短編
揺らめく光を見た、と早川は思った。昏い屋内から現れたのはひょろっとした男で、ぼんやりと鈍く発光する赤い髪が彼を人ならざるものだと語っている。

「アキくん」

魔人が、名前を呼ぶ。馴れ馴れしい奴だ、と思う。姫野は公安管理の魔人とは仲良くしておけと言っていたが、これは例外だと早川は身構えた。魔人の指が一本、早川の咥えた煙草の先端を指す。思わず上体を引いた早川の背中が、喫煙所代わりにしている屋上の手摺に当たった。

「アキくんや、ほれ、あげよう」

星の散った瞳がにまりと細められて、言外に差し出せと促された。仕方無しに煙草を指先で挟んで、その男の方に向ける。伸びた魔人の人差し指の先、赤く塗られた爪が小さな爆発音と共に発火した。避ける間もなく、煙草の半ばまでが炎に巻かれる。

「おい!」

灰すら残さずに燃え尽きた煙草を握り潰して憤慨した早川に、火の魔人は愉快そうに口の端を釣り上げた。馬鹿みたいに税率が上がった今、煙草も決して安くはない。不快を隠さずに顔を歪めた早川の肩に無理やり手を回した火の魔人は、その手から半分ほどになった煙草を抜きとって口に咥えた。

「ンッフフ、びっくりしたねぇボクちゃん、火は怖かろう?」

一度肺にまで煙を呑んで、それからふう、と深く息を吐く。色もない高温の呼気に焼かれた煙草は、フィルターごと跡形もなく灰になった。額に青筋を立てた早川は人を殺せるほどに鋭利な視線で火の魔人を滅多刺しにする。

「水浴びしたいのならそう言え」

「いいやまさか、"火種"は常日ごろから撒いておいて然るべきだと思ってだね」

涙ぐましい努力さ。そう目を細めた魔人は、早川に腕を振り払われて大人しく一歩距離を取った。

悪魔や魔人は、畏怖されるほどに強い力を持つ。火の悪魔は原初の時代、ほぼ敵なしと言っても過言でない程に力を持っていた。人間が火災に太刀打ち出来る術を持っていなかった頃の話である。今やマッチを擦ればすぐに出会えて、多少のものなら消化器をぶちまければ撃退できる存在に成り下がった火に、最盛期程の勢いはなかった。けれど未だ強力な悪魔であることに変わりはない。

「君達が火を怖いと思うほどに私は君達の役に立てるようになる、ウィンウィンとか言うやつだろう?」

大袈裟に頭を振った魔人に、一瞬言葉を選び損ねたような顔をした早川が唇を引き結んだ。それからふう、と鬱陶しげに溜め息を吐かれて、魔人は目を丸くした。つれない男だ。

「だったら悪魔相手にやればいいだろ、俺に絡むな」

忌々しげに言い捨てられて、火の魔人は片眉を上げる。そう言われて引き下がる魔人がいるものか。にっこりと笑って、火の魔人は早川に向かって首を傾げた。

「ええ?いやだよ、君が一番楽しい」

「最悪…」

そうひとりごちた可哀想な早川が面白くて、無茶苦茶に彼の頭を撫で回そうとした魔人は、勢いを付けて腹を殴られた。人のじゃれ合いなんて悪魔からしてみれば蚊に刺されたようなものだ。というか蚊に刺される方が痒い。早川が苛々ともう一本煙草を唇に挟んだ、その先に小さな爪先の燻りを当ててやって、火の魔人はそっと本心を煙に巻いて笑った。

「死んだら私が火葬してあげるからね、アキくん」









悪魔の指先が、冷たい銃身をなぞる。物言わぬ早川の顔の半分を覆うようにして侵食したのは、銃の悪魔の残滓だった。星の宿った瞳がゆっくりと瞬いて、悲痛に眉を寄せて笑う。

「火葬に貴金属はマナー違反だよ」

「アキくん」と呼ぶと、早川アキが含みのある沈黙を湛えることに、魔人は気が付いていた。それがこの声や、この顔が引き起こしている副産物であるということも。彼の先輩である姫野も火の魔人のことが苦手であったようだし、きっとかつてのこの身体の持ち主に何か思うところでもあったのだろう。火の悪魔自身は関係がないというのに何という飛び火だろうと煩わしく思っていたこともあったが、穏やかな声で優しく語り掛ければ早川アキが大抵の願いを聞き入れるという研究成果は火の魔人の冷えた心を踊らせたものだった。

「…まぁでも…良いよ、本気出しゃなんでも燃えるしね」

今まで悪戯に付き合ってくれていたのだ。金属くらい燃え溶かすのなど朝飯のトースト前といったところ。早川の亡骸の横に膝を折った火の魔人は、いつもは後ろに引っ詰められていた早川の黒い髪を指先で整えた。

「さようなら、灰になって土に還って、また元気に生まれておいでね、人間」

待っているよ。そう笑った悪魔は、早川の骸をそっと抱き締めて目を閉じた。ぼう、とその腕で、青い炎が揺らめく。

いくら便利な世の中になったといえど、火は人々の畏怖の対象に名を連ねる存在である。特に火災で被害が出た後や山火事なんかがあると、次の日の火の魔人の身体の軽さは尋常ではなかったし、それでなくとも火傷は恐ろしい。別に大して良い反応も示さない若い朴念仁相手に小さな悪戯を重ねてポイントを溜めなくたって、火の名を冠した悪魔はとっくにゴールド会員である。ならば何故。だなんて、そんなこと、火を見るより明らかだろう。





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