企画


あの日から、船長はそういった目的でフラフラと出歩かなくなった。おれとしては余計な仕事が増えなくて万々歳である。もう連れ込み宿の濡れ場に特攻して不毛なバトルを始める必要もない、平和な日常が戻ってきたのだ。だというのに、なあ。

「…お前が好きだ、名前」

冗談でしょう、なんて笑えない。微かな望みに賭けるような、縋るようなそんな目を、この人がするなんて。

前の島を出発してから、久し振りの浮上だ。ふと何故か、どうしても焼き魚が食いたくなって、おれは釣り竿とバケツ持参で甲板に向かっていた。コックに丸投げすれば適当に調理して貰えるだろうと、意気揚々として、それこそ鼻歌なんて歌いながら。

「おっ、名前、マグロ釣れよマグロ!」

横の通路から歩いてきたシャチに、そう声を掛けられる。どうやら武器庫から引き上げてきたらしい。マグロか、小振りの物なら多少格闘すれば釣り上げられるかもしれないが、誤ってエレファントホンマグロでもかかってしまった時は一貫の終わりだ。こんな軟な釣り竿なんて、エレファントホンマグロのあの巨体の前ではひとたまりもないだろう。もしそうなったら海にでも飛び込んでおれ自らマグロと戦おう。そんなことを考えながら、シャチの横を通り過ぎながらひらひらと手を振った。

「釣ってもシャチの分はないんで安心してくださーい」

「シャチさんだろペーぺーが!」

「イッテェ!うわ!パワハラだ!」

ゴッ、と後ろから強めに頭を殴られる。思わず振り返ると、シャチ、さんは弾薬入りの箱を掲げていた。ちくしょう。銃は撃つもんだろ、使い方間違ってんぞ。そう噛み付く暇もなく、恐らくずっしり重いはずの箱を片手で持ったまま、シャチはくくく、と喉の奥で笑った。

「パワハラじゃなくて教育的指導っつーんだよ」

「何処がだよ!暴力はんたい!」

「だったら先輩は敬いたまえ!じゃ、おれ忙しいから!」

「おれも忙しいっつーの!」

捨て台詞のように残して踵を返したシャチの背中に、怒鳴り散らすように言い返した。が、意に介した様子もなく、そのままシャチはひらひらと後ろ手を振って歩いていく。どんなに大量だろうが絶対あいつには魚を分けないと決めて、大股でまた甲板に足を向けた、のだが。

物置の横を通過する瞬間、ガチャ、とそのドアが開いた。ぶつかる、と思ったので身体を避けて歩いたのだが、その中からずいっと長い腕が伸びてきて、力任せに物置に引きずり込まれた。え、という暇もなく、思わぬ横からの力につんのめって、手から釣り竿とバケツが転がり落ちる。廊下に釣具を残して、扉はおれを中に引きずり込んでから何事も無かったかのように閉まった。それからどん、と背中が壁に当たって、痛くはないが変な声が出た。

「オ゛ッ!?わっ、なに!?なにこわい!」

「騒ぐな」

「、む」

とん、と唇を指で抑えられる。何だ、と視線を上げると、おれを押さえつけている男の顔が、丸窓から差し込む日光でぼんやりと見えた。

「せん、ちょう」

船長だ。じと、とこちらを真顔で見つめて、引きずり込んだときに引っ張ったおれの腕をぐい、と壁に押し付ける。なんの気なしにそういうことをしているのだろうが、流石に実力差があり過ぎる。いてぇな、と自分の腕の骨を案じながらも、果敢に船長を見上げるおれ。男としての矜持ってやつだ。

「 おれ…魚釣りに行くところだったんですけど」

「魚の前にテメェが捕まってちゃ世話ねェな」

「…もう、何なんですか…」

こわい。もしやこの間の無礼を今責められるのでは、と戦々恐々していると、キャプテンが表情のない顔のまま、ぐ、と息を呑んだのがわかった。更におれの腕に力が加わる。やばい、これは、折れる。ぞぞ、と背筋に薄ら寒さを感じて、思わず情けない声が溢れた。

「せん、ちょ…」

確かに、おれも言い過ぎた。船長だって年上だし、目上の人だ。おれが蹴り倒せるくらいの相手しか誘ってなかったのだから、合意のない行為もないだろう。危険の無い、十分安全で合理的な火遊びだ。おれが勝手にそれを妨害していたんだから、無駄な口出しをして船長を不快にさせてしまったのかもしれない。にしても、腕を折られるのは少々過激な仕返しなのでは。ひ、と思わず喉が引き攣ったところで、船長が無表情のまま口を開いた。

「…お前が好きだ、名前」

「ひっ、わ、わかった、わかりましたから腕を…はい?」

驚きすぎて、声がひっくり返った。殺すとかバラすとか言われるのかと思って身構えていたら、何だか予想外の言葉が聞こえた気がする。

「ずっと前から好きだ…男連れ込むのもやめた、お前が好きだと、これで信じられるか」

船長の目が僅かに細められる。空いた口が塞がらないとはこの事だ。聞こえたまま、確認の意を込めてもう一度繰り返す。

「おまえが、すき?」

なにが?誰が?目の前の顔をポカンと見上げたら、船長がごくり、と固唾を呑んだ。お前って、おれか。そりゃそうだ、ここにはおれしかいない。引き結ばれた船長の唇が、微かに震えている。どうしてこんな事になってんだ。なんて、おれは船長のその言葉を信じられず、自分の目が泳いでいるのを自覚しながらそっと口を開いた。

「それ、おれに言ってます?」

思わず腹の底からの本音が出る。あれだけおれに、行きずりの男との乳繰り合いの場面を見せつけておいて。いやまぁ確かに全部乳繰り合いレベルの段階で阻止はしていたけれど。でも、おれに言うのか、好きだなんて、よく言えたもんだ。ずっと前から好きだ?じゃあ何で、その辺の男と遊んだりなんてしたんだ。ぐるぐると回る散らかった考えを纏めることができずに押し黙っていると、眉を寄せたキャプテンがそっとおれの腕を捕まえる力を弱めた。

「……冗談だ」

「えっ」

それから船長はゆっくり俯いて、ふとおれの腕を開放する。止まっていた血がどっと流れ出したのを感じながら船長を見ると、そっと帽子の鍔を引き下げた所だった。口許が歪に笑っている。

「まさか、信じてねェだろ」

「…せんちょう」

くく、と船長が喉の奥で笑った。それから顔を上げないまま、冗談めいた口調で言う。

「お前とも遊んでやろうかと思ったんだが…つれねェな」

嘘つけ。そう言いたくなるほど、その声は震えていた。

「…冗談ならもっと冗談っぽく言ってください」

おれがそう言うと、船長が僅かに後退る。そうだ、そんな弱々しい声で、心の奥まで曝け出すような目で、縋るように腕を捕まれて、分からないおれではない。遊びを邪魔されてあんなに嬉しそうだったのも、おれをおちょくっていただけじゃないのだとしたら?それならなんとまあ全部、辻褄が合ってしまう。船長の頭に手を伸ばして、ぱっと帽子を奪い取る。おい、と抵抗しようとした船長の顔を見ると、動いたからか丁度ほろりと涙が溢れた所だった。

「…泣いてるし」

「っ、かえせ」

「アッ殺さないで」

ぐん、と伸びてきた長い腕に殺意を感じて、船長の頭に帽子を戻す。片手で涙を拭いながら、もう片方の手で帽子を直す船長の手をそっと取る。もう諦めたのか、顔を隠すのを止めた船長の顔を、下から覗き混んだ。

「でも、ほんとに信じちゃいますよ、そんな言い方されたら」

どうなんです?じ、と船長の目を見つめて言った。涙袋が少し赤くなっている。ほんとに泣いてんだこの人。たぶん、冗談とか嘘の類ではないのだろう。おれのことが好きで、その気持ちを信じてもらえなくて泣いてんだ。そっと濡れた睫毛を上げた船長と、ばち、と音がするほど視線がかち合う。ぶわ、とその頬に朱色が差したのを見て、多分が確信に変わった。ふい、と視線を外される。

「……好きだ、本気で」

急に恥ずかしがりだしたその人を可愛いと思ってしまった自分に気が付いて、おれはぐいっと身を乗り出して視線の先にまた割り込んだ。もう、駄目でしょう、本当のことは目を見て言ってくれないと。涙のせいかゆらゆらと揺れる船長の目が、何だかとても綺麗に見えた。









サンダル様、リクエストありがとうございました!






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