ジジジ、と、オイルランプの芯の燃える音がする。
そんな些細な音にさえ集中力を切らしてしまい、サームは、俯かせていた顔を上げた。首を左右に傾げれば、嫌に関節が鳴る。ふう、と腹の底から深い息をつき、クッションの効いた背もたれに体重を預けた。
ランプのチラチラ揺れる光は、広い執務室の隅々まで行き届いていない。薄暗い部屋の隅の闇から、本棚の陰から、カーテンの奥の夜から、机の下のぽっかり空いた暗澹から、ーー伸びてしまった己の影から、何か予期せぬものが現れ出てきそうだーー。サームはふとそう思い、そして、馬鹿らしいことよと己を笑った。いくら疲れているといえども、そんな現実にあり得ないことを考えるとは。そして、机の隅に押しやられていたティーカップに、無意識に手を伸ばす。
「……ああ、」
しかし、ひょいと持ち上げたそれは軽かった。カップの中には茶葉の滓がこびりついている。サームはそれを見て、また少しため息をついた。空っぽのカップを覗き込んで、なぜだか俄かに喉が渇き出したのだった。なんだかなあ。爺臭い呟きが、ひとりきりの執務室を漂い、そして消えていく。そうしているうちに、喉の渇きが全身に回って、サームは何かを頻りに欲しているようなーーそんな感覚がした。ーー嗚呼、いけない、これは良くない。
綺麗に縒り合わされていた糸が、だんだんと解れていくように。サームの心は、ランプの気怠げな光のなかで、静かに静かに乱れていった。

Non mihi, non tibi, sed nobis.


ーー顔でも洗って来ようか。そう思い始めていた時、こん、こん、こん。と、伺うようなドアノックの音が、軽やかにサームの鼓膜を震わせた。ああ、こんな時に、なんと間の悪い。そうは思ったが、居留守を使う訳にはいかないし、書類ならば受け取らなければ仕方がない。入れ。そう言ったサームの声は、何だか淀んでいた。
「失礼します」
鋭い銀の針を刺すような声がして、重くて鈍い色をしたドアが開いた。ドアの隙間から、夜の冷えた空気が、じわじわと足元ににじり寄る。ドアの向こうの闇から現れたのは、
「ああ、ドゥシャか。どうした」
ーードゥシャだった。彼女は、王宮に使える文官である。女ながら、そこそこ武の腕も立ち、頭の回転も速い切れ者だ。サームとは仕事上でのつながりは薄いものの、彼女の兄がサームの部下ということもあってか、親しくしていた。もどかしい距離があるな、とは、サームは認識していたが、浅からぬ思いを抱いているのは事実であった。そして、ドゥシャの方も同様に。
そんなドゥシャは、端正な顔に少し勝気な微笑みを浮かべつつ、
「いえ? お疲れでしょうと思って。残業に、書類仕事の大変さは、私も承知しておりますゆえ」
そう言って、左手に持っていた盆をサームに差し出した。それには、サームの好むナッツの入った小皿と、芳しい香りが立ち上るティーポットが乗っている。
ーー私の好みの組み合わせ。サームは内心喜んだが、その反面、首を傾げていた。彼女がなぜ、己の好みを把握しているのか、と。自分自身、自分の細かい好みについては、誰かに喋った記憶もなかった。
「すまないな。夜も遅いのに、気を遣わせてしまった」
「構いませんよ、そんなの。それにしても、こんなに薄暗くては、目を悪くいたしますよ」
「ところでーードゥシャ、おぬし、私の好きな茶葉と、木の実。知っていたのか」
「……ええ。存じ上げておりますよ」
「なぜ」
「良いではありませんか、そんなこと。ね?」
「気になるのだ」
サームが苦笑いすると、ドゥシャはふい、と顔をそらして、呟いた。
「サーム様の執務室は、いつもこの茶葉の香りが致しますし。ナッツはーー以前口にしておられるところを目にしただけで」
「ほう、やはりおぬしはよく見ているな。相変わらず、気が利くことだ」
ドゥシャの細やかな気遣いにサームは頬を緩ませた。そして、それと同時に、先ほどの渇きのような、飢えのような、そんな感覚を、胸の中に重苦しく抱えていた。はぁ、と熱い息が漏れそうになるのをこらえ、サームは立ち上がる。
ドゥシャは、カーテンの閉まった窓を見、眉を吊り上げながら言った。
「サーム様、今日は満月でございます。カーテンを閉めっぱなしでは、勿体無いというものです。気分転換もなさらないと」
言いながら、音もなく窓辺に近寄り、ドゥシャは、サッとカーテンを開け、窓も開け放す。
ーーサームは、無意識に、息を止めた。否、息をしてはいけないよ。誰かが耳元でそう囁くようだった。
差し込んだ青白い光が、ドゥシャの横顔を白い彫刻のように浮き上がらせた。その瞳は、サファイアが嵌め込まれたかのようにきらきらしている。窓から吹き込んだ強めの夜風が、彼女の艶髪をさらりを撫で上げ、あちこちへ遊ばせ、そして最後に、オイルランプの炎を吹き消した。ふっ、と月明かりが濃くなる。
「ね、素敵な月夜でしょう」
得意げに笑う彼女の背後にある夜空は、それはそれは見事なもので。真白い真円の月が、群青色に張り付いている。それは煌々と光を放ち、星々を霞ませながら、堂々としながら、彼女を照らしていた。
寄せては退いていく夜風が、倦んだ執務室の空気を洗う。それとともに、美しい夜は清冽に、鋭さを増していく。月明かりの下で微笑むドゥシャは、一夜に現れ出た幻影のようで、サームは慄然とした。そして、渇きが、飢えが、全身を回ってゆく。それが心臓に達したとき。乱れた糸を、縒り戻す時間は、もうない。夜が、本棚の陰から、机の下の暗澹から、自分の足元から。音もなく這い出て、サームを蝕んでいく。どうすればいいのか、わからない。逃げられないことだけは、なんとなくわかっていた。
ああ、本当に、良くないーー
窓から差し込む月光のもとから、ドゥシャを引きずり出す。そして、窓脇の壁に、彼女の細い手首を縫い付けた。サームは片手で彼女の丸い頬を撫で、そのあたたかさに胸を撫で下ろす。
「サーム様……?」
ドゥシャは困惑しながら、名前を呼んだ。サームは、それに返事をすることなく、言う。
「月の光は、どうもいけない」
「サーム様」
「月なんかより、おぬしの方が、よほど……」
「どうしたんです」
「どうも。……いや、完全にどうかしているよ、今のわたしは」
ドゥシャの手が、サームの胸を軽く撫でさすり、そして、そのままサームの唇に触れた。ランプの光も、月明かりも差し込んでいないはずの彼女の青い瞳は、それでもなおきらきらしていた。
「嗚呼……気が狂いそうだ」
「月明かりは人を狂わす、そう言いますけれど……」
「ドゥシャ、おぬしではなくて?」
「……さあ。そんな。サーム様が、私のせいで気が狂いそうだなんて」
一陣の風。冷たいそれに、ふたりの肌は震えた。
「私、どうすればいいのかしら。わからないわ」
肌寒い空気から逃げようと、ドゥシャは、縫い留められていない方の手で、サームの背中を抱き、その胸板に擦り寄ろうとした。
しかしサームはそれを阻止して、彼女の首筋に一瞬顔を埋め、そして。
「私ーー否、おれにもわからん」
ドゥシャの唇を、静かに奪った。
月光は、未だ冷たく窓から差し込んでいる。その横で、光から逃げるようにしながら、ふたりは、幾度も息を交わらせた。

やはり、気のせいではなかった。部屋の隅の薄暗がりから、本棚の陰から、机の下の暗澹から、自分の伸びた影から現れ出たもの。気のせいではなかったのだ。気のせいでないなら、ーーいや、気のせいになんかしたくない。

エクバターナの月は、2人のために、確かにそこに浮かんでいた。冷たく美しい光を湛えながら。