FLOWER

Case 5


口から零れ落ちるようになった黒い塊を、血反吐だと思って半狂乱になった事は記憶に新しい。本当に驚いたのだ。ドス黒い固形物が自分の喉奥から出て来たのだから。俺は死ぬのかと身体の芯から震えが止まらなかったが、それが花弁の形をしているということに気が付いたのは、いつだったか。かと言って、これが血肉の塊ではなくても、俺に死が近付いている、という事実には変わりなかった。

花吐き病。その奇病は、恋を患う者が発症する。かく言う俺も、もちろんその一人だ。

患う、とはよく言ったものだ。発症から時を経て行くごとに吐く花が増えていく。呼吸が苦しくなったり、食欲が減ったり。どんどん日常生活に支障が出てくるので、やはり病気と言って間違いない。それに、思い人の事を思うと花が喉の奥から込み上げてくるから、必然的にいつも思い人の事を考えてしまうのが余計に厄介だった。悪循環である。

毎日寝不足で、物を食べるのも辛いから身体も弱って、いつの間にか大学の医務室の常連になっていた。出来るだけ人と会わないようにして、家に閉じこもるようになって、マスクで顔を隠すようになった。発症前と発症後では性格も様相もだいぶ変わっただろう。診断書を提出した手前、学校の教授達には知れているが、友人、同級生の誰にも言っていない。

気を使われても困るのだ。こんな病気に掛かった俺に向けられるのは同情の目線に他ならない。叶わぬ恋を嘆く病気だ。治る人は治るけれど殆どの人間が発症と同時に死を覚悟する。あまり周りの人間に言い触らすものでも無いし。

せっかく作った友人も、最近の俺の態度にどんどん離れていった。そりゃそうだ、今まで割と社交的だった人間が急に内向的になって、自分と距離を取っていくようになったら、そんなの俺だって付き合うことを控える。だが他人と近い距離にいて、もし万が一この病気をうつしてしまったら、と思うと誰とも付き合う気になれない。それに、俺自身もういつ死んでもおかしくないのだから。

けれど、その中で一人だけ、俺を見限らない人間がいた。いてしまったのだ。

「まだ風邪治っとらんのか、ミョウジ」

「…」

横から掛けられた声に沈黙を返す。俺からの返事がないことを見越していた待宮は、気にした様子もなくそのまま続けた。

「まァ季節の変わり目じゃけえ、しゃあないのう、喉でもやられたんか」

「べつに」

べつに、風邪じゃない。マスクをしていてたまに咳をしているからそう思われているだけだ。そう答えようとして、途中で口を噤む。いつもの癖で普通に受け答えをしようとしてしまった。まずいと思ってうっかり待宮の様子を視線の端で伺ってしまう。と、ばっちり目が合ってしまって、にまりと微笑まれる。あぁ、今日はこのまま何事もなく家に帰る予定だったのに。今まで故意に待宮の呼び掛けを無視してきたのに、台無しだ。

「何じゃアミョウジ〜、反抗期は終わりか?エエ?」

ガッ、と強めに肩を組まれてよろけた。仕方がないので「やめろ」と脇腹を小突くが、待宮は意に介した様子もなくガシガシと俺の頭を撫で回してくる。それには堪らず背中に平手をお見舞いした。もう姑息な真似をする必要もないか、と半ば諦めて口を開く。

「…反抗期じゃねーよ、っつーか、こんだけ無視してんだから俺に関わるなよ」

刺々しい口調のままそう言うと、ウーン、とわざとらしく考える様子を見せた待宮が拘束を緩めたのでそっと抜け出す。乱れた髪を直しつつその顔を見遣れば、いつもよりどことなく優しげな笑顔の待宮が肩を竦めた。胸が、苦しい。

「何か事情でもあるんか思うてのう」

「そりゃ、まぁ…」

事情も何も。ありまくりだ。そりゃ人が変わるのに理由がない事はないだろうが、それ以上に周りに酷い事をした自覚はある。心配してくれる友人を更に突っぱねもした。だからこそ今、絡んでくる人間が待宮しか居ない状況にまでなっているのだ。言わば身辺整理だ。家に帰ろうと思っていたことを思い出して、ゆっくりと歩き始める。毎日苦しくて、食欲も体力もなくて、もうきっと長くないことも、なんとなく分かっている。けれど俺の気持ちも知らずに、待宮は俺を追いかけて隣を歩きながら目を細めて笑う。

「一人は寂しそうじゃけぇ、ワシだけは一緒におったるワ」

に、と笑った待宮に、俺も曖昧な笑みを浮かべた。なにを、綺麗事を。どうせ、俺が花吐き病に掛かっていることを知ったら、そんな口きけなくなるだろうに。踏み躙りたい。俺から離れなかったことを後悔すればいい。逃げ遅れたのは待宮、お前なんだからな。そっとマスクを顎までずり下げれば、腹の中で膨れた悪意が俺の口からついて出た。

「…そっか、じゃあ俺の秘密、知りたい?」

今までの態度が嘘のような、けろっとした、平素の俺の声だ。一瞬間を取って俺の顔から視線を逸した待宮が、若干唇を尖らせながら言う。

「教えてくれるもんなら、知りたいのう」

斜め下に動いた待宮の視線を、何となく追いかける。そこには何もない。待宮の横顔をぼんやりと見つめる。なら、思い知ればいい。人の秘密に好奇心や偽善で首を突っ込んだらどうなるのか。

「ワシ、オマエのことなら、なんでも」

言いながら、斜め下から俺の方に顔を上げた待宮の耳あたり。手を当ててぐっと引き寄せる。え、と漏れた驚きの声を俺の唇で押しつぶした。二人の足が止まる。待宮の半開きの唇を食むと、強張った身体から力が抜けた。それから押しのけようとしたのか、俺の肩にするりと待宮の手が這った。舌で拭うように唇に触れると、あ、と鼻に掛かった甘い息が漏れて、誘うように待宮の口が開く。ぐぐ、と喉の奥から、圧迫感が上がってくる。

舌を口内に押し進めながらちら、と待宮の目元に視線をやると、潤んだ目が震える伏し目がちな瞼に隠されていた。抵抗らしい抵抗はない。から、喉の奥から溢れた花弁が俺の舌の上を滑って待宮の唇に触れるのも止めたりしなかった。一枚だけ、その花弁をぐい、と相手の口内に下で押し込むと、びくりと肩を震わせた待宮が容赦無く俺の肩を押し退ける。

「…っ、う゛…っ!?」

背中を丸めた待宮が口元に手をやって、えづきながら激しく咳き込む。その指の隙間からひら、と大きめの花びらが一枚、ああ、俺が入れた分か。その様子をぼんやりと眺めていると、もう一枚花びらが地面に落ちる。もう一枚。本来そんな所から咲くはずもない花が、咲いては散っていく。恐々としながら両手を開いた待宮の表情が、困惑に歪んだ。

「エエ、これ、なんじゃ…」

ああ、そうか、お前も叶わない恋をしていたんだな。誰にって、そんなの。俺ではない誰かだ。現実を突き付けられて思わず口角が上がるのを感じる。

「知りたかったんだろ、俺の秘密」

く、と喉の奥で引き攣った音がする。歪むように視界が揺れて、ゆっくりと腹の底が冷えていくのを感じる。黒い花弁を乗せた待宮の手が震えているのが、ぼんやりとしていても分かった。溢れた涙が頬を滑り降りて、明瞭になった視界に、顔を真っ青にして俺を見詰める待宮が現れる。

きっとこれは罰だ。待宮の優しさに思い上がった罰なのだ。少しでもこいつが俺の事を好きでいてくれているのかもなんて、思い上がった罰。一人で抱えたまま死ねればよかったのに、待宮が見捨ててくれなかったから、八つ当たりしてしまった。けど、同じ病にかかったって同じ気持ちになれる訳じゃない。その手に手を重ねたって、震えが止まる訳じゃない。ただ俺は、俺は待宮に。

「…ミョウジ…?」

さっきまでとは違う、弱り切った声で待宮に呼ばれた。まるで縋られているように聞こえるのは、俺の希望的観測だろうか。もっと俺の事を責めればいい。殴られたって訴えられたって文句は言えない。そう思うのに、まだこいつは俺の事を見捨てないんじゃないかって、そんなばかな考えを捨てきれない俺がいる。そんなふうに思わせたのは、お前が悪いよ、なんて、お門違いにも程があるだろうな。

「だから、見捨ててくれればよかったのに」

花が咲いても実を結ぶことはない。花は花だ。散るのを待つだけ。そうして土に塗れて腐って、新しく誰かの恋の肥やしになるのが、きっと俺なのだ。なあ、どうせ叶わないなら俺と一緒に死んでくれよ。俺と、俺の、この思いと。一人じゃ寂しいんだ、お願いだから、待宮。





クロユリ(呪い)






back



- ナノ -