拍手log 両手に二本ずつ刃の付いた鉤爪は、今まで何回付け替えて来たのだろう。何せすぐに錆び付いてしまうのだ、そこに付着した鉄分と肉の脂で。
後ろめたさはなかった。最初は生きる為だった。地主だった親は自分を友達だと言っていた同い年の初恋の少女に殺された。その少女の父親はこの間リコールされたこの町の町長だった。収賄がばれて町民からの支持を失ったのを苦に首を吊った夫婦の娘だった。
もともと治安は最悪だった。スラム街が町の半分を占拠していて、窃盗暴力麻薬、挙げ句に殺人など一通りの犯罪が横行する最悪の町だ。そんな所でユリアドルは産まれた。埋まれて何年間か平和に生きて、それから少しして心が死んだ。

「ごめんねユリアドルわたししにたくないからおかねがひつようなのごめんねだからころしてユリアドルのおうちからおかねもらってくねごめんね」

だからこの七歳の少女の発想ではない世迷い言も、平然と実行に移せる環境だったのだ。寝込みを教われ、左右のベッドで血みどろになった両親と自分の枕元で事切れたペットの犬を見付けたユリアドルはその少女を呆然と見上げた。恐怖で引き吊る喉からはふはふと荒い息が漏れるが悲鳴をあげる事が出来なかった。多分少女が胸の上辺りに跨がっているのも一つの原因だとは思うが、そんなものよりも小さな手で頼りなく構えられた赤黒い液体で微かに漏れた月明かりを反射させる出刃包丁の方が圧倒的に呼吸を妨げていた。
人を殺す、そんな罪悪感が彼女を襲っているのだろう。これから先海軍に追われるかもとか、生きるために仕方がないとか、ユリアドルの人生を終わりにしてしまうとか。もう既に三つ命を奪っているその手は、自分が仕出かした事の罪深さを理解して恐怖に打ち震えていた。
過呼吸のようにはぁはぁと荒い息を繰り返すユリアドルの鼻先に震える刃物が突き付けられ、思わず目を見開いてその刃先を凝視する。顔をしかめたくなるような錆びた鉄の臭いが鼻に纏わりついて、脳に更なる危険信号を送る。
早く逃げろ。

「ごめんね、ユリアドル」

その言葉を聞いてからのユリアドルの行動は速かった。
人は横からの力に弱いという。そんな知識は小さな少年の頭には入っている訳がなかったのだが、いかんせん相手も少女である。生への執着に突き動かされた少年は、包丁の柄目掛けて素早く手を伸ばし、少女の手から刃物を叩き落とそうとした。突然のユリアドルの行動にぎゃあ、と切羽詰まった悲鳴をあげた少女の手中からそれが落ちる事はなかったが、隙を作る事は出来たので体を横に捻って少女を自分の体の上から振り落とす位の事が出来た。ベッドから凄い物音を上げて床に叩き付けられた少女の手からからんからん、と薄い鉄が逃げる音と嗚咽混じりの呻き声がユリアドルの耳に届いた。
ユリアドルは素早く身を起こして寝台から飛び降りる。この少年を突き動かしているのは理性ではなかった。生きたいと切実に願い働く本能だ。少女の手から遠く離れた出刃包丁を一瞬で視界にとらえ、柄か刃かも確認せずに素早く手に取る。幸運にも手に伝わってきたのは木で出来た柄の感触だったが、それに安心している暇等はない。打ち所が悪くなかったらしい少女がふらふらと立ち上がるところだったからだ。

「っ、う…」

自分を殺すと言った人間が、まだ生きている。そう認識したユリアドルの脳裏には、もうこの少女への恋心を上回る殺意が巣食っていた。
はぁはぁ、と自分の息遣いと心臓の音、血液が物凄い速度で流れる音が耳の中で暴れている。今まで町の危険な部分と隣り合わせで生きてきたが、死を覚悟した事は無かった。でもいざとなった時、今のここまでの生への執着。
殺されるなら殺してやる。ぎゅ、と包丁の柄に必要以上の力を込めて、立ち上がった少女を開ききった瞳孔で射止めた。

***

「ユリアドル、まだ寝てんのかー…っ、おい!どうした!?」

そんな声で、ユリアドルは魂ごと夢の世界から引き戻されたような錯覚に陥って、弾かれたように上半身を起こして目を開けた。は、は、と犬のように落ち着かない呼吸を繰り返し、ハンモックの上から少し周りを見回してここに少女がいない事を確認する。見慣れた男部屋で彼の目に写った最初の人間は、心配そうにこちらを見つめる恋人の姿だった。

「さ…、サン、ジ…?」

「あぁ、お前を起こしに来たんだが…大丈夫か?」

「お、う…ごめんな…」

ぜいぜいと肩で息をするユリアドルに、サンジはぎゅ、と眉間に皺を寄せる。

「悪ぃ夢でも見てたのか…?」

「あ、あぁ、ちょっと…」

自分の手が手が微かに震えている事に、ユリアドルは気が付いた。そこに出刃包丁はない。血もついていない。ぎゅ、と両手で拳を作り、それから手を開く。落ち着け、と自分に言い聞かせるようにその動作を繰り返して、ゆっくりとハンモックから降りた。

「本当にちょっとか?」

「え?」

不安げな声に振り返ると、悲しげに眉を寄せるサンジがこちらをまっすぐに見ていた。え、ともう一度聞き返すと、への字を象っていた唇が一瞬戸惑ってからユリアドルの心を案じた。

「本当に、大丈夫、か?」

お前が大丈夫か、と言葉を返すように尋ねたくなるその表情に、ユリアドルはさっきまでと違う感情が湧くのを感じた。
一心に他人の、自分の身を案じてくれる愛しい人。そんな人を前に、いつまでも心が恐怖に、殺意に、負の感情に支配される訳がない。

「…大丈夫、じゃない」

つかつか、とサンジに歩み寄って、まとわりつく夢の残骸から逃げるように彼に抱きつく。え、といきなりの行動に体を強張らせる恋人を更に強く抱きしめると、その耳に唇を寄せた。

「寂しくて、怖くて、今サンジが起こしに来てくれなかったらおれ、多分だめだった、どうなってたかは分からないけど、多分だめだった」

言葉を紡ぐ度に息が掛かるのがくすぐったいのか、ふるり、と身を震わせるサンジ。じわじわと赤くなっていく眼の前の耳と同じく、冷えきっていた心臓が熱を帯びて、血液と一緒に幸福を体に運んでいるのを感じる。

「ありがとう、サンジがいてくれて、よかった」

そう、ありったけの気持ちを込めて言えば、おずおずとだが、背中に手が回されるのを感じた。それだけの事なのに、自然と唇の両端が上がっていた。肩口に押し付ける形になってしまったサンジが、ごもごもとくぐもった声で一言だけ返してくれた。

「あ、さめしの、時間だ」

彼らしい、かわいらしい照れ隠しだ。ユリアドルは思わずひときわ大きな声で笑って、食卓に向かうために彼の拘束を解いた。
今はもう、仄暗い夢すらユリアドルの背中を押しているような気がした。





君は僕の光だ






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