短編
「なまえ、アホやなぁ自分」

蔑むような目で這いつくばる私を見下ろす今吉翔一は、何でもないように言った。実際に奴は目の前で川に面した草むらを掻き分ける女を見下ろしているだけで、他人事なのだ。私は今吉を睨み上げ、散々草や泥で汚れた手でそのネクタイをぐいっと、引き千切る勢いで掴んで強引に引き寄せた。

「ふざけるのも大概にしろ!あれは私にとって大切なものなんだ!」

「どうせその辺のファンシーショップで買った安物やんか」

「お前から見たらそうでも私から見たら違う!」

激情に任せてそう喚き散らすと今吉をどん、と力任せに突き放す。今吉のネクタイはさっきより締まってたし、私が掴んだから皺が寄っていた。

「ザマミロ」

ハッ、と鼻で笑ってやれば、奴は胡散臭い笑みを浮かべて肩を竦めるのだ。

「ぜぇんぜんかまへんよ、替えあるしな」

初めて殺意が湧いた。いつの間にか間に土が入り込んだ爪がぎゅ、と手の平に突き刺さった。ネイルでも付けていたらきっと今頃余裕で手の平血塗れである。それ以前に剥がれて落ちてまずはそれを探す羽目になる。そうなれば面倒以外の何物でもない。
否、別にそんな事聞いてねぇし。お前が何本ネクタイ持っていようが私には関係ねぇし。だがそのどうでも良い事を言われて、私の頭に更に血が昇ったのは確かだ。

「じゃあ早く新しいネクタイに変えれば良いだろう」

「せやかて、もう放課後やしー?」

「なら部活に行け」

「今日は体育館の整備で休みや、残念やなぁ」

「っ、それならもう帰れば良いだろう!」

私は今吉から視線を反らして叫ぶ。涙はまだ零れない、零してなるものか。イライラする。確か中学時代に花宮が言っていた、妖怪サトリという言葉を思い出した。私が何を言われるのが、されるのが嫌なのか今吉は全て分かっていてそれを行動に移す。私が踏み入られたくない場所に土足で入り込み、あろう事かそこに綺麗に並べてあったもの全てを蹴散らして踏み割って「あぁ、すまんすまん」と言って胡散臭い笑みを浮かべる事で済ませてしまうのである。
因みにそこに私への配慮があるか何て質問は止めて頂きたい。そんなの言わずもがなノー、だ。

「いや、何やなまえがワシのせいで泥塗れやん?帰り辛いんやけど」

何だと。

「お前、冗談抜きで最低だな」

人の大切なものを泥々の草むらの中に放り投げておいて、言う言葉がそれか。酷い、それしか出てこない。ぎりぎりと唇を噛んで堪えても涙で歪む視界は元には戻らない。つ、と熱いものが頬を伝って視界がクリアに戻ると、目を丸くした今吉が居た。ムカつくから泥のついた手で涙を拭いたらジャリジャリした。やっぱり泥だ。きっと顔に付いた。

「泣く程の物やったん?」

今吉がその顔のまま尋ねてくる。頭は良いのにバカな男だ。私はそこまで大切ではない物の為に泥濡れになってまで捜索はしない。

「……嬉しいか」

「ん?」

「自分がやったものを草むらに投げ捨てて、それを探して泥塗れになってるアホな女見て、嬉しいのか」

「……は?」

私は今吉に背中を向けて、もう一度草むらに戻ろうとした。どんな最低な男でも好きな男だ、どこに投げ飛ばされようとも大切な物だ、好きな男に貰った大切な物だ。初めて貰った物だったし、凄く嬉しかった。私が好きなだけだけど、それでもそんな相手から貰った物だ。独り善がりだけど、家に帰ってそれを見て一人で泣く位には嬉しかった。

「ちょ、待ち」

進もうとした左腕を、今吉の右手が掴む。振りほどこうとしても離れなかったから、振り向きながらぎろりと睨み上げた。今吉程ではないが、目付きの悪さには定評がある。

「私がお前の事を好きなのを知っていてこういう事をしたのなら、最低では片付けられないな」

「や、せやからちょっと待ち」

「うるさい、もう本当に帰れ、私はまだ探す」

「いや、ワシが悪かった」

「黙れ、私の気持ちにもなれ、放っておいてくれ」

力ずくで腕を引き剥がそうとするが、そこはどうしても男女の差が出てしまうのだ。諏佐より十センチも身長が低いくせに。

「何や失礼な事思ったやろなまえ」

「知らん、離せ、頼むから」

「いやや、ワシの話聞いてや」

ぎりぎり、そんな音がしそうな程に引いていた手をぐいっ、と引っ張られる。今まで手加減していたのか、なんて悠長な事を思っていたら思っていたよりも広い今吉の腕の中に引き摺り込まれてしまった。

「聞いてや」

有無を言わせない、それでもすがるような声で言われては、それ以上暴れる事は出来ない。

「…手短にな」

「何やそれ、おもんないわ」

「…大阪人はすぐに笑いに直結させるのか」

少し、緊張した。緊張して涙も止まった。いつの間にか背中に回されていた腕がぎゅ、と締められて逃げ場を失う。

「…あれ、ワシがあげた物やったんか…」

「…おい、今聞き捨てならない言葉が聞こえたのだが」

「幻聴ちゃう?」

「忘れていたのか、私は好きな男から初めて貰った物だから大事にしていたのに」

酷い奴だな本当に、呼吸をするように人の嫌がる行動を取るんだな、お前は。そう静かに捲し立てた。もう好きだと口を滑らせてしまったし、何も我慢することもない。相手は私に物をプレゼントしたことも覚えていないのだ。

「いや…まぁ、すまんて」

「きっと、もう一生見付からないな」

今吉がぎゅ、と腕に力を入れたので気になって顔を上げれば、ばつの悪そうな笑みを浮かべた今吉と目があった。微かに開いているのは相変わらずの三迫眼だが、少し赤くなった目元がそれを柔らかく見せている。苦笑だが、とても優しい物だった。

「あんな、ワシの勘違いや、別の男に貰うた物かと思ったんや」

勝手に嫉妬してもうたわ、すまんな。
は、と思わず呆れのような声が漏れた。しかし内心ではかなり混乱していて、その言葉の意味を考えあぐねる。

「嫉妬だなんてお前は…、この期に及んで私を期待させるのか」

「ん?そう聞こえんかった?」

わはは、と聞き慣れた笑い声。今吉の顔から目を離さずにいれば、嬉しそうな笑顔のまま、今吉の口が動いた。

「好きや、なまえ」

***

「お、なまえー、自分ちょうどええ所に、ほれ」

「…なんだ?これは…」

「さっき貰てん、ワシ着けんからやるわー」

「確かにお前がこんなファンシーなヘアピン着けてたら、面白いを通り越して薄ら寒いな」

「せやろ?全く何を考えてのプレゼントやねん…」

「まぁ……大事にする」

***

「何を言っている今吉」

眉を寄せて答えを返せば、今吉の目が驚きに見開かれた。本日二回目だ。

「いくら私達が両思いでも、ヘアピンは帰って来ない、ぞ?」

平静を装った表情はそのままだが、顔がじわりと熱くなる。ぐぐぐ、と今吉の胸板に腕を当てて押し退けようとするが、やはり単純な力比べでは私が負けるようだ。もう一度ピンを探したいので離れたいのだが。今吉が言いづらそうにしながら弁解をする。

「いや、あれな、投げてへんねん」

「……ん?」

ほれ、と今吉が私の背中から片腕を外して手を開けば、中にはきらりと光るピンクの髪飾りがあった。

「……今吉」

「すまんて、許してや?」

ひくり、と表情をひきつらせた私だったが、今吉の次の言葉で全てを許してしまうのだった。まったくお人好しである。





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