好きなん」

バツが悪そうに口角を下げた井尾谷が、手持ち無沙汰のあまりかもうほとんど乾ききった髪をタオルで拭う。わしわし、と片手で掻き乱された髪は、そういえばスーツを着ていたときは後ろで結ばれていたな、とぼんやりと思った。

「…あぁ、その話か」

「気になるじゃろ、話したないんならええけど」

と言いつつ、労るような表情の井尾谷の目の奥にはどことなく探るような意味合いが見える。まあ、そりゃこんなところまで連れてきてしまったのだし、もう俺が待宮のことを好いているのはバレているのだから、思い出話がてら話すのもいい。今日は、そういう日だろう。自分の気持ちに整理をつける意味でも、有意義なことだ。視線を前に戻して、動く画面をぼんやりと見詰めながら言う。

「多分、中学の頃から…ありがちな話だろ」

待宮と、佳奈。中学の頃から付き合っていた二人と、その二人と仲が良かった俺。ハッピーセットのようについて回っていた俺は、一番近くで二人を見ていた。今では結婚式でブーケを直接手渡しでもらうほどの仲だ。ふ、と苦笑して、目を細めて続けた。

「それから、高校、大学も…我ながら執念深くて嫌になる」

「待て、ちょっとええか」

俺の話を遮るように、井尾谷が声を震わせる。白黒の画面を、ああ、この映画はこんなシーンがあったのか、と思いながら眺めていた、その目を井尾谷に向けた。顔面蒼白、そんな言葉がふさわしいその表情に、続きを促すように一つ頷く。わな、と震えた薄い唇が、俺を詰問するように動いた。

「中学て、お前、したらずっと」

本末転倒。そんな質問に、俺は思わず口元だけで笑った。違うと言ってくれ。井尾谷の、そんな縋るような表情を見ながら、俺はビールを少しだけ煽って、テーブルの上にコン、と音を立てて置いた。

「…何だ、全部分かってたのかと思ってた」

思ったよりも落胆した声が出た、と思う。俺が井尾谷にがっかりするのはお門違いなんだけれど。好きな奴に尽くすのに何も恥ずかしい事なんてないと、俺の目を見て言ったくらいだから、俺がいつから待宮を好きでいたのかなんてすっかりお見通しだと思っていたのに。見開かれた井尾谷の目尻に、ぐ、と力が入る。

「恨んどるか、ワシのこと」

「なんで」

なんで。一言だけで、その意図を尋ねる。す、と空気を吸い込んだ井尾谷が、一瞬だけ戸惑う様子を見せた。少しだけ泳いだ目が俺の鎖骨辺りに落ちている。

「高三の時、ミヤとカナちゃんの仲取り持つ言うて、お前に…カナちゃん呼び出すん頼んだじゃろ」

「ああ、あれ」

ふ、と目を伏せて、身体を正面に戻して座り直す。背中を背もたれに投げ出して、壁の時計を見る。もう深夜だ。真横で井尾谷が頭を抱えた気配がした。

待宮が高三のとき、部活に集中するからと言って佳奈に別れを告げたあの出来事は、今ではいい酒の肴だ。今日だって何度か話題に上がった話でもあるし、そのたびに功労者として俺と井尾谷の名前が上がるのもお決まりではある。それに関して俺は全く後悔もしていないし、自分がしたことに間違いなど一つもなかったと、胸を張れる。確かにあのとき待宮と佳奈の仲を取り持たなければ今日二人が結婚に至ることは無かったかもしれないが、かと言って、俺が付け入る隙なんて、端からどこにも存在しないだろう。

「あの時、ワシが余計なことせんかったら、お前」

「関係ないだろ」

井尾谷の言葉を遮るように被せた。押し黙った井尾谷に、更にもう一言続ける。

「お前が何もしなかったら、俺がやってただけの話だよ」

「ハ、この期に及んでワシまで気遣うたぁ、泣かせるのう」

井尾谷が、自嘲めいた笑い声を上げる。ず、と鼻を啜る音がしたので、泣いているのかと思って隣を見ると、井尾谷は俯いて肩を落としていた。膝に両肘をついて、くしゃ、とその骨張った手が伸びた黒髪を握る。

「…ええやつ過ぎて気味悪いんじゃ、ドアホ」

泣いていると、そう思ったのはどうやら正解だったらしい。ぱたぱた、と白いバスローブに雫が落ちる音がしたが、それには気付かないふりをして、一気にビールの残りを飲み下す。馬鹿を言うものじゃない。俺を、過大評価し過ぎだ。俺は被害者意識の塊みたいな男で、誰かの好意をこうやって逆手にとって、自分のために利用する男だ。一人になりたくない、それだけのために、俺を放っておけなかった人間をここまで引っ張ってくるような、そんな。

「…本当にいいやつだったら、お前をこんな場所に連れてきたりしないだろ」

声を潜めてそう言う。映画もどうやらそろそろ佳境で、今までの展開をほとんど見ていなかったから何のシーンなのかもわからない。ああでも、見たことがあるからもしかして有名なシーンなのだろうか。ふと目を閉じる。温まった身体にアルコールが回っているのをぼんやりと感じた。井尾谷がく、と喉の奥で笑って顔を上げるのが視界の端に見える。

「そうかも、しれんワ」

ぽつりと、消え入りそうな声がそう呟く。俺も少しだけ自嘲気味に口角を上げた、時だった。がつ、と首が引っ張られる。首ではなく、肩に掛かったタオルが思い切り引かれたのに気付くのに、少し時間が掛かった。真横に思いっきりバランスを崩して、驚いて声を上げそうになった唇を、ぐっと押さえられる。

見開いた目に、固く閉じられた井尾谷の目の、濡れた睫毛が触れそうな距離で震えているのが見えた。殆どぶつかるような強さで衝突した唇に声もなくただただ戸惑っていると、少しだけ離れたそこが絞り出すような声を上げた。

「…ほいでワシも、こすい男じゃ」

竹原。縋るように呼ばれた自分の名前に、俺は思わずそれを飲み込むように井尾谷の唇に噛み付き返した。いいだろ、今は、その狡さにお互い助けられているようなものだ。こんな時に近くに体温があることにどれだけ心を救われるか、俺は知ってしまったのだから。









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