短編
ごぼ、とまた血を吐いた。右肺を四、五発の礫弾に貫かれて両足は骨が剥き出しになるまで切り裂かれ、右腕は戦車にでも踏み潰されたかのように原型を留めていなかった。荒野にはその男の流した血で赤い水溜まりが出来、まるでその生臭い海で溺れているようである。それでもまだ息があるのは職業柄の並外れた体力のお陰と言えよう。仰向けに打ち棄てられた男は吐いた血でワイシャツの胸元を汚し、虚ろな目で空を眺めていた。その血の気が失せた唇が微かに奮え、吐息混じりの音が零れる。

「ハ、ミ…」

そしてその目が鈍く輝き、魔法権利を使用している事を示す。それからふ、と笑みを零し、その魔法で見付けた自らの体の周りに緩く漂う触角糸を慈しむように見つめた。

「ハミュ、ツ…」

どくどくと血が流れる。男、武装司書、名前・名字は、ハミュッツを愛していた。死を求め、孤独を愛した女の全てを愛していた。自らを殺す存在を求めるハミュッツに彼女を愛する存在として求めて欲しかった。

「ハミ…きこえ、るか?」

触角糸が空と名前の虹彩の間を舞った。聞こえているのだろう。思考共有の魔法権利を持たない二人の間に会話をする術は無いが、一方的に名前が言葉を発する事は出来る。

「ご、めん…ころせな、か…」

そこまで無理矢理言葉を紡ぎ、肺に流れ込んだ血液に深く咳き込む。殺せなかった、殺せなかったのだ。
愛する女が、死に焦がれるから。ならばせめて自らの手でその命の幕引きに導いてやろうと思った、のだが。流石館長代行というか何というか、マットアラストやユキゾナに勝るとも劣らない名前の力ですらハミュッツには太刀打ち出来なかった。結局不意討ちを仕掛けて返り討ちに遇ってこれだ。手厳しいな、そう呑気に思う。彼女にはたった二発、脇腹を深く裂いたのと、二の腕の骨が剥き出しに成る程度の怪我しか負わせられなかった。跡が残らなければいいと、今更ながら思う。
確かに、死は甘美かもしれない。ここまで来て名前はその考えにゆったりと体を預けていた。
今はこんなに息も出来ないし腕もそこに心臓があるみたいに吐血を続けているし足なんか感覚が無くてただ熱いだけだしのた打ち回るにもそんな元気も体力も無いし叫ぼうにも喉はかすかすと空気しか通らないしそれはもう酷い有様なのである。なのに、死が訪れればその全てと別れる事が出来る。
最後の最後でこんなトチ狂った感覚に襲われるなんて、自分はどんな本になるのだろう。

「俺の、本…ハミがも、てて…」

自分は、識り過ぎた。世界の事、図書館の事、ハミュッツ・メセタの事。自分は死んでからこの世にあってはいけない存在になってしまった。なら天国の一歩手前か、ハミュッツの机の奥深くにそっと置いておいて欲しい。
そこでやっと、名前は触角糸に触れる事をした。

「あ、やだ、ちょっと…触らないでよぅ。気持ち悪いの、それ」

ハミュッツの心の声が流れ込んで来て、思わず笑った。それが名前の魔法権利である。こちらからは口に出さないと伝わらないのが悲しいが。

「気持ち悪、いて…酷、いな」

「だって、嫌なんだもん、体に触られるのとは違うのよぅ」

「最後、だよ…こ、な事する…奴、ほかに居な…から」

「それも、そうねぇ」

ふふ、とハミュッツが笑う。名前は呼吸をしようと息を吸ったが、赤い液体しか吸い込めなくて盛大に咳き込んだ。気力を振り絞って横向きに寝返り、赤黒い血を吐き出す。

「っ、は…っ、う"ぇ…」

「やだちょっと、何やってるのよぅ」

「おま、が…は…ぁ、や、たくせに」

肺はやめてくれよ肺は。そんな意味を込めて言ったのだが、ハミュッツはさらりと「まぁねぇ」と流した。

「ぅ…ハ、ミっ」

「なぁに」

血が足りない。赤い潮は体の中から逃げて荒野に満ちていく。周りの渇いた地面は黒く湿り、まるで名前は血の海で溺れているようだった。
く、と触角糸を何本か引き集め、指に優しく絡める。

「鐘は、な…らすな、よ…」

志し半ばで倒れた武装司書の鎮魂の為の鐘である。これは武装司書が館長代行を殺そうとしたのではなく、一人の男が一人の女を殺そうとして失敗しただけなのである。
ハミュッツは、何も言わなかった。
彼女らしい、と名前はくすりと笑って触角糸を口元に引き寄せ、まるで愛しい女の黒髪にするように恭しく、血に濡れた唇で接吻を落とした。

「…さよ、なら…ハミ」

男の魔法の発動が止まり、触角糸が姿を消す。ぱたり、と力なく落ちた手の平から透明な糸が解放され、動かない心臓、開いた瞳孔、止まった呼吸を確認した。

「…さよなら、名前」

バントーラ図書館から重く悲しい鐘の音が響くのは、その直ぐ後。男の本は、愛した女の手で大切に保管される事になった。




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