短編
「君よりもテストの点が高かったら、伝えようと思ってたんだ、やっと、君に勝てた」

そう伝えて彼の顔を見ると、ぼんやりと僕の顔を見ていた。整った顔立ちではあるが、絶世の美男と言うわけではない名字。目の前で僕が何を言うか、ただただ頬を染めてぼうっと見ている。きっと、今から何を言われるか分かっているんだろう。はち切れそうなほど暴れ回る心臓が、締め付けられる。緊張で萎縮した肺に、深呼吸で無理やり酸素を送り込んだ。

「勿論断ってくれて構わない、気持ち悪く思ったら、その、ごめん」

彼は何も言わない。眼鏡の向こうの瞳がやっと僕を視認したようにきらりと光を含む。見た。見た、彼が、名字がやっと僕だけを。ごくりと唾を飲みこんで、それでもからからに乾いた喉を振り絞ってやっとの事で彼に伝えた。

「君が好きです…僕と、お付き合いしてください」

心ここにあらず、といった無表情だった彼は、僕の言葉を噛み砕くようにゆったりと瞬きをして、それから少しだけ目を見開いた。表情が、読めない。何を考えているのか分からない顔のまま名字の瞳がじわりと水分を含む。もう一度伏せられた睫毛が目の下に影を落とすのと同時に、彼の左目から一筋涙が伝った。

「…うん、いいよ」

「…ほ、本当に!?」

一瞬、何と答えを貰ったのか受け取り損ねて、おかしな間が空いてしまう。その後で何とか了承を貰ったのだと理解して、思わず食い気味でそう問い詰めてしまった。

「うん……うん」

「あ、ありがとう…うれしい、すごく」

まさか了承してもらえると思わなくてしどろもどろにそう答える。唐突に風に荒らされた前髪が気になるし制服の着こなしにもおかしなところがないか不安になってきた。居たたまれなくなってきた僕に、少し俯いていた名字は顔を上げて口を開く。

「良かったね」

そう、どこか他人事のようにふんわりとした口調で答えた彼は、どんな顔でこちらを見ていたのか。それが何故だか欠片も思い出せないでいる。










はぁ、と溜め息を吐いた名前は、財布と車の鍵を引っ掴んで立ち上がった。片眉を上げて明らかに不満げな様子で椅子を戻して、彼は後ろ歩きで部屋の扉まで足を進める。

「いい?降谷に変なこと吹き込まないでよ、子供の頃のアルバムも禁止!」

「あら、何でよ…じゃああれは?貴方が五歳のときの」

「それも禁止!」

そう声を荒げて、ばたばたと名前がリビングを後にする。彼の母に頼まれて店屋物の昼飯を受け取りに行くらしい。近所で美味しい海鮮丼を作ってくれる寿司屋があるのだと彼女は笑っていた。必然的に、ご機嫌な彼の母親と二人きりになってしまい、少し緊張する。

そわ、と椅子に座り直した僕を見て、名前の母親は、というか、お義母さんは口元を手で隠して笑った。笑うと目が無くなるところが名前と似ているな、と思って、やはり彼と血が繋がっているんだと再確認する。

「あら、緊張しなくてもいいのよ零くん」

「す、すみません…」

「いいえぇ」

うふふ、と意味有りげに笑った女性が、僕の湯呑みにとぷとぷと緑茶を足した。それに「すみません」とまた頭を下げると「いいのよ」と笑顔が返ってくる。このくらいの年代の女性との会話の仕方はポアロの接客なんかでも学んだ筈だったが、何分相手が相手。いつもは回るはずの頭が仕事をしなくて、事あるごとに緑茶を飲んでしまっていた。そんな僕の様子が面白いのか、笑みを絶やさないお義母さんがふと目を伏せる。

名前と付き合い始めてからだいぶ長い年月が経過していた。間は僕の仕事の関係で会えなかった事もあったけれど、名前は理解を示して気長に待ってくれていたようだった。詳しく説明も出来ないまま姿を消した僕がひと仕事終えて再び会いに行った時、名前は少し驚いて「もう帰ってこないと思った」と泣いてくれたのだった。

そんなふうに紆余曲折、今日は初めて彼の母親に紹介してもらって、加えて二人きりで置いて行かれて今までの日々とは違った緊張感に震え上がっているところだ。粗相をする気はないけれど、気付かないうちに何か失礼なことをしていないだろうか。名前に相応しくない相手だと彼の家族に思われたくなかった。いつもなら揺るがない自信も、こういう場では形無しである。

「にしても、ふふ、あの子の恋人が警察官だなんて」

ふとそう呟いた彼女に思考が引き戻された。勿論配属は伝えていないが、警察官であることは最初の挨拶で伝えてある。名前の母ならおかしな偏見はないだろうが、自分が明らかに日本古来のものではない明るい色をした髪であることは重々承知している。いい加減な人間だと思われないためにも多少暈して伝えてはあったが、どうやらこの人も聡い女性らしい。

「?、何かあるんですか?」

そう尋ねた僕に、話したそうに、けれど言いづらそうにお義母さんが口を開いた。今まで彼女が湛えていた笑顔が少しだけ曇る。

「…あの子の将来の夢も警察官だったの、高校生くらいまでかしら」

「…え」

知らなかった。初めて聞いた事実に、思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。そんな話は、名前の口からも聞いたことがなかった。名前はあまり彼自身のことを多く語らない。いつも気がついたら僕がたくさん話してしまっていて、その様子を優しい笑みで聞いてくれる。彼の愉快そうな「うん、それで?」という言葉を聞くのが好きで、話し過ぎだと分かっていてもそのまま喋り続けてしまうのである。だから、一番彼の近くにいた人に名前の事を聞けるのは僥倖だと思った。斜め上に視線を向けたお義母さんが、懐かしむように続ける。

「私の夫も警察官だったんだけど…危険な事件を担当していたのかしらね、その頃に死んでしまったのよ」

「そう、だったんですか」

いつもはよく回る口が、今はてんで駄目だ。さっきからちりちりと、焼けるような嫌な予感が肺に絡みついているようだった。危険な事件を担当していた、ということは、彼女は夫本人から聞いた訳ではないようである。幾ら守秘義務があるからとはいえ、忙しいだとかそういった最低限度の話くらいはしてもおかしくない筈だ。そんなふうに考えてから、そういえば名前から、一度も父親の話を聞いたことがないということを思い出した。もしかして、と思う。もしかしたら彼の父親は、僕と、同じで。

「…息子の夢は応援するつもりだったの、警察官になりたいっていうのも…けれど、私もちょっとおかしかったのかもしれないわ、夫が死んで、あの子の夢を正面から否定してしまった…」

あらぬ方向に飛びかけた思考を引き戻したのはお義母さんの言葉だった。そうだ、彼の父の所属を考えることは今はさほど重要ではない。小さく頷いて先を促すと、彼女は眉尻を下げて少し苦しそうに笑った。

「警察になるなんて危ないから、お母さんは絶対に許しませんって」

重々しく目を伏せたお義母さんは、一つ溜め息を吐く。一度口に運ばれた湯呑みを目で追うと、彼女は仕切り直しと言わんばかりに浅く笑った。

「そうしたらあの子、高校卒業まで学年一位をキープ出来たら許してって言ってきてね、一年の最後のテストだったから…春になるのかしら」

瞬間、呼吸が止まった。どっと走馬灯のように、頭の中を記憶がめちゃくちゃに暴れ回る。纏まらない頭で、やっとのこと粗末な相槌を絞り出した。

「高校、二年の、春…ですか…」

高校二年の春。そう聞いて思い起こされるのは、僕がまだ咲く前の桜の木の下で彼に思いを伝えた日のこと。僕がテストで学年一位を取って、いつもテスト結果の順位表の一番上を陣取る彼より上の成績を取ったことで告白する踏ん切りを付けた、あの、あぁ。

どく、どく、と心臓がいやに早く脈打つ。あの日、浮かれた僕は彼に何と言っただろうか。彼の気なんて一つも知らない幼い僕の言葉を、忘れてしまえれば楽だったのに。僕はこう言ったのだ。

"やっと、君に勝てた"

痛烈な罪悪感が胸を刺した。あの時の彼はどんな顔をしていただろうか。思い出せない。どんな顔で僕を見ていただろうか。思い出せない、思い出せない。その後彼が泣いていたことは覚えているけれど、どうして泣くのかと尋ねた僕に、彼は何と答えただろうか。答えなかったかもしれない。思い出せない。思い出したくない。胸の中に不快感が詰まって、呼吸を妨げるようにどんどん大きくなっていく。苦しくなる。

「今までずっと一番だったのに、その時だけ風邪を引いてしまって…二番だったの、きっと根を詰め過ぎちゃったのね…結果今は普通の会社員になったわ、私も…本当に悪いことしちゃったって、今でも…」

ふ、と重く息を吐いた彼の母が、顔を上げて僕を見詰める。彼とよく似た眼差しが柔らかく僕を貫いた。やめてほしい。そんな顔で見ないでほしい。そうして名前とよく似た笑みを浮かべるその女性の唇が、ゆっくりと断罪の言葉を。

「きっと、貴方に夢を託したのね」

違う。きっと違う。託される資格なんてない、だって僕は、彼の夢を。









「好きです…僕と、お付き合いしてください」

あぁ、腐る。そうか、腐るのか。

俺の桜は花も咲かずに、実も結ばずに腐るのだと知った。蕾のまま手折られて、無残に地面に落ちて、踏み躙られて腐っていく。そうして誰かの肥やしになる。そう言えば聞こえはいいが、なぁ、それじゃあ肥やしになっちまった俺自身はどうすりゃいいんだよ。滲む。澄み渡る空のような真っ直ぐな瞳が、降り注ぐ陽光のような柔らかな髪が、ぐにゃりと歪んで俺の頬を流れる。

彼がほんとうに俺の視界と同じくらいぐちゃぐちゃに歪んだ汚らしい人間だったら良かったのに、余りにも清らかで真っ直ぐで、悪気なんて一つもない。俺を蹴散らして抜き去っていった人間が、振り返って俺を好きだと笑うのだ。どうして俺なんだ、どうしてお前なんだ、どうして、どうしてなんだよ。ふざけるなよ。俺にはもう、これしかなかったのに。

ふと視線を下げると、足元に数枚桜の花弁が散っていた。本当に数枚だ。まだ花は最盛期手前だから、この花弁たちは風か鳥が落としたものだろう。その惨めな姿に、今の自分が重なった。もう終わりか、終わりなのか僕は。それならもうなんでもいい、どうだっていい。もう、どうでもいい。

「…うん、いいよ」

そう笑うと、目の前の彼は一瞬目を見開いて、それから花が咲くように笑った。なぁ降谷、見えないか?君の足元に無数に散った、俺の桜の花弁が。問うまでもなく分かっている。きっと、見えないだろうな。だって降谷、それすらも踏み躙って、君は。







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