短編
ぱたん、とその日記を閉じた。削げ落ちたような表情の内側で、心臓が警鐘のように忙しく打ち付けている。逃げ出したい、だなんて、しつこく海軍が追いかけてきたときでも、自分を凌駕する強さの敵と対峙したときでも、こんな感情は抱かなかったろう。ふふ、とドフラミンゴの喉の奥から笑い声か泣き声か分からないような空気が漏れた。

ドフラミンゴが探していたものがそこに書き記されている。読まなければよかったと思うほど、痛烈に。間違ってはいなかったはずだ。なのに、どうしてこうなってしまったのか。ドフラミンゴは、サングラスの奥でそっと目を閉じた。


・・・・・


「そういやさっきの、セフレだったら考えてやってもいいぜ」

ドフラミンゴが何気なく放った一言に、目の前の男の動きが止まった。紅茶が傾けられたティーポットから容赦なく注がれ、男の足元の床に水溜まりを作っている。後でちゃんと拭くんだろうな。ドフラミンゴがそう思っていると、見開かれた目が彼の方を、困惑すら含んで見据えた。

「いやあの、セフレ?って、セックスフレンドの…?」
「それ以外に何か知ってんのか?おれは知らねェが」

まさか。そんな顔で問いかけてきた男に、ドフラミンゴは容赦なくきっぱりと言い放った。更に男の表情は混乱の色を見せる。目を閉じて額に手を当てて、え、と首を傾げる。それからふる、と一度首を振って、もう一度ドフラミンゴに向き直る。

「さては聞き間違ったな?もう一度言うよ、愛している、ドフィ、おれの恋人に」
「セフレだったら考えてやってもいいぜ」
「なんっで!」

とうとう大声を出してカップとポットをサイドテーブルに置いた男は、床に零れた紅茶に足を滑らせかけながらもドフラミンゴに詰め寄る。騒がしい事この上ない。彼は、椅子に踏ん反りかえって座るドフラミンゴの前に躍り出て、その手にあったヒューマンショップからの報告書を抜き取る。「おい」と抗議の声を上げるドフラミンゴにぐ、と顔を近付けて、まるで人でも殺しそうな剣幕で吠えた。

「おれがどれだけ本気で言ってんのか分かっていないのか!?本当に!?」
「フッフッフ、さあなァ」
「お前ね…」

はぁ、とがっくり肩を落とす男。見目も悪くない、小奇麗な男だ。昔からファミリーにいてドフラミンゴに従順で、それなりに気心の知れた仲ではある。し、何なら、この男にただならぬ気持ちを抱いていると言っても嘘にはならない。とはいえドフラミンゴには、こんなにもあけっぴろげな愛の告白を受け入れない理由がちゃんとあるのだ。じ、と彼の顔を正面から見ると、嫌でも目に付く。首筋に陣取る、それだ。ドフラミンゴはとんとん、と自分の首を指で示した。相手もそっと自らの首筋に触れて、あ、と声を上げる。その赤い鬱血痕に思い当たることがあったのだろう。

「おれは虫の集ってる男と付き合ってやる気はねェ」
「そんな…おれは真剣に…」

しゅん、と肩を落とす男。一見潔癖そうに見えてこの男は複数の女をとっかえひっかえするタイプである。顔に似合わずどことなく滲み出る間抜けさが女ウケするらしく、黙っていても、それこそ虫のように女が寄ってくるのだという。今も恐らくまだ関係を持っている女が複数人いるのだろう。そう思うだけで腸が煮えくり返るような心持ちだ。

「おれに愛を囁くなら、それなりに誠意を見せろ」
「…誠意」

誠意。重々しく彼が繰り返した。普段あまり聞かない、この男の真剣な声。おや、とドフラミンゴがそう思った次の瞬間、ぶん、と頭を横に振って、彼が拳を掲げた。

「よっっしゃわかった!!見ていろ!!」

ぱん、と両手を合わせ、それからドフラミンゴを指差す。その表情は自信に満ちあふれていて、なぜ自分が不義理をはたらいているのにそんな堂々とした態度が取れるのか甚だ不思議だ、とドフラミンゴは思った。が、男は益々口角を上げて、自信過剰な一言を口ずさむ。

「絶対お前にも愛してると言わせてみせる」
「…さァ、どうだかな」

どうだか。ドフラミンゴの予想では、この男が示せる誠意などたかが知れている。誰かに必要とされないと生きられない男。ベビー5ほどではないが、こいつも他人という鏡に写してでないと、自分を認識出来ない可哀想な男だ。恋愛体質で依存症。そんな男がドフラミンゴだけを愛し尽くし、だなんて、出来ると思うほうが間違いである。今でこそ主君としてドフラミンゴに仕えてはいるものの、それとこれとはまた話が違うだろう。だというのに。

「首どころか全身綺麗に洗ってベットで待っていてくれ!愛してるよドフィ!」

返事すら待ちきれない様子でドフラミンゴの部屋から駆け出た男は、きっとその自覚がないのだろう。ドフラミンゴは、阿呆のような捨て台詞を履いて飛び出していった馬鹿に、せめて溢した紅茶くらいは拭いて行けと笑った。


・・・・・


「ドフィへ、今日は子猫ちゃんとお別れしてきた。おれは君の言う誠実に近付けているかな。」
「ドフィへ、船旅なのに海軍からの襲撃がないのが不思議だ。退屈です。」
「ドフィへ、今日も子猫ちゃんとお別れしてきた。泣かれてしまった。おれは酷い男かもしれない。」
「ドフィへ、今日も子猫ちゃんとお別れしてきた。頬が腫れている。君が恋しい。」
「ドフィへ、花屋でひまわりを見つけて懐かしくなったよ。早くドレスローザに帰りたい。」
「ドフィへ、君の声が聞きたい。明日子猫ちゃんのところにお別れを言いに行くよ。」
「ドフィへ、今日も子猫ちゃんとお別れしてきた。おれは何人の人を傷付けてきたのかな。」
「ドフィへ、改めて君への気持ちが身にしみている。明日、最後の子猫ちゃんにお別れしたら、君のもとに帰るよ。」

わさ、と紙束を横に置いた。性懲りもなく送り付けられて来る、一行かそこらの手紙の束だ。声が聞きたいと言うのなら電伝虫を一度でも鳴らせばいいものを、この男はそうしなかった。一人前に願掛けでもしているのだろうか。

地道に船で世界を回っているらしい男から毎月一通程度届く手紙は、一見ドフラミンゴの机の上に無造作に放られているようだ。だが実際はその限りではなく、実は古いものが上に来るように積み重ねられている。楽しみにしている訳ではない。だがこの男がアホ面をひっさげて泣きついて帰ってくるのを鼻で笑ってやろうと、その時に上から手紙を読み上げてやろうと思っているのだ。否、思っていたのに、もう半年も男からの便りがない。

尻尾を巻いて逃げたのだろうか。馬鹿め。と横目で手紙の山を見遣る。自分の身の程も知らず、出来るはずもない事に正面からぶつかっていくからだ。頬を腫らして泣きべそでもかいているだろう男の顔を想像して、喉の奥で笑う。さっさと尻をまくって逃げ帰ってくればいいものを。

一枚、一番新しく届いた手紙をそっと下から引き抜いて広げる。君のもとに帰るよ、と書いてあった。一体奴に何人の子猫がいたのか知らないし、知る必要もないが、そろそろ帰って来てもいい頃だろう。もしや、ドフラミンゴに後ろめたい事でもあって顔向け出来ないのでは。ふとそんなことが頭を過る。ありえない話ではない、若しくは行く先々で新しい女と関係を持って、いたちごっこのように収集がつかなくなっている、だとか。否定しきれないのがまた厄介だ。

はあ、と忌々しげに溜め息を吐いた。なぜそんな男の為にドフラミンゴがこんなにやきもきしなければならないのか。考えれば考えるほどおかしな話だ。苛々としながら封筒の消印を見る。郵便配達の鳥のマークに、聞きなれない単語の判が押されていた。恐らく島の名前か街の名前だろう。こんな小事に足を取られてたまるか。そう少しだけ憤りながら、本当に男がすべての女と縁を切っているような事があれば、と思いを巡らせる。その時はその時だ。ドフラミンゴはそっと革張りの椅子から立ち上がり、手紙をポケットに突っ込んだ。


・・・・・


男の手紙の消印を調べ、街で足跡を辿り、ドフラミンゴはこの小屋に廻り着いた。なぜドフラミンゴが直々にそこまでしたのか、彼自身にもはっきりとは理解できてはいない。ただ、男が他の女にうつつを抜かしているようであれば、ひとしきり痛めつけて連れ帰るつもりではあった。

お世辞にも豪奢とは言えない、粗末な小屋。彩りといえばちらほらと庭か畑か怪しい部分に咲いた花くらいだ。つい最近死んだという天涯孤独の女が一人で住んでいたというその家には、人の姿はなかった。見聞色の覇気で周囲を探しても住人らしき人間の気配もない。ドフラミンゴは、宛が外れた、と一つ舌打ちをした。とんだ拍子抜けだが、誰もいないならとその華奢なデザインの扉を蹴破った。男の手掛かりが一つでもあれば儲けものだろう。

予想通り誰もいない。が、部屋の真ん中のテーブルの上に、本が一冊だけ開いて置いてあった。低い天井の部屋に、身を屈めて押し入る。女の一人暮らしどころか、人が住んでいたとは思えないほど整然とした部屋は、どこか浮世離れした異様な雰囲気だった。かつ、とドフラミンゴの靴が鳴って、大きな一歩でテーブルに歩み寄る。広げられていた本にはびっしりと字が敷き詰められている。どうやら、住人の女の日記のようだ。

「○月○日 買い物の途中、市場で男の人に声を掛けられた。優しそうな人で、話も面白い。私のことを綺麗だと褒めてくれた。島の外の人らしい、たしかに、あんなに素敵な人は見たことがない。」
「○月○日 また彼に会った。運命だと言われた。今日はそのまま二人で喫茶店でお話をした。あんなに喋ったのは久し振りだった。」

終始そんなような内容がしたためられていて、ドフラミンゴはふ、と息を吐いた。どうせこの彼とかいうのは、ドフラミンゴも知るあのすけこましなのだろう。ドフラミンゴが言うのも何だが、やはり最低な男だった。ぺらぺら、と以下同文のような日記を読み進めて、ある一ページで、その手が止まる。

「○月○日 彼が来てくれた。彼は大きなひまわりの花束を持っていた。彼と珍しく少し昔の話をして、彼が帰るとき、指輪を落とした。指にはめて、私には大きすぎるわ、と言ったら彼に、これは君のものじゃないよ、と取られてしまった。それから彼は花束を私にくれて、君にはこれを、と言って笑った。彼がどうしてそんなことを言うのか、よく分からない。私のことをからかっているのかしら。明日彼がまたうちに来る。」

毛色が違う。そう肌で感じて、また一枚捲った。

「彼が来た、いや、来ていない。違う、私は悪くない。彼が悪い。もうここには来ないなんて言うから。好きな人ができたなんて、ばかなことをいうから、ナイフで刺して、葡萄酒の瓶で頭を殴ってしまった。動かない。家の裏に埋めた。許せない、絶対に許せない。」

ぱたん、とその日記を閉じた。削げ落ちたような表情の内側で、心臓が警鐘のように忙しく打ち付けている。逃げ出したい、だなんて、しつこく海軍が追いかけてきたときでも、自分を凌駕する強さの敵と対峙したときでも、こんな感情は抱かなかったろう。ふふ、とドフラミンゴの喉の奥から笑い声か泣き声か分からないような空気が漏れた。

ドフラミンゴが探していたものがそこに書き記されている。読まなければよかったと思うほど、痛烈に。間違ってはいなかったはずだ。なのに、どうしてこうなってしまったのか。ドフラミンゴは、サングラスの奥でそっと目を閉じた。

家の裏に埋めた、と、そう書かれている。閉じた日記を無造作にテーブルの上に放って、ドフラミンゴは上体を屈めないと出られないドアから外に出た。種を掴んで適当に投げたら芽吹いたような花がぽつぽつと咲いている。そこに一輪、背の高い花が混じっているのを見て、ドフラミンゴは一つ瞬きをした。

ひまわりだ。

思わずふらふらとそれに歩み寄る。ドフラミンゴの身長の、半分くらいの背丈。枯れかけて、もう下を向いてしまっているそれを視界の真ん中に認めると、後ろにもう一輪地面を見ているのが見える。近付くと、その後ろにもう一輪。殆ど等間隔でひまわりの花が生えている。家の裏に続いているそれを辿るように、ドフラミンゴは歩みを進めた。

「……っ」

家の裏は、畑になっていた。と言っても、作物は無く、農具が柵に立て掛けられている。土こそ柔らかそうだが、畝などが出来ているわけでもない。そこに、異様な存在感を放つものがある。

畑の真ん中、ドフラミンゴと同じくらいの背丈のひまわりが、立ち尽くすように下を向いていた。その周りに、根本が一箇所に密集するように生えている、半分ほどの高さのひまわりがいくつか。ぞっとしない光景だ。頭を過ぎった確信に、肺が潰れたように呼吸が苦しくなった。

そこだ、そこに彼は埋まっているのだ。吐き気すら覚えて、ドフラミンゴはそっと口元に手をやった。はやく見つけてくれと、ひまわりが泣いている。ぎり、と歯を食い縛って、一思いに一本の小さなひまわりを根ごと引き抜いた。ぶちぶち、と細かい根が引き裂かれる音がして、その後、キイン、と金属音が響く。足元の音源を見ると、小さなシャベルが落ちていた。その上に、畑に似つかわしくないものが乗っている。

「……フ、フフ…フッフッフ!」

ひまわりの根に絡まっていたらしい金属片。何故だか込み上げる笑いに任せて肩を弾ませながら、ドフラミンゴはそれを手に取った。丸い、鉄製の小さな輪っかは、ドフラミンゴから見たら小さくはあるが、一般女性の指にはどうやっても余るだろう。ぎゅ、とそれを左手で握り締める。ドフラミンゴは無造作に打ち捨てられたシャベルを右手にとって、ぐさ、とひまわりの根本に突き立てた。

「まさかお前が、本当に全員切るとはなァ」

ざく、ざく、と土が掻き分けられていく。

「それにしても、おれに迎えに来させるとは、結構なご身分じゃねェか」

ざく、ざく。時折ひまわりの根を切りながら、更に掘り進めていく。

「なァ、箱はどこにやった?フ、フフ、まさか寝てる間に指に嵌めようなんて思って、買ってねェとか言うなよ」

かつん。

「………」

ドフラミンゴの手が止まった。そっとシャベルで土を払うと、黄色くて丸い石のようなものが見える。無言で周りの土を避けると、その滑らかな全体像が姿を表した。

丸い部分の一部が、ひび割れて凹んでいる。葡萄酒の瓶で殴られた箇所だろうか。ドレスローザを発つ前に、ドフラミンゴに「愛してる」と笑った男の整った顔を彷彿とさせる、綺麗な曲線を描くそれ。土の中から救い出すようにそっと彼を持ち上げると、思っていた以上の軽さにドフラミンゴの手が震えた。

「…なんとか言え、馬鹿野郎が」

愛していると言わせてみせると、言っただろう。ドレスローザに帰ると。死んでいる場合か。ああほら、これだから他人は信用できないのだ。膝に抱えた髑髏の土を撫でるように払って、ドフラミンゴは昏く笑う。風で揺れた一際大きなひまわりからまた一つ、涙のようにぽつりと種が零れ落ちた。






- ナノ -