短編
ばさばさ。ロッカーを開けると、押し込まれていた封筒の群れが押し寄せるように流れ出た。ああ、やっぱり。そう思いながら新開隼人は、ゆっくりとそれを拾い上げる。下足箱はポストじゃないというのに、ラブレターを入れるというのは一体何が発祥なのだろうか。なんて、その可愛らしいデザインの封筒を数枚スクールバッグに入れた。

卒業が間近に迫った。明日から自由登校という期間を迎えた三年生は、これから受験勉強に向けてラストスパートを始める者や、はたまた残りの学生生活を遊んで謳歌する者、アルバイトに励む者など各々だ。かく言う隼人は、スポーツ推薦で手に入れた明早大学への切符を持ったまま、引き続き自転車競技の練習に精を出すことになるだろう。

そんな三年生が確実に学校に足を運ぶことは、人によってはたまの登校日か、あとは卒業式に限定される。それで三年の男子に思いを寄せる女子は挙ってこの最後の一日に賭けて来るのだった。もちろん逆も然りで、隼人はクラスの女子が後輩の男子に呼び出されているのも見掛けた。恐らくあれも告白だろう。そう思いながら、今度は足元に散らばった封筒を全て拾い終え、スクールバッグに押し込んだ。

横を見ると、もう一つぎゅうぎゅうに紙束が押し込められた下駄箱があった。他でもない、隼人の部活仲間の東堂尽八のものだ。いま隼人が開けた下駄箱よりも密集したそれは、最早扉が閉まっておらず、むしろ詰め込まれた圧力により手紙がお互いを支え合っているような状態になっていた。それがまるで彼のファンクラブのような統制の取れ方を表しているようで、隼人は思わず苦笑した。

バッグの重みがあまり変わったように思えないのは、恐らく隼人が持ち帰るのを渋って最終日までロッカーに眠っていた英語の辞書のせいだろう。一が二になるのと、百が百一になるのとでは全く違うのだ。今し方手紙を入れたバッグの真ん中ではなく、横のポケットのチャックをじい、と開ける。

尽八の下駄箱も、隼人の下駄箱もそうだ。どうして女子は自分より前に下駄箱に入っていた他人の手紙を捨てないのだろうか。本当に手に入れたいものがあるのなら他の誰かをも蹴落として突き落として、どうにか自分が抜け駆けしてしまおうと、なぜ思わないのだろうか。はあ、と緊張に震えた喉から息を吐く。それからそっとポケットに手を突っ込んで、中から封筒を一つ取り出した。

郭公という鳥がいる。他の鳥の巣に自分の卵を一つ産み付けて、その巣の持ち主に雛の世話をさせるという、托卵という習性のある鳥だ。他の卵より早く孵る郭公の雛が最初にする事は、まだ産まれる前の他の卵を、巣から突き落とす事。ロッカーの扉を押さえる手に無駄な力が入る。手にじっとりとかいた汗で手紙がよれて仕舞わないか、少し不安になったが、それよりも今は早くこの場を。

「新開?」

不意に後ろから声を掛けられて、驚きの余りに息が止まる。凍り付いたように固まった身体に、もう一度声が掛けられた。聞き慣れた声だ。

「やっぱ新開だ、まだ帰ってなかったの?」

目を閉じて一度深呼吸をする。おそらく今、隼人の顔はいつものまろやかな笑みを浮かべる事はおろか、自然な表情で振る舞う事ができないくらいには引きつっていただろう。短い時間で急いで取り繕って、ゆっくりと振り返る。視界に入った瞬間に、にぱ、と阿呆丸出しで笑うその男は、他でもない、今隼人が荒らしていた巣の主だった。

「やあ…名前も、今帰りかい?」

「そー、先生にちょっとだけ分かんないとこ教えてもらった」

へへ、と呑気に笑う名前は、隼人がした事に気が付いた様子はない。一般受験のこの男は、ここ最近勉強熱心で、恐らく自由登校期間になってからも学校に足を運ぶのだろう。そうか、と返事をしたら、名前の視線がふと隼人の顔から手元、つまり可愛らしい封筒に移った。不思議そうに名前が眉を上げる。

「あれ?それ…」

いけない。そう思って、遮るように隼人も口を開いた。

「あぁ、悪いな、ここに落ちてたぜ」

嘘だ。ぱたん、と名前の下駄箱を閉じて、手紙を差し出す。えっ!と驚きを隠しもせず大口を開けた名前は、なぜか恐縮した様子を見せながら、隼人に両手を差し出す。その両手にぽん、と手紙を置くと、名前は卒業証書かと言いたくなるほど恭しく受け取って、それから初めて手紙を見た人のようにまじまじと見つめた。

「わ…お、俺に!?うわ〜!まじで?誰からだろ、名前書いてねぇな!中か!?」

ひぇ〜、と満更でもなさそうに顔を緩ませる名前。送り主の名前を探しているらしいが、外にも中にもその名前はない。ただ封筒の後ろ側にいつもより丁寧な隼人の字で「名字名前くんへ」と書かれているだけ。それは一番隼人がよく分かっていることだ。しかし敢えて指摘はせずに、そっと一歩横に退いた。

「じゃあ、俺はこれで…」

と同時に、名前が封筒を裏返して、裏面の宛名を視界に映した。書かれたその文字に気が付いたようで、あ、と小さく声を上げる名前。もう名前の注意は完全に手紙に向いた、と理解した隼人は、その場をすぐにでも去ろうと自分のクラスの下駄箱のある方へ、と足を向けようとした。

「…ちょっ、新開、待って!」

だが、その手をぐい、と掴まれる。引き留める為の動作だったのだろうが、思いの外強い力で腕を取られて、隼人の身体がバランスを崩した。ずる、と肩からスクールバッグの紐がずり落ちたが、名前はお構いなしに、必死な顔で隼人に捲し立てる。

「新開!なあ、この字!お前の…」

「っ、名前、おちる」

「!、ご、ごめん!」

名前が掴んだ腕をパッと放した拍子に、隼人の肘まで滑り落ちたスクールバッグがどさ、と床に落ちた。チャックが開けっ放しになっていたバッグが口を開ける。あ、と思わず声を上げてしまった隼人が見たのは、咄嗟にそれを拾おうとして屈んだ名前の後頭部だった。まずい、そう思う前に名前が隼人の鞄に伸ばした手をピタリと止める。ああ、もう、繕いようがない。は、と浅く息を吐いた隼人も、バッグから覗く封筒に書かれた文字を目で追った。

「名字くん」「名字名前さま」「名字先輩」「名前くんへ」「名字名前くん」

「あれ…?これ、俺の名前…?」

何人もの女子の恋心が、名前の巣のすぐ真下の地面から、割れた殻を押し退けて手を伸ばしていた。隼人が落として割ろうとした卵が、今孵化しようとしている。ゆっくりと上がった名前の視線が、硬直した隼人の芯を射抜いた。

「…なあ、これなんで新開が持ってるの?」

いつもと変わらない眼差しが、今は怖い。詰問されている訳ではないのに責められているように感じるのは、錯覚ではないだろう。自分で書いた手紙を下駄箱に入れようとしていたのに、女子からの手紙は鞄の中にあったのだから、頼まれて預かったものだとかいう言い逃れも出来ない。し、今更そんな風に偽って、更に事態をややこしくする事など、隼人には出来ない。もう、詰みだ。そう理解して、一歩後退る。とん、と背中が下駄箱にぶつかって、隼人は両手で顔を庇って呻くように言った。

「…好きなんだ」

名前からの返事はない。顔も見られない。懺悔するように繰り返す。

「好きなんだ、おめさんのこと」

もう勘弁してくれ。俺が悪かったから。震える声でそう続ける隼人の耳に、ぐしゃりと何かが落ちて潰れるような音が聞こえた気がした。分かっていたことだ。他人を蹴落としたって、こんな恋、最初から孵るはずもなかったのだ。







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