今日こそわが青春はめぐって来た!
酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。
たとえ苦くても、君、とがめるな。
苦いのが道理、それが自分の命だ。

「わたし、ふられてしまったの」……と、ドゥシャが懇意にしている町娘は泣きながら言った。
「彼はもうひとり、恋人が在ったの。わたし、口惜しいわ」
玻璃の珠のようななみだが、彼女の日に焼けた頬を滑り落ちていく。ドゥシャはそれを拭おうとしたが、やめた。痛みがわからない者になんと言われたって、それは慰めにはならないと思ったから。
昼下がりの路地裏には、柔らかな光が差し込んでくる。果物か何かが入っていたのであろう木箱に座って、ふたりはそれきり黙っていた。すると、

ーー美しい夜、おお恋の夜
喜びに微笑む
またとない甘き時間
おお美しき恋の夜よ!
過ぎ行く時は 戻ることなく
慈愛の情も遠く運び去る
時は過ぎ行く 戻ることなしーー

表の酒屋の親父が歌うのが聞こえてきた。なかなか粋な歌声だとドゥシャは思った。隣に座る娘の背中が、急に老人のようにクッと曲がる。彼女は顔を手で覆って泣いていた。指の隙間からこぼれ落ちるなみだが、昼下がりの光にきらきらした。
「そうよ、もどらないんだわ、失ってしまったものは」
しゃくり上げながらの言葉に、うん、とドゥシャは頷く。そして彼女の震える背中を撫でさすった。
「恋なんてそんなもんよ。熱病に魘されるようなものだわ」
そういったきり彼女はひたすらむせび泣いた。言葉をかけるのが憚られるほどに、どっと涙をこぼす。手から溢れた涙はあしもとの土にしみこんでいった。ううううう、動物が唸るように泣く彼女の背中をさすってやりながら、ドゥシャはじゃあ、私ももう罹ってしまっているな、とぼんやり思う。
熱病、とは言い得て妙だ。本当に熱があるみたいにクラクラしてしまうのだから。そこに現実も何もない、ただ夢見るように彼のひとを想うだけ。愚かだけれども、ドゥシャにとってはそれは溜息が出るくらい甘美なことだった。
重症どころの話じゃないわね、死んでしまうのではないかしらん。あるいは恋する乙女はみんな死にそうな思いで恋をするのかしら。
頭の片隅では馬鹿らしいと思いつつ、それでもやはり、愚かしくも私は、彼が好きなのだ。胸の奥が焼き焦がれる感覚がして、ドゥシャもなんだか涙を零してしまいそうだった。

[ バルカローレ


新しい演目が封切られてからというもの、ドゥシャの名はますますエクバターナに響き渡った。情熱の踊り子だのなんだのと騒ぎ立てられ、そんな呼び名こっ恥ずかしいし、ドゥシャも辟易していた。たくさんの観客、新しい踊り、新しい衣装、めまぐるしく日々が過ぎてゆく。踊ることは苦ではないからいいものの、金に物を言わせ言い寄ってくる男が増えたことには若干いらだっていたから、それを突っぱねる意志の強さも、以前よりさらに強くなっていた。

「おぬしの活躍も目覚ましいものだなあ。白皙の一瑶から、情熱の踊り子だと。ーーおぬし、何かあったのか? 今までとは雰囲気が何となく違う」
道端でちょうど行き合ったクバードは、ドゥシャの顔を3秒ぐらい見つめた後、そう言った。さすが、女の変化にはとかく目敏い。ドゥシャはちょっとうんざりしてしまった。
「情熱の踊り子だなんて、やめてくださいな。……雰囲気? 雰囲気って、どんなふうにですか?」
ドゥシャがそう問えば、クバードは顎に手を当て少しの時間唸ったあと、
「この前までのおぬしは例えるなら百合だったが、そうだな。ーー今は薔薇って感じがする。情熱の薔薇と言うだろう?」
うんうん、と自ら納得している。「そうですか? ……よく、わかりませんけど」とドゥシャは首を傾げた。派手になったということだろうか。……まあ、確かに最近は身なりは特に気にしてはいるけれど。でも……。
「まさかーー恋でもしてるのか? ドゥシャ」
クバードが耳元でさらっと言った言葉に、ドゥシャの心臓が宙返りをきめる。みるみるうちに顔に血が上っていくのがわかる。その様子をみて、にや、と笑ったクバード。
「図星のようだな」
いとも簡単に見抜かれてしまい、ドゥシャは何も言えず目を泳がせるしかなかった。クバードは追及の手を緩めようともせず、さらに畳み掛ける。
「その相手ってのは、俺か?」
「ち、違いますよっ!」
ドゥシャが光の速さで否定すると、クバードは勢いを削がれたような、至極残念そうな顔をして腕を組んだ。
「じゃ、誰だ? 俺以上の色男なんだろう」
「……秘密です。誰にも言いません」
ドゥシャは赤い顔でいたずらっぽく笑った。
「なに、少女でもあるまいに……全く厳しいことよ。やはりおぬしは難攻不落の城だな」
クバードも、苦く笑って肩をすくめた。


「おい」
「……なんだ」
クバードのなんだか上機嫌そうな声に、シャプールは努めて冷静に、言葉を返した。ーー何をそんなにニヤついているのだ、仕事中だというのに。小言を口に出そうと思ったが、いま王宮内には王の賓客がおられる。言い争うようなことは避けねば。シャプールはグッと口をつぐんだ。
「ーードゥシャ殿のことなんだがなぁ」
「……彼女がなんだ。さっさと言わんか」
いやに勿体振るな、とシャプールはますますイライラし始める。その様子を見て、クバードはさらに顔をニヤつかせ、言った。
「ドゥシャ殿の最近の目覚ましい活躍……情熱の踊り子などと呼ばれるようになったのはおぬしも存じておろう。なんせおぬし、ドゥシャ殿のところへ通っているのだからな」
「なっ!? きさま、なぜそれを……」
「まあそれは良いだろう。まあそのドゥシャ殿だが、どうも好いた男ができたらしい。それが情熱の、などと呼ばれた理由であろうと俺は読んだ訳だ」
「すっ……」
好いた男。その言葉に、シャプールは頭を何か重くて硬いもので殴られたような衝撃を感じた。彼女に好いた男のひとりくらいいたとて不思議ではないが、ーー
何なのだろう、このえも言われぬ気持ちは。悔しいような、悲しいような、いろいろな感情がごちゃ混ぜになってたまらない。ーー彼女に一歩踏み出す勇気もないくせに、こんな感情を抱くなど。
馬鹿らしくなって、シャプールは笑った。
「それを俺に言って、何になるというのだ、クバード。俺には、関係のないことだろう」
いっそ、自分自身を突き放して仕舞えばいいのだ。自分から先んじればいい。どちらにしろ苦しむのなら、俺は然るべき方へ行って苦しむべきなのだ。
クバードはあくまでも静かな声で、しかし問い詰めるような口調で言う。
「おぬしはそれでよいのだな。あれだけ会っておいて今更認めずにーー俺は呆れてものも言えんよ。ーー好きだったんではないのか、ドゥシャ殿のこと」
シャプールはうつむく。
「……それを言ってくれるな。俺は彼女を好きになるわけにはいかんのだ」
ーー何故?
そう問うたクバードのひと言が、シャプールのどこか深いところに突き刺さった気がした。目の覚めるような痛み。しかし、その痛みをも、シャプールは無視した。
ーークバードには分かるまい。分かってたまるか。
「それは、おれが俺だからだ……!」
獣が唸るような声でそう言ったきり、シャプールは黙り込んだ。クバードははあ?と言った顔を一瞬したが、シャプールの言葉を鼻で笑って一蹴した。
「どこまでも臆病者だな、おぬしは。それで万騎長だというのだからな」
「おぬしにはわからんよ。ーー俺は俺の責任を果たす。それだけだ」
ああそうかい。クバードのおざなりな返事が、王宮の広い廊下に、空虚に響いた。