この幻がなんであるかと言ったっても、
真実をそう簡単には尽くされぬ。
水面に現れた泡沫のような形相は、
やがてまた水底へ行方も知れず没する。

事実、シャプールはクバードを2発殴った。――本物の喧嘩になると誰も止められないので、手加減はしたが。
「ドゥシャ殿はな、その……初めてだったのだぞ! おぬしのその……口づけが!」
最初は互いに眉をひそめ、一触触発の雰囲気が漂っていたが、クバードはそれを聞くと、嬉しそうに顔をニヤつかせた。
「ほう。おれは幸せものだなあ! パルスいちの踊り子の初めてをいただけるとは。……ドゥシャ殿も俺のような色男に初めてを奪われて嬉しかろう」
「きっさま……おぬしのような男に唇を奪われるなど、おれだったらもう胃のものが逆流しそうだ。気色が悪い! 現にドゥシャ殿は逃げるように帰って行ったではないか」
「照れただけだろう。初心で可愛らしいではないか」
「どこまでも目出度い頭だなおぬしのそれは。照れるどころか、ドゥシャ殿は気にしていたぞ。おぬしに唇を奪われるという屈辱的な、」
「おぬしこそなんなのださっきから。ドゥシャ殿、ドゥシャ殿と連呼して。怒鳴られこそはすれ、殴られるとまでは思ってもいなかったぞ。――なんだ、おぬしも懸想しておるのか?」
勢いよくクバードを詰っていたシャプールの口が、とうとう言葉を紡げなくなってしまった。心なしか顔も赤い。
「図星か。童貞にはちょっといい女すぎないか、ドゥシャ殿は」
にやり、とクバードが笑う。「や、喧しいわ。それに懸想なんぞ、……そんなわけあるか」シャプールの先ほどまでの言葉の勢いはもうない。しかし、一瞬いいよどんだあと、水を得た魚のようにその口吻の勢いを取り戻した。
「ただ、……そうだ、憐れなだけだ!あのような美しくいじらしい女性が、おぬしのような奴に目をつけられるのが!」
そういって、ドスドスと音を立てながら、シャプールはクバードの前から姿を消した。クバードはにやついた顔から一転、心底嫌そうな表情を浮かべ、
「あやつの口からいじらしいなどという言葉が出るとは。そちらの方がよっぽど気色が悪いわ」
その逞しい腕を組んだ。
「『美しくいじらしい』――彼女の前で言ってやれば、そこそこ口説き文句になったものを」

Y みずいろ


今日の舞台が、もうすぐ始まろうとしている。水色の衣装を身に纏いながら、ドゥシャは鏡の向こうに立つ自身を見遣った。
――上手くいくかしら。
――ええ、きっと上手くいく。だって私は貴女だもの。
鏡の中のドゥシャはそう答えた。まるでオアシスの女神様みたい、と楽士たちも口々に言ってくれたけれども、なぜだか彼女の心は晴れない。ここ最近ずっとだ。何かが物足りなくて、私は頻りに何かを欲している。それはなんなのだろう? ――そう自問するように、耳にぶらさがっている耳飾りに触れる。その耳飾りはもう、赤い宝石がついたあれではなく、深海色をした雫のようなもの。それがどう、というわけでもない。しかし、あの耳飾りをつけていれば、またシャプールに会えるかもしれない、と思っていたのだ。なんの根拠もなく。
「そろそろ、」
背後から声がかかる。
「うん」
自らの金糸の髪を掻き撫でて、ドゥシャは舞台に向かって歩き出した。
――要は、一目でもいいから会いたいんだわ。
ドゥシャは踊りながら、そう思い至った。その答えは自明であったはずなのに、どうしてか今この瞬間、気がついた。目の前には大勢の観客がいる。しかし、その中に彼女が会いたいと思う彼の姿はない。どうしてこんなに、また会いたいと思うのか。自分でもよくわからない。でも、彼のーーシャプールの何かがドゥシャの心を擽るのだ。ひどく心が苦しくなって、踊りに一層力がこもる。
どこかがじりじりと焦げている。じわじわと私を追い詰めている。でもそれは決して厭なものではない。
問いの次に問い。そしてまた問いが生まれる。堂々めぐりだ。
ドゥシャは、どことも知れぬ遠くへ、手を伸ばした。


「今日の踊りはまた一層――素晴らしかったですねえ。本当に迫真、と言うのでしょうか。優雅なだけでない新たな側面ですな。ますます魅了されましたよ」
今日の舞台が終わり、パトロンや他の観客たちは、口々にそう言いながら帰って行った。いつもドゥシャの踊りを見ている楽士や衣装を作る者も、口には出さないがそう思っていた。
最近のドゥシャは、以前とどこかが違う。ただ『綺麗』というだけでなく、どこか湿り気帯びたような『美しさ』、そのようなものが滲み出ていた。
しかしそんな評価はどこ吹く風、ドゥシャはぼんやりしながらチャイをすすっていた。
その横顔は、紛れもなく恋する乙女のものであった。